8月
07
怒りの夢

誰かと何かを差し向かいで話し込んでいる。BAND(吹奏楽)絡みの話しだったと思う。
音楽の扱い方だったか運営のポリシーだったか、内容は詳しく覚えていないのだけれど相手が気に触ることを言ったのだと思う。
真剣に心の底から怒りを感じ、怒りの大きさではっきりと目が覚めた。覚めてからも怒りで震えていた。
昨晩寝入りばなのことだ。

特にこの数年、夏の時期、自分の非力に対して悔しさを刻み、何とかしてそこから抜け出す事に傾注してきたつもり。
今年もやはりその悔しさは感じたのだが、どうやら一つ段階が進んだような気がする。悔しさと同じかそれ以上の怒りに似た感情が生まれてきたのかも知れない。

先の夢の話しは、その直前に考えていた事に由来してたのだろう。つまり吹奏楽コンクールの在り方とその審査に求められる内容について。

それは例えば、数年前トモダチ作戦で希望の光を乗せて東北の空を飛び回ってたヘリが墜ちたことに対する短絡的な感情とか、今でも汚染水が溢れ続けているのに、生活維持するには電気がたくさん要るから動かせ、とか、自分ちの周りでは止めろ、といったりするのと同じレベルのモノとして自分は捉えてるみたいだ。

もちろん全てがおかしな事になっているのではない。誠実に賢明に物事が進んでいることも少なくないはずだ。
しかし、この大きなうねりは止められないのか。加速していくだけなのか。そのうち呑み込まれてしまうのか。

本日は愛知県大会2日目。
私と関わった団体も出演する。ぜひ舞台の上で音楽の愉しみや幸せを感じることのできる演奏をと、願う。

8月
05
珍しいお客さん

2日連続でお出でいただいた。
すだれの内側、網戸の外側。
お友達のヤモリは良く夏の夜に訪れてくれるのだけれど、この方は初めてだ。
日中ずっとこのまま日差しを浴びていたらしい。お家に帰れなくなっちゃったのかな。
日が暮れてきて風がふきだしたら、それまで全く動かなかったのに頭をきょろきょろさせたり羽根広げてみたりあたま掻いてみたり、活発に動き出した。弱っているかも、と心配だったけどいつの間にかいなくなってた。
珍客


身体が透けて綺麗。体長6cmくらい。
調べてみたけれどコウモリは種類が多いらしく種は特定できなかった。

明日も来るかな。

8月
04
Firebird

家捜ししてもどうしても見つからない本を再度手に入れようと古本屋めぐり。
先日から機会を見つけて何件もハシゴしているのだがなかなか見つからない。
焦ることはない、そのうち見つかるさ、とお気楽ではあるのだが。

せっかく巡るのだからついでに他も物色する。
で、見つけた。手塚治虫「火の鳥」朝日ソノラマ版。
火の鳥


6冊。これ、古本屋にはなかなか無かったんだよ。朝日ソノラマ版。
少々やけてるし、破れもありかび臭くもある。1冊105円也。

ネットでは1冊¥1000くらいで売ってるのを見かけたことがある。

既にあるものと合わせて全9冊。
残るはあと3冊。(太陽編 上 太陽編 下 別巻 ギリシャ・ローマ編)

この夏じっくりと読もう。

8月
03
読み返す

手元にある吹奏楽用メソード(各楽器用、合奏用)を片っ端から読み直している。
いろいろ読み落としがあるなぁ、と気付く。

こんなところにこんな事書いてあるじゃん。見落としてたぁ。が多い。
そうか、この意味ようやく判ったぁ。も多い。

「楽譜」とか「音符」とかだけに目に行きがちだけど、そこから何かを読み取ること。
メソードだって全く同じだな。一個の全音符の意味や背景を見抜き、より良く音にすること。

以下はあるメソードに記載されている一文。

音符とは、ある時間のある「高さ」と「長さ」を表したデジタル情報です
〜中略〜
隣接する各音符は一種の点グラフのようなもので、時間的(長さ)にも空間的(高さ)にも不連続にしか記すことが出来ません。
 JBCバンドスタディ 指導書 より

7月
31
お日様に

背を向けてる。全てが。

向日葵、ってお日様に向かって顔を向け続けるイメージがあったんだけど、違っていたのかな。
写真からはなかなかわかりにくいが、全て太陽と反対方向を向いている。

状況が良く判る写真を撮りたかったのだが難しく諦めた。普通に後ろ向いている画を撮れば良かったんだな。

駐車場に止まると目の前が目一杯の向日葵畑なんだけど見える花は全て裏側。
太陽だけじゃなく人の目も避けるように。
時間は午後3時過ぎくらい。
中に入り込んで振り向くと壮観なのだが。
向日葵1


ちょうど一番良い咲き具合みたい。
向日葵2

「ひまわり」の名前で知られている南信州の道の駅にて。

7月
29
吹奏楽コンクール雑感

怒濤の7月が一区切りついた感じ。大変だったなぁ。(この後はまた別の意味で大変だ。)

嫌いだ嫌いだ、と言いながらも、吹奏楽をやるからにはコンクールを避けて通るわけにはいかなくて結局どっぷり浸かっている。そして見誤る。なんだかなぁ…。

今年は、コンクールに向けての練習や本番で起こりうるアクシデントやトラブルの続出だった。良いことも悪いことも。
一つの団体で色々起こっているわけではないけれど、私と何らか関わりのあるそれぞれの団体で次々と起こるから、自分が疫病神だったのではないか、と思い始めている。

部活動としての崩壊、練習時の内容(これはまさに自分の責任部分)、本番時の大きなミス、タイムオーバー、コンクール規定違反、審査員として得点化することの出来ない評価の悩み、自分達が感じる演奏の出来と実際の評価の乖離、などなど。細かいことを上げればまだまだキリが無く。
どれも現実。だからこそ、その中で一つ一つ出来ることを積み上げていくしかないのだろう。

でもやっぱりどうしても、「金」「銀」「銅」「代表」だけでは計りきれない音楽的充実度があるということは強調したい。いや、百歩譲って「活動的充実度」でも良い。
学校吹奏楽は「人を育てる」ことが第一義で、それを楽器の技術習熟度や音楽の完成度を通して評価していくべきだと私は思っている。巷でよく聞かれる「あそこから来た生徒は確かに上手いけど高校では全然続けられないんだよな。どうやらどこ行っても同じ。」みたいになっちゃうのは成果主義に傾きすぎて大切なことを忘れちゃったかぁ、なんて思うわけ。
とはいっても吹奏楽コンクールは音楽演奏のコンクールだから本番での出来が成績順位に直結するのは当然だし、努力の結果目に見える成果や評価が欲しいのも当然だ。そのバンドの背景を演奏から明確に聴き取って点数化することは難しいから、出てきた「音」が最重要であることには間違いない。

しかし。

例えばこんな例。
審査した大会で、ティンパニ4発を横一列に並べている団体があった。演奏方法はマリンバのようにサイドステップを踏みながら、しかもヘッドの真ん中を叩いていた。それではきっと難しいだろうなぁ。他の楽器も同様な事がたくさん見受けられたが、中にはどうやったらそんなに器用に吹けるの、といったような音も出てくる。が、全体の演奏クオリティは決して良くない。いや、はっきり言って悪い。したがって評価としてはどうしても高い点は付けられない。
でもね。そこで演奏している人達の情熱は感じるのですよ。きわめて演奏しにくい方法でそれだけ出来るようになるには大変だったろうな、と。ただ、正しいとされている演奏の仕方を知らなかっただけ。今の世の中、手を伸ばせば正しい情報なんてすぐ手に入れられるからそれこそ努力不足だ、といってしまうことも簡単だけど、言い捨てて「はい、おしまい」ではあまりにも無責任だと。
何より、どう考えても正しくない情報の元で、一生懸命やっている生徒達がそれに気付いたときの落胆を思うと、いまのその情熱だけでも評価してあげたいなぁ、と思うのだが、結局「講評」という点数化できない曖昧なところでフォローするしかない。

例えばこんな例。
長い時間かけて少しずつバンドの状況が良くなってきた。人数も増えメンバー相互の関係がとても良くなって、それに伴って練習の仕方や運営の仕方など高校生としての自主活動が充分成り立っていく良い流れにあった。楽器の技術はまだまだ発展途上だが、たまにとても良い音がして相互の関係が見える音楽的なアンサンブルが出来るようになった。で、結果は「えー、どうしてそうなっちゃうの?」と言いたくなる低い評価。出てきた音の評価だけだとしても私には妥当だとは決して思えないのだが、コンクールである以上それは致し方ない。色々な考え方がある中での審査なのだから。しかしそうなると生徒達は今までやってきた努力を全面否定されたようなとらえ方をしがちだ。音楽的な思考とその表出方法を学び拙いながら表現という領域にたどり着こうとしていた諸君が「認められなかったのだ」とそのプロセスすら自己否定をし始めたとしたらこれほど残念なことはない。

だからこそ「音」の渦から「音楽」をきちんと嗅ぎ分ける力が必要なのだが、私自身全然力及ばずであった。
それは、次々と出てくる結果でわかるはずなのだろうが、始めは、なぜそうなるのか良く判らなかった。

そんな折、あるJAZZユニットを知る。私の中学時の後輩絡みなのだが『中3の姉と小4の弟による小さなJazzユニット「サファリパークDuo」』のことだ。
ユニットの説明といくつか紹介されている演奏動画を見ているうちに自分の中で何かが弾けた。

「自分は大切なものを忘れていた!」

そう、コンクールの魔物に振り回され大切なものを見失ったまま臨んだ当然の帰結としてコンクールの結果が返ってきたのだ。
偉そうなこと言いながら結局「金」「銀」「銅」に振り回されていたんだ。
なんということだ。
もう一度最初からやり直しだな。みんな本当にゴメン。

7月
14
午後2時

睡蓮鉢で毎年夏になると咲くヒツジグサ。
ヒツジグサ


睡蓮と一緒に入れていたのだが、いつの間にかこれだけが咲くようになった。
その名の通り、未の刻に咲く花で、その時間あまり家にいなかった私はきちんと咲いている姿を見ることは少なかった。
3cmくらい。

実は、とある水芭蕉園脇に流れている側溝の中から小さな株を拾ってきた物。
園の中の池で咲いた花が実を結び種を落とし、流れて側溝の中で芽を吹いたのだと思われる。
園芸種ではないからかとても強く、冬睡蓮鉢が氷で固まっても、春になると芽を吹き夏に咲く。

花言葉は「純潔」「純情」「信頼」だそうだ。

7月
09
凄まじい

事態に遭遇している。
うん、やはり凄まじいのだと思う。

あまり状況が把握できなかった段階で関わり、ある程度予想はしていたものの知れば知るほど「なにこれ!?」である。
詳細を書きたいと思うのだが、それはもう少し後になるかと。

じっくり書く必要のある内容だと思い、しかし今は連日「ピッチィーッ!」とか「合わせてー!」とか「聞けよっ!」とか「感じろぉーっ!」とかで、思いのほか疲れる。やってる最中はみんな素晴らしく集中してるし疲労感なんて全く感じないけれど、終わった途端、へなへなへなぁーと床に座り込んでしまうくらい。そんな時でも私自身はすこぶる充実してる。

ただ、これだけは今すぐにでも言いたい。

学校吹奏楽は良くも悪くも「教育活動の一環」。そこで体験し感じ身体に浸みたことは一生持って歩く。一生影響する。その大切な始めの瞬間に立ち会うのだから。
全ての吹奏楽部員が音楽の専門家を目指しているわけではない。むしろ目指す人はほんの僅かな一部だろう。しかも、そんな人は将来もっと深く音楽を勉強する機会を持つだろうから、少々の事があっても後々取り返しがきく。
だからこそ、学校吹奏楽の場ではきちんと深い音楽を知らしめ生きる糧としての豊かさを伝えるべきだと思う。アマチュアだからテキトーでよいのではなく、アマチュアだからこそきちんとした物を見せなければ!

そして、それが出来るはずの専門性の高い人達が、「たかが吹奏楽」「たかがアマチュア」と軽く見るのではなく、楽器の奏法やコンクール対策をさらっと示して「出来る出来ないはあなた達の能力次第」で終わってしまうことなく、奏法技術にしろ音楽性にしろ、じっくり「育てる」指向性を持ち、楽器を手にして目を輝かせている生徒達が一生音楽を好きでいてくれるよう真剣に相対するべきなのだと思う。

様々な難しい状況が背景にある事は承知の上。
でも次を育てなければ全てが先細りだ。

6月
30
2−3

最近FBの投稿で月旅行の話題が出ていた。
その時、懐かしいなぁと以前の投稿を探したが、ついでに「なぜ月旅行を思い立ったか」を思い出した。
本当は月旅行ではなく金星旅行をしたかったのだった。たぶん何かで金星に行ける事を知って、でも金星は少し遠くて無理だったから他に行けそうなところを探し、月旅行なら案外簡単に行けると知ったのだ。

そこまで記憶が戻ったところで、にわかに頭の中で結びついたことがあった。
そうだ。2−3はやはり金星人だったのだ。

????だろうな…。

荒川アンダーザブリッジのこと。

まず映画版『荒川アンダー ザ ブリッジ THE MOVIE』を観て、アニメ版・第1期『荒川アンダー ザ ブリッジ』(第1話〜第108話)、第2期『荒川アンダー ザ ブリッジ×ブリッジ』(第109話〜第200話)を観て、TVドラマ版『荒川アンダー ザ ブリッジ』(全10話)を観た。
原作コミックはまだ読んでない。

「かっぱ」の村長とか体操服少女の金星人「ニノ」とかミュージシャンの「星」とか訳の判らないキャラクターがぞろぞろ出てきて、なんじゃこりゃ、と思っているうち、いつの間にかその世界に入り込んでいる自分に気付く。
実に面白い。実写版では小栗旬がどうしても村長役をやりたい!と立候補(本当らしい)してくるくらいの面白さ。

でも村長はかっぱ姿の特殊メイクだから誰も小栗旬だと気が付かないかも…

ストーリーの背景にはそこそこメッセージが込められていて、ただ面白いだけじゃない。

で、「私は金星人だ。もうすぐ金星に帰らなければならない」という2−3(ニノ=にのさん)の言葉が、私の知っていた金星と結びついて、妙に納得したのだった。そうか、「金星に両親がいて帰る事は可能だ」と。

ただ、問題があって、月が一つではなかったように金星も一つではないかも知れない。