作者別: NGO
(日誌より)
体調不良やケガとかで来れないならしょうがないと思うけど、気持ち的なやつで来ないのは何かもったいない気がする。
立ち止まってたら、前を走ってる奴にどんどん離されるし、裏から来る奴に追い付かれるか抜かれる。
でも、離されたり、追い抜かれたなら、そいつらよりも速く走れば追い付けると思う。
壁にぶつかったなら、そこで止まらずに少し下がって助走を付ければ飛び越えれるか体当たりで壊せると思う。
壊せないと思って走るのを止めたら前には進めない。で、周りに置いてかれる。
助走を付けずに壁に体当たりを続けていたら壊れるかもしれないけれど、自分の体も壊れるかもしれない。
俺だったら自分の体を壊さずに壁を越えたいな。
もひとつ。
(日誌より)
今、○○はがけから落ちそうなところにいる。必死に、○○を助けようと、上から手をのばしている人がいる。でも、○○は手をのばしてその手をつかむ(にぎる)事をしない。
今、鼻水が出てきて手をつかむ事が出来ない。でも鼻水をかもうともしない。それじゃあ、がけからズルズル落ちてって死ぬだけだ。手をのばしている人も疲れてきて手をのばしているのをやめてしまう。○○を引っ張っていくのをやめちゃうよ。何かに悩んでいるならそんな物捨てて手をつかめよ。
死にたくないならその助けに答えろよ。
素直になろうよ。
言い訳なんて言うのやめようよ。
それぞれの心の中で少しずつ何かが変化しつつあるのかもしれない。自分自身でも気がつかないほど小さな変化。
時間をかけてその一つ一つを積み上げていくしかない。
がけから落ちそうになっても少しずつよじ登っていけばいい。
でも、サポートの手をつかむ事に躊躇してしまうのはなんでだろう?
端から見てると「何で?」って不思議だよなぁ。
積み上げている間に、めげたり、折れたり、自分で道を断ち切るような事はしないで欲しいと思う。せっかく、少しずつでも積み上げてきたのに、もったいない。
学校イベントが終了した。
学園祭(文化祭)と延び延びになった体育祭。
学園祭のオープニングはかろうじて参加できたが、その後の学園祭野外ステージには私無しで企画した。私無しの本番はTSWでははじめてだったか。出来がどうだったかはまだ聞いていない。関係者だけでなく聞いた人からの感想もまだ耳に届いていない。
また、体育祭は開会式等のパレードやファンファーレ、アトラクションのドリル演奏などてんこ盛りだ。体育の先生方からたくさんのお礼のお言葉をいただいた。まだあんな程度のことしか出来ない。申し訳ないな、と思いつつ、それでも少しずつこの学校の中で認知されてきているのかな、と感じたりもした。
しかし曲数多く、ステージからドリルまで複数の演奏形態の準備で慣れない者にとっては大変だろうと思う。さらに何から手を付けて良いか判らないくらい他にもやらなければいけないことがたくさんある。
でも「やることだらけで大変だ」ではなく「忙しいということは幸せだ」と思うことだ。仕事の出来ない人のところには仕事はこない。頼れると思ってくれるからこそ仕事が舞い込んでくる。その一つ一つに一生懸命応える事が大切だ。
とはいっても例によって、様々なトラブルやハプニングがあった。
それはある意味、防ごうとしてもどうしようもない場合もある。無しにしたいがつきものでもある。
問題はその後だ。
そのアクシデントをきっかけに何かを学べばそのトラブルでさえ生きてくる。「トラブルがなかったら知ることが出来なかった。不運ではあったがそれによって成長した!」と思えるのだったらそれでよい。
どうだろう?
反省ごっこだけして、結局変わってない!ってことになっていないか?
心の底から反省したかどうかなんて誰にも解りはしない。人の心は覗けないからね。でも、ごっこだろうと何だろうと次の行動に何か変化が起きていれば当面はそれでも良いのかもしれない。
なにか変わったか?
10月5日。ハッピネス・ヒル音楽祭という本番があった。
前任校を辞めて吹奏楽の世界から足を洗ったつもりだったのに、もう一度この世界に入るきっかけを作ってくれたJr.ユース・ウインドオーケストラの本番。
今回は練習になかなか参加できず本番前に2回、ゲストとのリハーサル1回、そして本番、という中高生のバンドとしてはなかなか難しいスケジュールだった。
しかし、スペシャルゲスト/平原まこと(サクソフォン)さんとのリハーサルが始まってから、とても有意義で幸せな時間が続いた。なによりメンバーに対する温かい御指導が嬉しかった。
「楽器持ったら俺と君たちはプレーヤーとして対等なんだよ」
この言葉は「中高生レベルに降りてきていただいている」ことと同時に「このレベルまで上がってこい」と言う激励の言葉でもある。それに対してみんな良く応えたと思う。良い演奏が出来た、と思っている。本番中涙出そうになった。
「プレーヤーとして対等」なんと心地の良い言葉だろう。どんな場合でも是非そうありたいと思う。
だからこそTSWにも様々な要求をする。
応えて欲しいと心から思う。
土俵に上がらなければ相撲は取れない。早く上がってこい。
私の高校生時代は、前にも書いたが中途半端だった。
「祭」と名のつくイベントは御法度だった。だから体育大会。文化発表会。
今、我が勤務校では学園祭中。文化祭ではなく学園祭。名称にこだわるわけではないけれど色んな考え方があるんだ、と思う。
その文化発表会での出来事を思い出した。
「祭りではない」と厳しく言われるわけだから、お楽しみイベントは皆無に等しい。模擬店などあるはずもなく。野外ステージなどあるはずもなく。
だから皆行くところが無く体育館でやっているヘタクソ吹奏楽の演奏に群がってくる。
そして、なぜが生徒が大勢集まることを極度に嫌うので、たくさん集結してきた生徒を蹴散らそうと躍起になってくる。
校則に集会の禁止の条項がある学校。校外で3人以上集まるときは許可を戴く必要がある。ばれると始末書だ。
MAXの音量で校内放送が入り「クラスに戻れ」とガナリたてている。
我々吹奏楽部は当初のプログラムを淡々とこなしているだけなので、無視して最後まで演奏した。
それが1年の時だ。
2年の時は、その記憶があるのでクラスの友達と結託してあることを企てた。
もちろんロックバンドなども御法度なので、ベース弾きやギター弾き(もちろんエレクトリックだ)にけしかけ、吹奏楽の中で演奏してよ、と持ちかけたのである。
その時代はテクノポップ全盛。泣く子も黙るYMO(イエローマジックオーケストラ)の時代だ。参加してもらう曲は私のアレンジでYMOの「ライディーン」始め数曲。
ところが当日、どこから漏れたのか弾圧が始まった。緊急ミーティングを開き相談開始。我々吹奏楽は当初から覚悟は決まっている。「やるぞ!」の一言でみんなの目はぎらぎら。でも、ギター弾きやベース弾きは「俺たちは構わないけれどまじめにやっている吹奏楽部に迷惑がかかるから…」と弱気だ。
すったもんだして、結局ベースやギター無しで演奏はした。その助っ人たちに迷惑がかかったら逆に申し訳ないと判断したんだ。
それでも演奏場所の体育館は大変な人だかり。YMOをやったら盛り上がる盛り上がる。踊り出すのもいる。
指揮ふりながら、なんだか妙に気持ちがよかった。
そうそう、あれだけ事前に問題になったのに何故かおとがめはなかったんだ。
拍子抜けしつつ「だったらやっぱりベ−スとギター入れれば良かったね」と部内で大いに盛り上がった。
俺の青春の1ページだな。懐かしい!
意味はとりあえず理解できなくても型を覚えると良いものは色々たくさんある。
たとえば九九。何故2かける3が6になるのか解らなくても「ににんがし」「にさんがろく」「にしがはち」「…」と覚えておくと、後に高等な数学になってもそれは生きる。いや生きるどころが九九は必須だな。しかしもし「にごきゅう」と覚えてしまうと全ての計算の秩序が崩れて覚えたことすら全く無意味になる。
意味が判るかどうかは問題ではなく正確に覚えたかどうかが重要だ。
たとえば挨拶。朝会った人には「おはよう」という。それは挨拶の型だ。もし顔を背けて何も言わなかったら人並みな社会生活を送れない人だと思われる。仲良しだけに言うことでもあるまい。また、決して「ご愁傷様」とは言わない。
これは状況に対するパターンだから単純ではないかも知れないが、それでも挨拶はまず型だ。
もちろん言葉も同じ。言葉も皆が共通認識できる型だ。その状態や気持にあった言葉を知らないと人に伝えることが出来ない。「何かあるんだけれどもやもやして言葉にならない」では他人は知りようがない。他人に伝えたいと思うならばその状況や気持に対応した言葉、すなわち生活パターンに応じた言語を知っていて使える必要がある。
言葉をたくさん知るには、誰かを真似るか、本を読むか、などなど、何らかの方法で状況に応じた言葉のパターンを覚える他はない。覚えた言葉を(ボキャブラリー)語彙といいコミュニケーションの宝だ。
「型を覚える」という行為や、その結果である「型をたくさん覚えた」という事実は、本人の好む好まざるとは無関係で、たくさん覚えている方が有利であることはいうまでもないだろう。
さて、我々は音楽をやっている。上記と全く同様にたくさんの型を覚えなければならない。
音階。音符。強弱。拍子。リズム。発想表語。音程。音色。楽器。様式。形式。その他様々。
さらに、吹奏楽部の活動運営上、知っておくべき型もある。練習の仕方や係の仕事など。それらは無条件に、出来る限り多く、出来る限り早いうちに、正確に、体で覚えておく必要がある。
なぜならそれらが必要になった時、自然にすらすらと体から出てこなければならないから。必要になった時にやっと覚え始めるのでは「泥縄」と言い、たいがい手遅れになる。
それぞれの型が状況に応じてすらすらと出てくるくらいになって、やっと一人前と言われるレベルだろう。そのレベルに達してはじめて「覚えておいて良かった」と思うことができる。意味も判らず覚えたことに改めて感謝することになる。
その一方で、身に付けることが出来なかったらその恩恵にあずかることなく意味も判らず一生を過ごすことになるだろう。ただ「覚えろ!」と言われ苦しい思いをした記憶だけが残ることになるだろう。それは負け犬の記憶だ。
やるか。やらないか。
覚えるか。覚えないか。
私が通っていた高校は新設2年目のまだ校舎も体育館も完成していないようなとんでもなく中途半端な学校だった。
当然部活動だってまともに活動できず、吹奏楽部も楽器が全然揃っていなくて苦労した。
2年の時にやっと3学年揃い人数も何とか合奏できるくらいに増えたのでコンクールに出たいと言うことになった。
そのときの顧問の先生は全然吹奏楽のことは判らず、コンクールのとき(夏休み中)は神戸に帰省するから、とかで全然頼りにならない。それでも教員か?と怒りまくったね。
しょうがないからに直談判をしに校長室へしょっちゅう行ったものだ。
「楽器を買ってくれ」
「買ってくれないなら他の団体から借りるから許可をくれ」
「練習場が狭いから何とかしてくれ」
「夏期休暇中の校舎の鍵開けを任せてくれ」
「他の学校の生徒と練習交流をしたいから学校に呼んで良いか」
「顧問を変えてくれ」
などなど。
いきなり生意気な生徒が校長室をノックして入ってくるんだからびっくりしただろう。
しかし、だいたいにおいて校長は取り合ってくれず(会ってもくれず)、教頭に「本校の学校方針によりそれは認めることは出来ません」と言われておしまいだった。
悔しかった。学校方針という代物は一度も目にしたことがないから、文書化したものを見せてくれ、としつこく迫ったこともあった。
ガッコのセンセは嘘つきだ、という認識になったのはこのあたりが原因だろうな。
教員にとっては一番いやな生徒だったろう、と今になって思う。
しかし、突然練習中に校長がわざわざ合奏を見学に来たことがあった。あなたは一生懸命やっていると聞いたので是非練習を見させてくれ、と。一時間くらい黙って座って見ていた。「ありがとう。良いものを見させてもらった。」と帰って行ったっけ。
合奏練習の雰囲気は、その当時と今とそんなに変わりはないから、先輩を相手にしてなんと生意気な厳しい練習をしていたんだろうと思い出しながら苦笑する。
この頃、後輩に「死神のように怖かった」と評された事もある。それも中学校時代の私のことを、だ!
温度差のある部員に対して(それが先輩であろうとも)「もっと練習してください!」と平気で言っていたし、そんなのだったら一緒に音楽したくないです、と何時間もミーティングを重ねた結果お辞め頂いたこともある。(それがみんなの総意だったから一人で何人もの先輩に立ち向かい嫌われ役を買って出ていたわけだ。)
コンクール初挑戦の演奏は特にすばらしいものではなかったけれど、みんな精一杯がんばった。配置をTb下手、Tp上手にしたりといろいろ反骨丸出しで、それでも心ある部員はみんなついてきてくれたし、本当に楽しかった。
その当時のメンバーは今どうしているのだろう?と気になる時がある。
今も音楽に浸って生きている、という便りを聞くことがあるから、みんな充実した音楽生活をしているんだろうな、とは思うが。
時代が変われば人も変わるというけれど、本当にその当時から考えると今の高校生はだいぶ様相が違うように見える。でも、根本的なことはそんなに簡単に変わらないはずだから、きっかけ一つでもっともっと輝ける青春時代を謳歌できると思うのだが。
是非やってみて欲しいなぁ。
なんだか急に書きたくなったので書く。
アルテュール・オネゲル (Arthur Honegger,1892年3月10日 – 1955年11月27日)
フランス近代の作曲家。フランス6人組のメンバーの一人。
私が大好きな作曲家。
一番始めにオネゲルの曲を聴いたのは、冨田勲のシンセサイザーアレンジのパシフィック231だった。確か中学2年の頃だ。ぶったまげた。本当に機関車が走り出し疾走し急停車する有様が手に取るように見えたから。そのシンセアレンジも秀逸なのだ。銀河鉄道を彷彿とさせるファンタスティックなものだった。
その後、どうしても原曲(管弦楽)の演奏を聴きたくなりレコードを買いに走った。スコアも見つけ、なけなしのお小遣いで買い込んだ。バス代が無くなり長い距離を早くレコードを聴きたい一心で急いで歩いて帰ったのを記憶している。
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《パシフィック231》は、パシフィック231という蒸気機関車を描写した作品であると解釈されており、オネゲル自身はそのような通説に抗ってきたが、オネゲルの機関車好きはつとに知られたところであった。「私は常に蒸気機関車を熱愛してきた。私にとって機関車は生き物なのであり、他人が女や馬を愛するように、私は機関車を愛するのだ」と語ったことでも有名である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(「オネゲル」でググってみてください)
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『わたしは作曲家である』という自身が書いた本にあるパシフィック231の解説の部分で、
「テンポがどんどん落ちていくのにスピード感がどんどん増大する曲を書きたかっただけだ。曲が出来上がった後にたまたまパシフィック231というぴったりの題名を思いついたのだ。」
のようなこと書いてあった。(記憶を頼りに書いてます。違ってるかも知れない。)
作曲家の純粋な着想や発想と、出来上がった楽曲のイメージは必ずしも一致する物ではないのだ、と妙に感心した。
そしてそのレコードのB面にあったクリスマスカンタータを聴いてまたもや涙した。なんと強い音楽だろう。
ちょうどその頃は作曲の勉強を始めた頃だ。聴く音一つ一つが私の心に取り憑いて離れない。音楽の将来を悲観していたオネゲルの遺作だと知ってなおさらこの曲が好きになった。単純なのに全く隙が無く、飽きない。そしてフィナーレが希望に満ちているのだ。苦悩の末に行き着いた喜びってこんなに素晴らしいんだ、と。
高校生の頃、弱小ではあるものの吹奏楽部の部長だった。2年生の時(創部3年目。その部活にとってそれがコンクール初挑戦)でコンクール指揮をし、3年では私の大好きな曲、オネゲルのパシフィック231をやろうとアレンジも全部書き上げた。部員は20人ぐらいだったと記憶している。結局、それは実現せずそのアレンジはお蔵入りになってしまった。楽譜は大切に保存している。
東邦4年目に全く新しい私のアレンジでパシフィック231のコンクール演奏をしている。そのアレンジは特殊だけど案外気に入っているんだ。その演奏(正確にはコンクール直前のホール練習の音)は今でも聴ける。
23歳の私にだって高校生の時があったんだぞ、その時にはこんな事を考え、あんな事をしていたんだぞ、とつらつら思い出していたのだ。
純粋に音楽に憑かれ、やりたい事をやりたい放題やっていた。思いっきり夢を追いかけてたんだなぁ、と考えているうちに、私にとってオネゲルがとても重要だった事を思い出したのだ。
吹奏楽部の活動の為に、音楽以外の事でも色んな事やってた。今考えると生意気で恥ずかしい事ばかりだけど。それはまたの機会に書く。
私の青春を支えていたのがアルテュール・オネゲル。
今、初心に返ってオネゲルを全部聞き直そうと思う。