作者別: NGO
組織の力。
このひと月ほど様々な事象を見て感じていること。
とにかく人の力はすごい。
凄まじい状況の中、老若男女を問わず一人一人がしっかりと生きて他人を思いやり助け合う。
破壊や絶望を乗り越え前に進もうとする。
ようやくがれきが取り除かれた畑だというのに、もう耕してジャガイモの種芋を植え付けている映像。
漁師が魚採りに海に出るのに必ず船とエンジンが必要なんだ、だからこの工場を一刻でも早く再開するんだ、という船舶修理工場主の話。
自分の育った町だからそれを守るために被爆覚悟で現場に行く、という福島原発作業員の話。
一方、組織の力はなかなかそうは見えてこない。特に大きくなればなるほど。
一刻を争う状況の中、なかなか方向が定まらない。
−全て流された会社の社員雇用を守るための支援助成を受けたいが…。
それには社員のデータが必要です。
−流されちゃったんだから有るわけ無いでしょ。
支援するために書類データは必要な決まりなんです。
−…。
責任者誰や!出てこい!と言いたくなる場面は数限りなく。
確かに大きな責任が伴う決定はそこに至るまでのハードルが高いのは判る。しかしそれでも、まず始めに逃げ場作り、アリバイ作りありきに感じてしまう。どうしても責任逃れに見えてしまう。(もちろん担当者の個人レベルではどうしようもない事だろうとは重々承知なのが。)
一般個人もしくはそれに準ずる小さなコミュニティの範囲ではそのリスクと責任を伴う重大な決定をいとも易々とクリアしているのに。
このようなときの組織の役割っていったい何だろう。
有名だった師匠。
「怖くてしょうがない」という人をたくさん見たし、その反動で聞く耳を持たない人も多く見てきた。誤解されることは多々。
でも、一度懐の中に入ってしまうと決して「怖い」や「身勝手」ではないことが良く判ってくる。
「単純に言いたいこと言っているだけじゃないんだぞ。チャンとその解決方法を教えられないときは決して言わないんだ。」と、密かに私に教えてくれたことがある。
知ってからその線引きを厳格に守っていることは良く分かった。
「判っているのに言ってやらなければむしろ失礼じゃないか」と。
そして「どうしたら良いのか判らないのに軽々しく言っちゃダメだ。それは無責任だ。」
それをなかなか理解してもらえないリスクは百も承知だったようだ。
言えば「出る杭は叩かれた」と思われ、言わなかったら「相手にもしてくれなかった」とかなんとか。
実はとっても繊細な人で、こんな事もあった。
ある有名なプロバンドの委嘱曲(5作品あるシリーズ作品のうちの一つ)の録音(超有名な棒振氏と超有名なプロのバンドの演奏)が上がってきて「おぉ、録音来たぞ、聴くか?」と一緒に聴いていたのだが、聴きながらどんどん顔が曇っていき「なぁ、俺の曲が悪いのか?譜面の書き方が悪いのか?」と私に何度も尋ねるのだ。
その後も何度も聴き直して、その都度黙って考え込み何人にも同じ事を尋ねたようだ。見るのが辛かった。
私たちが「いや、これは演奏が悪いんです。」といっても「いやいや、この棒でこのバンドだぞ?」とうなだれるのだった。
ケーブルテレビに釣りチャンネルがあって、その中の番組の一つに四国の奇才と言われる釣り名人の番組がある。
初めて番組を見てその人の言葉を耳にした時は「何言っているのか良く分からない??」「こんな乱暴なこと言って良いのか?」とはらはらどきどきした。文句も多いし身勝手だし。言いたいこと言い放題だし。
しかし何度もシリーズで番組を見てその世界に慣れてくると、細やかな気配りが随所に溢れてとても暖かい人であることが判ってくる。
磯の名人のようだが、鮎も渓流も筏も何でもやる。いつも同じメンバーでチームを組んで本当に楽しそうに釣っている。
なかなか語法を理解するのに骨が折れるが、雰囲気だけでも案外伝わってくるのが面白い。
言葉尻からだけでは真意は分からないのだな。
以前からもそうなのだが最近特に言葉の深さに対して慎重になろうと思っている。
自分が発する言葉は特に。
しかし、それがとても難しい。
ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンの戯曲「ペール・ギュント 」の劇音楽。グリーグ作曲。
冬も春も、そして次の夏も過ぎ、一年がまた流れ去る。
でもわたしにはわかっている、あなたはいつか戻ると。
だからわたしは待っていよう、あなたに約束したとおり。
放浪の旅に出たままのペール・ギュントを待ち続けたソルヴェイグ。
何十年もたった後に戻ってきた彼に、既に白髪の老女となったソルヴェイグが歌った子守歌。
ソルヴェイグの腕の中でペール・ギュントは本当の安らぎを見つける。
なんと苦しくはかない歌だと、ずっと思っていた。
「私の時間を返せ!」って思わないのかなぁ、と。
しかし最近なんだか思いが変わってきた気がする。
案外苦しくはないのではないか、と。
まだはっきり説明出来ないけれど。
啓蟄の今日、春を待つ事をつらつら考えていたら、こんなところに行き着いた。
行った。
本当は熊野三山に行こうと思った。
ある時をきっかけにコンスタントに訪ねている。
昨年は正月に行ったが今年はまだ行っていなかったのでずっと気になっていたのだ。
最近カラスの鳴き声が妙に気になることが多っかたし。
しかし悩んで悩んで今回はやめにした。やっぱり少々遠いからね。
とはいっても気持がお出かけモードになってしまったので、とりあえず車に乗って家を出た。
琵琶湖に行って鳥でも眺めるか、良く分からないけれど珍しい猛禽類も見れるかも知れない、などと妙にテキトーなことを考え高速道路を西進した。
実は猛禽類の識別は難しく、ほとんど素人の私にはさっぱり判らない。空高く飛んでるし早いし。何が珍鳥かすら判らない!?
なんとなく米原で北陸道に入りそびれ、だったら「ひこにゃん」でも見るか、と名神彦根で降りた。
ICを出たすぐの所に「多賀神社」の看板があって、当初のお詣り気分が再度沸き起こり「ならば!」と行ってみた。
立派な神社だった。
門前が鄙びていてまた良い。開けている何軒かのおみやげ屋の前に人がたまっている。
4〜5台が入る駐車場に車を止める。
「駐車料金はお気持ちをお入れ下さい」とかいた札が下がっている。その素朴さが良い。
料金箱になっている郵便箱にチャラリンとコインを入れる。
大きな石の太鼓橋をよじ登って渡り本殿にお詣りする。
よく見ると左右の脇に幾つも小さなほこらがあって、そのうちの一つは「熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社」と札が立っている。
ありゃ、こんなトコに熊野三山あるぜ。これはちょうどよい!とお詣り。
もちろん他の(木花咲耶姫とか恵比寿とか)も全部きちんとお詣り。
そういえば神社の入り口に「おいせのふだ あります」って張り紙があったっけ。
便利な世の中になったもんだ(…って昔からだったんだな)。