Archive for 6月, 2011

情報の続き

Posted in しらせる on 6月 29th, 2011 by NGO – Be the first to comment

忘れてはいけない本家本元のWEB。El Sistema の本部 FESNOJIV のホームページ。
英語ページにリンクした。

日本における一番正統な情報源サイトはここだろうか。日本・ベネズエラ音楽交流支援委員会ブログ
更新はポツポツな感じではある。しかし、たどっていくと様々な資料を発見できる。

上記日本・ベネズエラ音楽交流支援委員会の事務局長でいらっしゃる佐藤正治氏が所属する音楽事務所KAJIMOTOエルシステマに関する情報ページ
エルシステマ関連ベネズエラアーティストの情報などもここで入手できる。

以前も紹介したエルシステマ現地視察レポートページ。

などなど。

El Sistemaの

Posted in しらせる on 6月 27th, 2011 by NGO – Be the first to comment

情報について少し触れてみる。
「エルシステマ」で検索したらそこそこヒットするようにはなってきたけれど、正確に知るには、書籍やDVDなどをじっくりご覧になることをオススメする。

DVDではこの辺りだろうか。
El SISTEMA by EuroArts Music。社会状況や成り立ちなども良く解る。
日本語字幕版(ドキュメンタリー『エル・システマ』~音楽が人生を変える!有り。すこしだけYouTubeに動画がある。ご参考に。
また、「プロミス・オブ・ミュージック THE PROMISE OF MUSIC」も手に入りやすいか。こちらはドゥダメルとシモンボリバルユースオーケストラが2007年ボン・ベートーヴェン音楽祭に向けて準備していく様子を交えながらのドキュメンタリーである。本番[ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」、ホセ・パブロ・モンカーヨ ウアパンゴ ヒナステラ 終幕の踊り(マランボ)]の収録付き。日本語字幕付き。

書籍はこれ。エル・システマ 音楽で貧困を救う南米ベネズエラの社会政策 山田真一 著 社会評論社 出版。私もまず始めに読んだもの。上記THE PROMISE OF MUSICと内容が近いので合わせてみるとより解りやすいかも。

ほかには、NHK BS2で放送したことがあるドキュメンタリー「オーケストラは人をつくる」(ニコ動にて 、4、 )とか、NHK番組「芸術劇場」でのエルシステマ解説、とかある。

また、WEB上で様々発信している方々も少しずつ増えてきた。
エルシステマで検索してみてください。

思いの外

Posted in つたえる, よろこぶ on 6月 26th, 2011 by NGO – Be the first to comment

エルシステマについて県内吹奏楽関係者のみなさんに興味を持っていただけている事を先日知った。

昨年秋、ここでご紹介している演奏会について、県内吹奏楽関連への告知アドバイスなどしたことがある。実際の演奏会でどれくらいの集客効果があったか解らないのだけれど、それが功を奏して少なくともエルシステマ理念について多くの方々に深く興味を持っていただけていたのだ。
「これ、日本でこそやるべきことだよなぁ」
「長久手で実現すると良いね」
などなど。
さらに、「まだ、ほんの手始めですが町内の5小学校の巡回指導を始めました」と報告をすると、「それは良いことを聞いた。」とおっしゃって皆さん目を輝かせていただき、様々なご意見やアドバイスをいただけたりもした。

しっかりお伝えできさえすれば充分ご理解いただけるのだ、と力強く思うとと共に、きちんと周知していく大切さを痛感した。

一通り

Posted in いろいろ, たかめる on 6月 20th, 2011 by NGO – Be the first to comment

小学校を回り終えた感想。

人数の多いところ、少ないところ。
行事直前のところ。
まだ新しいメンバーの担当楽器が決まってないところ。
楽器が少し不備だったり、足りなかったり。

様々な条件のもと、活動内容もそれぞれ。

でも、確実に解ったこと。
それは、どの子供も等しく素晴らしい可能性を持っているということ。

見逃さず、見過ごさず、誠心誠意丁寧に。
それらをもっと確実に進めていくための道筋をつけていきたい。

歌うことって?

Posted in たかめる on 6月 16th, 2011 by NGO – Be the first to comment

昨年、ある高校バンド指導のために書いたモノ。
うまく行かないことに対して「こうしなさい!」ではなくて、音楽のヒントとして漠然と伝えたかったのだが。

音程は合わせることができる。音色もそこそこ良い。もちろん縦も良く揃ってる。
でも、予定調和の域を出れらなくて、突発的な変化に対応できず、だから良い意味でのスリリングさや緊張感に欠けてしまう場合がある。そんな時に以下のこと思いだしてほしい。
音楽の楽しさはその先にあるのだから。
(もちろんそこに行き着くまでがとっても大変で、行き着くだけでも素晴らしいことは良くわかっているよ。)
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2010/07/30
歌うことって?

楽譜にひと言「espress.」って書かれてる。
「感情的に」ってどういう事だろう。歌うってどうやるんだろう。

はじめに
日々の練習でメトロノームやチューナーを使って正確なリズムや音程を身につける。
これって歌うこと?
それとも、感情的な音楽表現にはあまり必要ないこと? だってテンポは揺らすしビブラートで音程はずらすし…

正確な演奏と感情的な表現。一見、矛盾しているように思えるね。

二つの大切なこと
実は、機械のような「正確なリズムや音程」と「歌うこと」は対極にある。
どちらも大切。天秤の両方のお皿。バランスが取れていないと破綻する。
ただ、役割が違う。
正確なリズムや音程は単なるテクニックだが、演奏には必要不可欠だ。
出てきた結果としての正確な音が大切なのではなく、正確にリズムや音程をコントロールできることが重要。
自分の意志どおり正確に発音できる事、というテクニックなのだ。それを習得するための練習は文字通りトレーニングだ。
そこには「+25セントの音程で吹きたい」とか「Tempo60で7連符を」といった具体的な目標とその正解を知っていることが肝要。
そう、トレーニングには正解があるのだ。
ただ、それが出来たからと言って素晴らしい音楽表現が出来上がるかというと、残念ながらそうたやすくはない。

テクニックと表現とは?
さて、テクニックだけでは表現になり辛い。それだけでは単なる軽業だ。軽業も見事であれば拍手喝采だけどね。それはただ「すごーい!」で終わってしまう事が多い。
表現とは、そのテクニックを余すことなく効果的に使うことだ。
野球のピッチャーで例えてみる。
あるピッチャーは時速150kmのボールを誤差5cm以内のコントロールで100%投げることの出来るテクニックがあったとする。(この習得はとてつもない苦労があるだろうな。ほとんど不可能だろう。)
しかし、それだけではそのとてつもない苦労をよそにいずれ打たれてしまだろう。コントロールが良いから余計に。慣れてしまえば球筋読まれるからね。
ではどうするかというと、「配球」という事を考える。次はどこにどれくらいの速さで、どんな変化球で、と。いつも速い球ばかりではなく。
それが表現だ。バッターの裏をかく思考と駆け引きで如何に打たれないようにするか、腕の見せ所だ。
逆に、その配球が天才的でも、思ったようにボールを投げるテクニックが無ければ、天才的な表現は全く活かされない、という事は理解できるよね。
一方、150kmのボールは無理で120kmが精一杯のピッチャーでも上手に配球すれば打たれない工夫は出来るかも知れない。

歌う事
「歌う」とは何でもかんでも感情的に好き勝手すれば良いのではない。
「歌うこと」にはある一定のセオリーが存在する。その詳細な説明はここでは割愛するが、セオリーを知る一番の方法は素晴らしい演奏を数多く聴くことだ。
たった一つの同じフレーズでも歌い方は千差万別。それを自分の引き出しに如何にたくさんしまっておけるかが鍵だ。

大切なこと 一つめ
音は連続して動いている。
私は良く「音の運び」という言い方をする。
水は必ず低い方へ流れる。堰き止められれば溜まり、落差が大きければ滝になる。そして水の動きは全て連続している。
自然の摂理に従い流れる水のように、音楽も流れるのです。
その流れが、特に起伏激しく変化を伴い劇的に運ぶことを「歌う」というのだと。
ポイントは「自然に連続すること」
ジェットコースターは、どんなに激しくても必ず最初から最後まで動きが連続している。 途中で切れていたら、それは死を意味しますね!

大切なこと 二つめ
動きは直線ではない。
自然界に完全な直線はあまりないですね。せいぜい垂線と水面くらいかな。ん?水面は地球の表面に平行だから直線ではないか。水平線は丸いよ。
富士山の裾野も、煙突の煙も、オーロラも、大津波ですら。
直線的な動きはエスプレッシヴォとしての「歌うこと」にはあまり似合わない。自然でなくなるから。

大切なこと 三つめ
必ず誤差がある。
メトロノームと寸分違わぬカウントから、若干ずれる事もある。いや、ずれて良い。
その誤差の中に、人の営みがある。
それは、場合によってはエスプレッシヴォと言ったり、別ではノリと言ったり。
そのズレを意識的に人がコントロールする。何となくではなく。
「意識的に」が表現の源。 「歌う」ことは波間の昆布の先の方。 「どうしたい」という気持を「テクニック」で具現化する。それが表現。

大切なこと 四つめ(実はここが一番のポイント)
考え過ぎない
考えるのではなく、感じる。五感感覚全てを使って。
人の感覚は、思ったより感度は良く、その記憶は必ず自分のどこかに残っているはず。
自分の感覚を自分自身が信じないで誰が信じてくれる?
向上のポイントは、演奏している最中はなかなか自分を客観的に見れないので、録音して何度もモニターすること。
そして、その演奏を出来るだけ客観視して、思った通りに出来ているならばOK。
少しでも気になるなら徹底的に直す。
理論武装なんかは後からすればよい。

大切なこと 付け足し
過剰なほどの自信
誰もおそるおそるの音楽は聴きたくない。
自分が感じた感覚と、それを具現化する自分のテクニックを信じる。
そのために積んできた練習を信じる。
もし、自信が持てないのなら、それは単なる練習不足。
あがり症や緊張しいだったら、なおのこと120%の自信が持てるまで練習を積み上げる。

自信がない→緊張する→上手く行かない→練習したくなくなる→出来ない→自信がない→…
負のスパイラルを断ち切るにはどこで止めるのが一番手っ取り早いか?
手始めにウソでも良いから自信を持つことだろう。
そうしたら、
何かのはずみで上手くいくかも知れない→欲が出る→練習したい→自信が持てる→…

蛇足
テクニックの向上
「やりたいこと」(表現)と「出来ること」(テクニック)のバランスが取れていないと不幸だということに気が付いたかな。
皆さんが、朝から晩まで一日中楽器と格闘している他所の人たちと違うのは、テクニックを磨く時間が圧倒的に少ない事。
表現したいことはある程度自発的に持っているみたいだから、そちらはさほど遜色はないと。
だから、その圧倒的に少ない時間を効率よくするには、練習時間内で音を出している時間をもっと増やすことだ。
頭付き合わせて悩んでいる暇は無いと思うのです。

無駄な練習を長時間やっても意味はないけれど、効率的で効果のある練習を途方もなく長時間高密度でやっているバンドだってたくさんあるんだよ。

結局
「歌う」って事は、今までの経験と引き出しの中の情報量の多さ
「センス」の有る無し良し悪しなんて全く関係なし。

無かったら取り込めばいい。悪かったら磨けばいい。

あれれ、身も蓋もない話になっちゃったか?
ま、魔法は無いよ、って事で。
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この時期になると

Posted in もくろむ on 6月 11th, 2011 by NGO – Be the first to comment

コンクールに向けて指導する機会が増える。
高校の場合が多いのだけれど、それぞれ少しでも良い演奏に向かって努力されている。

どの団体のどのメンバーも、楽器で音を出す事については、よく勉強しているし練習もしている。最近は溢れるほどの情報があるし技術的な鍛錬はやればやるほど身につくはずだから、経験年数等による程度の差こそあれ、的外れでない奏法はマスターできている場合は多い。楽器も整備されてきているし性能の良い楽器を使っているともっと楽に演奏できたりする。

にもかかわらず、全体では「うー、これはどうしたものか…」となってしまう場合がある。もちろんそれぞれ様々な事情があって同列には語れないだろうが、考えるべき事は大きく二つあると思う。

一つは「音楽の成立」という文脈の付加。平たくいえば「センス」かな。
「音」を「音楽」にする力。特に吹奏楽は「サウンド」重視だから音が良ければ全て良し、みたいな事になっていて「いくらなんでもそれはおかしいでしょう」という音楽が出来上がってしまうことは案外多い。
それをいわれてしまったら身も蓋もない、と思われるかも知れない。しかし「センス」は決して持って生まれたものだけではないと思っている。磨くものだと。
ただし磨くのに効果的な時期はあるかも。できれば早い(若い)ほうがいいのでは…。遅くても可能だが苦労は増すかも知れない、ということだ。

もう一つは「アンサンブル力」という技術方法論。
どうやって音を寄り合わせていくか。摺り合わせていくか。
個々の楽器奏法が上達していけば自然にアンサンブル力が伴っていくはず、と誤解しているのではないかと感じることは多い。技術があれば楽になることは確かだが、アンサンブル力向上の根本的解決にはならないと思う。

「オーケストラは合意することを前提に集まった集合体」というアヴレウ氏の言葉にはアンサンブルを向上するための全てが詰まっていると思う。関わる全てのメンバーが納得・合意するためにどのような前提が必要で、皆が何をしてそこを目指すか。その視点はとても大切だが、現状ではすっぽりと見落とされているとさえ感じる。

例えば、「私の棒のテクニックがないからみんなの音楽がうまく運ばないのです」とのたまう指導者(指揮者)がいらっしゃるが、それは上記2つ両方の問題が絡んでいるのに気が付いていない。仮にいくら棒のテクニックがあったって、その前に大元の音楽磨かないとテクニックの意味が無いんじゃないかな。

それら前提が乏しいところでいくら楽器の技術を磨いてもなかなか効果は出てこないようなのだ。
吹奏楽がいつまでたっても世の中の「音楽」として認知されない原因はそこにあるような気がしている。

ということで、早い段階でこれらの力を養っておきたい。
何も音楽という狭い世界だけとは限らない。センスを磨くのは文学だってファッションだって食べ物だって同じだし、合意形成の方法習得は日常生活のあらゆるところで可能だ。

この2つの力を楽器奏法技術以前に身につける事ができていたら、テクニックという第3の力と三つ巴相まって飛躍的に吹奏楽が豊かになるはずだと思う。

だからこそ、いま私は小学校(その世代の子供達)にこだわっている。何でもどんどん吸収していく自由な感性を持ち頭や心の柔らかい時期、そして人として社会化を成し遂げていく時期。
N-systemaの出発点に小学校を持ってきたのはその理由からだ。

メソード

Posted in いろいろ, たかめる, もくろむ on 6月 10th, 2011 by NGO – Be the first to comment

を作り始める。

構想は色々あるのだが。どれも初心者のための合奏メソード。
まずは今すぐ必要になるであろう小学校金管バンドのウォーミングアップ用を作り出した。

とは言っても実際の小学生がどれくらいできるのか、とかどこまで要求して良いのか、とかまだ未知な部分があり、悩ましい。
打楽器もどこまでできるのだろうか。

とりあえずわからないまま書いて、実際に音を出しながら検討することに。

4月になって

Posted in つながる, よろこぶ on 6月 9th, 2011 by NGO – Be the first to comment

震災以降心に決めたことを動かし始めてゆく。
未知な領域にも足を踏み込んだ。
 --これはこれで大変興味深く新しいことを沢山知っていくのだが全く別の話。機会があったらまたその時にでも。--

そして、いよいよ実際に指導が開始され、記念すべきN-systema第1回。
先陣を切った小学校。
文化の家の方々。記録用ビデオカメラも回る。新聞記者も登場。そして私。
小学校の担当の先生方と直前の打ち合わせ。
緊張してる。

終了直後の記録は以下のよう。原文はここ
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2011/04/20
小さな小さな

一歩を踏み出した。
小さいけれどとても意義のある重要な一歩だ。

椅子に座った足が床につかずぶらぶらさせながら、それでもたくさんの小さな真剣な瞳が私を射抜く。
反応の早さはこれまでの経験をはるかに超える。
何の躊躇もなく間髪を入れず問いかけに応えてくれる。
小気味よいことこの上ない。
楽しい一時間半はあっという間に過ぎた。

みんなにとっては有意義な時間になっただろうか。
きちんと何か伝わっただろうか。

やり残しや言えずじまいは限りなく。
アレもやりたい。コレもやりたい。
とはいっても限られた時間の中でどれだけのことが出来るのか。
もっと時間が欲しい。毎日でも。
 

この先、この小さな一歩を僅かずつでも重ねていく。
苦難を乗り越え継続すること。
いずれ、たくさんの人が同じ一歩を重ねるようになり、当たり前な大きな道になっていくために。

今日はその始めの一歩が踏み出された記念すべき日。
Nシステマ始動。
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とてもとても新鮮で衝撃的だった。
開始直前、回りの全てのオトナは緊張いっぱいな顔だったのが、終わってみると皆口元が緩んでいる。自然ににこにこしてる。それだけ子供達のパワーが強力なのだという事なのだろう。

この可能性を伸ばさないでどうする!

メディア

Posted in いろいろ, しらせる on 6月 9th, 2011 by NGO – Be the first to comment

N-systemaの目論見は、昨年後半から僅かずつではあるけれど前に進んでいるようではある。
なかなか大きな実感は持てないが。

そんな中、いくつか取材を受け新聞に載る。記者の方々が興味を持ってくださり丁寧に話を聞いてくださる。またそのきっかけを作ってくださる方々もいてはじめて実現するわけで、たくさんの方々のご厚意がなければ広がっていかない。本当にありがたいことだ。
その反響を私自身がダイレクトに感じることはまだまだ少ないのだが、客観的な記録の意味としてはとても大切だと思っている。

一つ一つ根気よく積み上げていく事。
少しずつ広げていくこと。

あの日

Posted in いろいろ on 6月 8th, 2011 by NGO – Be the first to comment

コンプリートした大判コミック全8巻を、何度目になるかわからないがもう一度最初から読もうと、目の前に積み上げ、炬燵に入り、1巻の数ページ目を読んでいる時だった。

我が家がミシッミシッといいだす。食卓の上のペンダント灯がゆっさゆっさと揺れ、タナゴの入っている60cm水槽の水がちゃぷんちゃぷんしてる。
地震だ!長いぞ。大変だ、こりゃ大きい。
とっさにテレビをつける。
2011年3月11日昼過ぎの事。

この日この時間以降全てのテレビ放送はしばらくCMが全く無くなり、全局必死に地震関連情報を報じた。津波もリアルタイムで映像を見た。原発もどんどん大変なことになってゆく。世の中とんでもないことになっている。
ずっとテレビから離れられなかった。冷や汗をかきふるえながら凄まじい映像を見続けた。
そして、「一体オレは何をやっているんだ!」と強く強く思った。
渦中の人たちや即座に動き出す回りの人々は、このとんでもない災害を前に全精力をかけて立ち向かおうとしているのに、自分は「音楽の理想」だの「教育の力」だのと立派なこと言いながら、けれど結局何もやってないじゃん!さらに、それこそ被災地に飛んでいって何でもいいから活動し、なにかしらの力になる、という行動すら出来ない自分がいた。
被災者のため、のみならず自分のためであっても何も出来ていない自分がとてつもなく情けなく恥ずかしかった。

数日切れ目無くテレビを見続けて動揺していた心が少しずつ落ち着きだし、前に進むにはどうしたらよいか考えることができるようになった。
そして、「自分がやるべき事を、必死に精一杯やること」が今の私ができること、とごく当たり前の回答に行き着いた。
それからいくつかの事柄を心に決め次々実行した。
どうなるかわからないが、とにかく動き出さなくては話しにならない。
体裁なんか構わない。なりふり構わず行動すること。やるしかないのだから。

もう後戻りはできない。決死の覚悟で前に進むのみ。

しかし、随分回り道をした。

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