いろいろ
日常化
Posted in いろいろ, しらせる, もくろむ on 9月 25th, 2011 by NGO – Be the first to comment大変興味のある記事を見付けた。
小屋(文化会館)などの自主企画(いや、映画館やスポーツ観戦も同様か…)の役割とは、一般愛好者に対して非日常の提示だと思っている。人々はわざわざ日常にはない物を求めて来場し一時の感動や興奮を味わい、そして日常に戻っていく。だからこそ、そこで求められるのは質の高い非日常の提示なのだと思う。
その質の高い非日常で感動した人が、いずれ「自分もそうなりたい」と夢を見て芸術家を目指すようになるかもしれない。
とはいっても、あこがれた非日常を自身の日常に取り込もうとするためには気の遠くなるような作業が待っている。鍛え訓練しなければその非日常は手に入らないからね。
独りではなかなか難しいから資料を漁ったり誰かに習ったりして、現状の日常の中でこつこつと長い時間かけて憧れた非日常を身につけていく。
非日常の体験によって触発されるべき非日常の日常化だ。
しかし、小屋の企画(質の高い非日常の提示)だけではそのため(非日常の日常化)の発想や仕組みまで手が回らない、もしくは上手く機能しない、という現実から逃れられないままのように思う。非日常は一瞬だからどうしても単発の打ち上げ花火に終始し、ある程度の長い時間経過を伴った変化を期待する企画は難しいのかも。
教育型企画のアウトリーチとかワークショップなどの企画も為されてはいるが、それすらも非日常の提示で止まってしまう場合がほとんどではないだろうか。
この三重文化会館の試み、非日常と日常を取り持つという意味で大変期待が持てると思うのだ。
企画の主催者である小屋が積極的に非日常と日常を取り持つ。
そのことによって、観客は目指すべき憧れとしての非日常を知り、演じ手は生業(なりわい)として質の高い日常化を可能にし、小屋はその過程を知る事により、三者が時間の経過を伴って繋がっていく手がかりになる期待がある。ここから何かが動き出すと良いなぁ。
しかし、やはり多くの制約があるようで、それらを打ち破っていくために事業主である文化振興事業団担当者の並々ならぬ努力と献身的な働きによって成り立っている、ということが少し気になる。
「この担当者ありき」の企画に留まっていると、模倣したくても(継続したくても)なり手がおらず頓挫する、ということになりかねないから。
1年
Posted in いろいろ on 9月 24th, 2011 by NGO – Be the first to commentエルシステマの存在を知ってから1年が過ぎた。
その間、感動し、調べ、羨望し、想像し、考え、目論み、決意し、試行し、はたらきかけ、挫折し、再起し、の繰り返し。
もちろん、当初より一筋縄ではいくまいと思っていたから、前進が遅々としていることで失意しているわけではない。
むしろ、小さな子供達の限りない可能性を目の当たりにして、決意は益々強くなっている。
前進を加速させるためには工夫がいるのだが、なかなかその展望が見えてこない。どうしたものやら。
NHK BSプレミアム 9月23日(金)
シリーズ 釣って、食べて、生きた! 作家 開高健の世界
「第2回 最後の冒険~カナダ・バンクーバーアイランド~」
を見た。彼自身の言葉や行動の端々から感じる諸々は、今私が直面している事々に見事にオーバーラップし突き抜けていった。凄い。
いやいや、どうしたものやら、なんて呑気に言ってる場合ではない。
既に1年は苦しく過ぎ去ってしまったのだ。この先もずっとずっとその苦しさに耐え続けるほど余裕はないし、なによりそこまで人間が出来ていない。
にもかかわらず、この重要性がさらに重くのしかかってくる恐怖にも近い感情は如何ともし難い。
めげることなくさらに前進させるために必要な物で最優先なのは夢を大いに語り合える仲間だろうと思う。
見付けなくては。
この指とーまれ!
次の手
Posted in いろいろ on 8月 31st, 2011 by NGO – Be the first to commentを考えあぐねている。
物事を動かすためにはエネルギーが必要なのだが、このままでは不足気味だと考えはじめた。
もちろん、動かしていく先やその道筋はある程度見えているし、現場もそれを望んでいると思うが、なかなか物事が動いていかないのだ。
人的、財政的、組織的、等々様々なエネルギーが充分でない。
仮に財政や組織が脆弱だったとしても熱意ある(個人的であっても)人的パワーが有れば少しずつ動きそうなものだし、人がいなくても懐が豊かであれば外注なりなんなりで足りないものを賄うことは可能かも知れない。
でも、結局ものの始まりは「人」の熱意なんだろうな。勇み足だろうと時期尚早だろうと動き始めは多少の無理が不可欠じゃないのかな。
「石橋を叩いて壊す」事にはしたくないと思う。
様々な可能性を考なければ。
まずは自分自身が動くこと、なのだが。
あの日
Posted in いろいろ on 6月 8th, 2011 by NGO – Be the first to commentコンプリートした大判コミック全8巻を、何度目になるかわからないがもう一度最初から読もうと、目の前に積み上げ、炬燵に入り、1巻の数ページ目を読んでいる時だった。
我が家がミシッミシッといいだす。食卓の上のペンダント灯がゆっさゆっさと揺れ、タナゴの入っている60cm水槽の水がちゃぷんちゃぷんしてる。
地震だ!長いぞ。大変だ、こりゃ大きい。
とっさにテレビをつける。
2011年3月11日昼過ぎの事。
この日この時間以降全てのテレビ放送はしばらくCMが全く無くなり、全局必死に地震関連情報を報じた。津波もリアルタイムで映像を見た。原発もどんどん大変なことになってゆく。世の中とんでもないことになっている。
ずっとテレビから離れられなかった。冷や汗をかきふるえながら凄まじい映像を見続けた。
そして、「一体オレは何をやっているんだ!」と強く強く思った。
渦中の人たちや即座に動き出す回りの人々は、このとんでもない災害を前に全精力をかけて立ち向かおうとしているのに、自分は「音楽の理想」だの「教育の力」だのと立派なこと言いながら、けれど結局何もやってないじゃん!さらに、それこそ被災地に飛んでいって何でもいいから活動し、なにかしらの力になる、という行動すら出来ない自分がいた。
被災者のため、のみならず自分のためであっても何も出来ていない自分がとてつもなく情けなく恥ずかしかった。
数日切れ目無くテレビを見続けて動揺していた心が少しずつ落ち着きだし、前に進むにはどうしたらよいか考えることができるようになった。
そして、「自分がやるべき事を、必死に精一杯やること」が今の私ができること、とごく当たり前の回答に行き着いた。
それからいくつかの事柄を心に決め次々実行した。
どうなるかわからないが、とにかく動き出さなくては話しにならない。
体裁なんか構わない。なりふり構わず行動すること。やるしかないのだから。
もう後戻りはできない。決死の覚悟で前に進むのみ。
しかし、随分回り道をした。
ますます
Posted in いろいろ, もくろむ on 6月 8th, 2011 by NGO – Be the first to comment苦しくなり、そこここから見たくないハガキが届くようになる。それを見る度に気が遠くなる。
本来やりたいことをすべき時に最大限動けるのようにするため、定職を探すことも一時しのぎの稼ぎに出ることもせずにいたらそうなるのは必須。
片方ではN-systema実現のために盛り上がっている。
夜な夜な集まり音楽の夢を語り教育の理想を論ずる。
そんな中から少しずつ攻め口は見えてきた。
まずは小学生を集めて金管バンド講座をやる方向。
しかし、楽器整備をする予算など無いし、一つの小屋(音楽ホール)に最初から沢山人を集められないだろう。
小学校の金管バンドとタッグを組めないかという発想が生まれるが、もちろんそこは一筋縄ではいくまい。警戒されて排除されて終わるだろう。
そうならないよう、とにかくとっかかりを作る為に我々が図々しく地元の小学校へ乗り込んでしまおう、という企画をした。いわゆる出前指導だ。
教育委員会に話をつけ、校長会を通し、現場のヒアリングをし、なんとか実現にこぎ着けそうになってきた。たぶん現場は指導で困っているのだ。来てくれるのだったら拒まない、という雰囲気。
地元自治体の小学校は全6校。そのうち部活動で金管バンドがあるのは5校。その5校とも出前指導の受け入れ体制を作ってくださった。
ようやく次年度から動き出しそうな気配。予算理由から1校あたり年間6回ではあるが、「有る」と「無い」では全く違う。
企画してから目処が立つまで数ヶ月。行政の動きにしては最速なのかも知れない。
企画側の協力体制は素晴らしかった。
問題はそれだけでは生活が成り立たないこと。
最重要かつ緊急な問題だ。