この時期になると
コンクールに向けて指導する機会が増える。
高校の場合が多いのだけれど、それぞれ少しでも良い演奏に向かって努力されている。
どの団体のどのメンバーも、楽器で音を出す事については、よく勉強しているし練習もしている。最近は溢れるほどの情報があるし技術的な鍛錬はやればやるほど身につくはずだから、経験年数等による程度の差こそあれ、的外れでない奏法はマスターできている場合は多い。楽器も整備されてきているし性能の良い楽器を使っているともっと楽に演奏できたりする。
にもかかわらず、全体では「うー、これはどうしたものか…」となってしまう場合がある。もちろんそれぞれ様々な事情があって同列には語れないだろうが、考えるべき事は大きく二つあると思う。
一つは「音楽の成立」という文脈の付加。平たくいえば「センス」かな。
「音」を「音楽」にする力。特に吹奏楽は「サウンド」重視だから音が良ければ全て良し、みたいな事になっていて「いくらなんでもそれはおかしいでしょう」という音楽が出来上がってしまうことは案外多い。
それをいわれてしまったら身も蓋もない、と思われるかも知れない。しかし「センス」は決して持って生まれたものだけではないと思っている。磨くものだと。
ただし磨くのに効果的な時期はあるかも。できれば早い(若い)ほうがいいのでは…。遅くても可能だが苦労は増すかも知れない、ということだ。
もう一つは「アンサンブル力」という技術方法論。
どうやって音を寄り合わせていくか。摺り合わせていくか。
個々の楽器奏法が上達していけば自然にアンサンブル力が伴っていくはず、と誤解しているのではないかと感じることは多い。技術があれば楽になることは確かだが、アンサンブル力向上の根本的解決にはならないと思う。
「オーケストラは合意することを前提に集まった集合体」というアヴレウ氏の言葉にはアンサンブルを向上するための全てが詰まっていると思う。関わる全てのメンバーが納得・合意するためにどのような前提が必要で、皆が何をしてそこを目指すか。その視点はとても大切だが、現状ではすっぽりと見落とされているとさえ感じる。
例えば、「私の棒のテクニックがないからみんなの音楽がうまく運ばないのです」とのたまう指導者(指揮者)がいらっしゃるが、それは上記2つ両方の問題が絡んでいるのに気が付いていない。仮にいくら棒のテクニックがあったって、その前に大元の音楽磨かないとテクニックの意味が無いんじゃないかな。
それら前提が乏しいところでいくら楽器の技術を磨いてもなかなか効果は出てこないようなのだ。
吹奏楽がいつまでたっても世の中の「音楽」として認知されない原因はそこにあるような気がしている。
ということで、早い段階でこれらの力を養っておきたい。
何も音楽という狭い世界だけとは限らない。センスを磨くのは文学だってファッションだって食べ物だって同じだし、合意形成の方法習得は日常生活のあらゆるところで可能だ。
この2つの力を楽器奏法技術以前に身につける事ができていたら、テクニックという第3の力と三つ巴相まって飛躍的に吹奏楽が豊かになるはずだと思う。
だからこそ、いま私は小学校(その世代の子供達)にこだわっている。何でもどんどん吸収していく自由な感性を持ち頭や心の柔らかい時期、そして人として社会化を成し遂げていく時期。
N-systemaの出発点に小学校を持ってきたのはその理由からだ。