6月
14
ヘリコプター

がうるさい。

かれこれ2時間ぐらいほぼ我が家の真上を旋回している。2機。
飛び始めたとき、沢山サイレンが鳴って、パトカーが赤色灯を回しながらリニモ古戦場駅付近に何台も何台も駆けつけて来たことは確か。
若干パトカーよりヘリのほうが到着早かったような…。

野次馬に出ようかとも思ったけれど思いとどまったので詳細はわからない。
何か事件かしら?
いつか(発砲立てこもり)みたいに大変なことでなければいいのだけれど。

6月
13
ひかり

電話の回線に、持っているいくつかの番号をまとめることにした。
ひかり電話のオプションサービス「追加番号」というものだ。
追加番号一つについて基本料¥105。(他にも若干かかるようだが。)
複数回線よりはるかにお得だ。

しかし、このサービス、

※ 1電話番号毎のお申し込みになります。(最大4電話番号まで追加できます)
※ 本サービスに対応したひかり電話対応アダプタ/ルータをご利用いただく必要があります。

なのに、この対応したひかり電話対応アダプタ/ルータは電話ポートが2つしかないらしい。
主回線番号+追加4つで合計5つの番号まで可能なのだが、いくら番号をたくさんにしたところで3つ以上の電話機を鳴り分けることは案外難しそうだ。
もちろん元々回線はひかり回線一つなので、複数番号の同時使用ができないのは理解している。

色々調べてみたけれど、現有機器で電話機を3つ以上切り分けてしかも(こちらの)発信側の番号通知を区別させる方法は見つかっていない。

せっかくのサービスなのに、なんだか足りないなぁ。変なの。
工事は2週間後。その時に色々聞いてみよう。

6月
07
二株ずつ

キュウリとナスとシシトウを植えた。

ついでに地植えのクレマチスの場所を変えた。

このところの雨で急激に精力を伸ばしてきていた雑草抜きをし、椿の落ち葉をかき集めた。

何故だか弱ってきた鉢植えのクリスマスローズを植え替えようとしたら、根回りに蟻の巣ができていた。根を崩したら蟻が沢山出てきて卵やらを咥えて右往左往している。蟻には申し訳ないが弱った原因はこれかな。

昨年見よう見まねで剪定した柿が枝を伸ばしたくさんの花が咲いた。小さな実がついている。

剪定途中で様子見になっていた金木犀も中から枝が更新してきた。もっとばっさりやっても大丈夫かも。

さっきから近くでキジが鳴いている。
耳を澄ますと微かにヒバリも聞こえる。

そろそろいくつかある睡蓮鉢の面倒をみないと。ヒツジグサはもう咲き出してしまった。
ヒメスイレンとコウホネとヒメガマもある。とにかくまずメダカ入れたい。
 

なんてことはない、のんびりとした日常を過ごす。

6月
02
国民総幸福度

3月11日をきっかけに、人の幸せをもう一度考え直す気運が高まっているそうだ。
日本だけではなく全世界的な動きだそうだ。
やはりブータンでの幸せの尺度を取り上げていた。

「国内総生産(GDP)が必ずしも人の幸せを計る指標ではなくなってきた」というコメントだったが、そもそもGDPが人の幸せの指標だった、という世間の認識が私には少しびっくりだ。

で、国民総幸福度。
その指標をどう作るかが課題らしい。しかし施設の数や人の数など、数が増加しても、どうも幸せ感にはつながっていないようで、幸福度の数値化は一筋縄ではいくまい。
人との繋がりの密度が高い方が人は幸せや安心を感じるらしい、と報じていた(そりゃ当然でしょ、と思う…)けれど、誰かが「日本における人の幸せとはこういうモノだ」と定義したとしても、なんの役にも立たないのではないかな。

幸せ感なんて、人によって全く異なるのだから。

それでも行政とかたくさんの学識者とかが幸せを数値化し可視化することに躍起になるんだろう。
そしてまたその数値に翻弄されていく繰り返しな気もする。

6月
01
雨が

降る。
既に梅雨入りしたのだから当然か。

我が家の前の田んぼは全て今年は耕作しないようだ。
代掻きやら整備やらはされていなく、雑草の中に少しだけ雨水がたまっている。

毎年窓を開けるとうるさくて、電話してると「後ろの雑音何?」といわれるほどの蛙は今年はない。
行き場に困っている様子で、たまに「げげげ」と聞こえるが後が続かない。
ケリもどうするのだろう。子育て中に人が近づくとぐるぐる空を旋回して警戒してうるさかったやつだが。
水の入っていない田んぼにカルガモが降りてついばんでいるらしいが、もちろん泳げない。
数年前までは夏の夜にフクロウの鳴き声すら聞こえてきた場所なのに、万博工事以来、あの「ほー、ほー、」はない。

残念だと思う。
 

とはいっても、これはまったく人間の勝手でそうなった。
蛙もケリもカルガモもフクロウも、そうなってしまう原因が人間だなんてこれっぽっちも思っていないだろう。
ただ「なんだか変だなぁ…」だろうなぁ…。

うん…。
私は蛙でもケリでもカルガモでもフクロウでもない。
かろうじて何でそうなってしまうかの考察は出来る。
 

まだ雨は降る。

5月
21
みるみる

変わっていく子供達。

なぜか。
・今までその状況になかった、というだけのこと。

なぜその状況になかったのか。
・単にオトナの事情。(もちろんやむを得ない場合も…)
 

みんなもともと素晴らしい力を存分に持っている。
発揮させたい。

5月
09
いつの間にか

黄金週間も終わり、とうとう夏日になるような頃合いになった。

そこここでは「カダイキョク」と「ジユウキョク」にまみれ出すんだろうな。
ああ、大変なことで。
…どこでどう間違ったのか。それとも始めから歩む道がまったく違ったのか。

−−
このところ意外な場所で何度も感じていることがある。
「人って誰か(何か)を支配したいんだな」と。
常に誰か(何か)に対して優位に立ちたい気持は、意識無意識関わらずかつて自分が支配された感覚の裏返しなんだ、とも思う。
その事を否定するつもりはさらさら無いのだが、イジメとか虐待とかの方向に作用していくのは避けてほしいと強く願う。
−−

最近よく耳にする「自分達はまだ良い方だ。他ではもっと大変な思いをしている人たちがいるんだから…」という言葉。
大変な思いをしている人を慮っているように聞こえる(いや、もちろんそれ以外の意味合いは皆無だろうと確信はする)けど、裏返すと「あそこまで大変でなくて良かった」という他と比較して優位であるというような閾下の安堵感が見え隠れするのは考え過ぎか。
ある特定の地方のナンバーの車に「地元へ帰れ」と落書きされてしまう悲しい話が現実にあるのならば、それは自分の優位性を確認し誇りたい作業に他ならないのではないか。
果たして、そんなどんぐりのめくそはなくそみたいことで本当に幸せは獲得できるのか。
今まで信じられてきた様々な価値観が液状化でぐらぐらになってきたように感じる今、もう少し支配とか征服とかのような他からの優位性と、人の幸せとの関係について考えを深めたい。

このことは昔からずっと心の中にくすぶり続けている「コンクールだから勝つためにやる事」の疑問についての考察にもつながると思っている。

4月
28
きっかけは

何でも良いと思う。
コンサートに足を運んだりアウトリーチで出逢ったり面白そうな話を聞いたり。
テレビのバラエティで知ったり一日体験をしたり。
「知らない」ところからは何も始まらないからそのとっかかりはとても大事だと思う。
しかしさらに大切なのは、そのきらめきのような一瞬を日々の生活の中で日常化していくこと。

「知らせた」たあとは「育てる」こと。
知らせっぱなしではなく。
それを続け膨らませることは膨大な時間と労力が必要だがそれを惜しんではダメだと思う。

「育つ」のではなく「育てる」こと。

4月
20
小さな小さな

一歩を踏み出した。
小さいけれどとても意義のある重要な一歩だ。

椅子に座った足が床につかずぶらぶらさせながら、それでもたくさんの小さな真剣な瞳が私を射抜く。
反応の早さはこれまでの経験をはるかに超える。
何の躊躇もなく間髪を入れず問いかけに応えてくれる。
小気味よいことこの上ない。
楽しい一時間半はあっという間に過ぎた。

みんなにとっては有意義な時間になっただろうか。
きちんと何か伝わっただろうか。

やり残しや言えずじまいは限りなく。
アレもやりたい。コレもやりたい。
とはいっても限られた時間の中でどれだけのことが出来るのか。
もっと時間が欲しい。毎日でも。
 

この先、この小さな一歩を僅かずつでも重ねていく。
苦難を乗り越え継続すること。
いずれ、たくさんの人が同じ一歩を重ねるようになり、当たり前な大きな道になっていくために。

今日はその始めの一歩が踏み出された記念すべき日。
Nシステマ始動。