2月
10
積雪

高速道路が通行止め。
これが私にとって一番辛い。

昨日の練習終盤に気が付いた。雪だ。
頭の中のどこかで雪の影響は考慮していたつもりだった。
しかし、
○昼からみぞれ混じりの雨がしょぼしょぼ降っていていた。
○この職場あたりでは滅多に積雪はない。
○私の自宅は良く積もる。
などの情報が有効に関連づけられていなかった。油断していた。
気が付いたときには私の帰宅路、東名高速道路が止まってしまっていた。

うーん。R1かR23か。どちらも高速回避で渋滞だろうが、考えるまでもなくまずはR1に出てみた。
「え、こんなところで!」という場所で全く動いていない。信号を10回ぐらいやり過ごし、あきらめた。
「職場に戻ろう。そこで寝よう。」

東名阪や名古屋高速は高架だから雪が降るとすぐ全線止まる。伊勢湾岸線も同様。東海環状は山の中を走るからもう少し除雪体制が出来ていても良さそうなのになぜかすぐ止まる。
しかし、さすがに東名高速は日本の大動脈だから、簡単には止まらないだろう、と甘く見ていた。失敗した。
 #今回は伊勢自動車道でも伊勢や大台まで止まっていた。

これからも同じようなことがあったら困るな。そろそろ本気で対策考えなければ。

2月
08
出来ていないことを

出来ていないぞ、と指摘するといとも簡単に折れてしまう。

決して悪意などあるはずもなく、それを乗り越えてたくましくなって欲しいとひたすら願っているのだが…。
想定外のことが起こるととたんに思考が止まってしまうようだ。

打たれ強くなれば良いのか。
それまでの経験の豊富さが必要なのか。
何かあったとき、必ず受け止めてくれるという安心感か。

いったい何が必要なんだろう?
足りないのは?
有りすぎる物は何だ?

その変化は必然なのか?
食い止めるべきなのか?

もっともっと静かに深く考えよう。

2月
08
少し間が空きましたが

その間様々なことがありました。
いずれ少しずつお知らせしようと思っています。

今日は一つだけ。
携帯替えました。
様々な機能があるようですが時間が無くて…。
それでもいくつか試してみました。
GPSはどうも位置情報が数百mばかりずれているようです。補正が出来るのか不明です。
ワンセグは職場では全く写りません。あれれ?
しかし我が家ではほとんど完璧に写りました。そりゃそうだ。我が家は地上デジタルタワー直下といって良いところですもの。アンテナの感度を上げることはできるのかしら?

2月
02
大失敗

携帯メール送信で大失敗をした。

何を勘違いしたか宛先を間違えた。
ある方から届いたメール(1)を元に、私が感想なりを付け足したメール(2)を書き、第3者に送らなければいけなかったのに、(1)のメールの方に戻ってしまったのだ。
いくつか同時進行で書いていて宛先とタイトルと本文が入り乱れて取り違えてしまった。
そして付け足した私の内容が(1)のご本人にとって不快な記述をしてしまっていた。

取り返しのつかないもっとも失礼なことをした。
命取りかも知れない。
思い切りへこんでいる。
とにかく謝罪のメールはした。でも簡単には許してくれないだろうな。

決意と覚悟を持って。(信じることと一緒だ…)
言い訳は一切無用。
失敗したら自分の責任。

くーっ!その通り。この失態は自分で取り返すしかない。イバラの道だろうな…。とほほ。
はらくくってやるしかない。

迷惑かけてしまった方々。これから迷惑かけてしまうことになるかも知れない方々。
ごめんなさい。全て私が悪いです。

2月
02
やる

何も難しいことではないと思う。
とにかくやれば良い。

泣いたって始まらない。
逆に、泣いてもやっていれば良い。

たくさんありすぎて混乱するが、一度に出来ることはそんなに多くはない。
それを順番にやれば良いだけ。

決意と覚悟を持って。(信じることと一緒だ…)
言い訳は一切無用。
失敗したら自分の責任。
上手くいったら人のおかげ。
みんなの運命を全て任されている。

あなたのニックネームはそういう意味ではないのか?

2月
02
同種の匂い

我らの優秀なスタッフと後援会の方と大ボスと会を持った。
若干緊張しながらも、和気あいあいとしたとても雰囲気の良い会だった。

もしかしたら信じられない光景なのかも知れない。
でも、鍋をつつきながら、部活動のこと学校のことその他いろいろなことを熱く語り、夢を広げ、おおいに笑った。
やっぱりそうだ。打楽器らしいぞ。
いろんな意味で大変有意義であった。愉快だった。

「楽しかったです。またやりましょう?」
「おお、やろう!」

ぜひ実現したいと思う。近々またやりましょう!

2月
01
信じる その2

「信じるということは、自分自身が決意し、自分自身が覚悟すること。」
「信じるのは、相手の行為に対してではなく、相手の人そのものに対してである。」

最近、私がある学年の日誌に書いた。(正確には一字一句同じではないです。)
「信じることは辛いか?」の問いかけ(私に対する問いかけではないかもしれないが…)に、思わず反応してしまった。

信じることとは期待値を高めることではないと思うのだ。
仮に期待値が0でも信じる、信じたいときはある。
では、期待値が0だから辛いか、というとそうではないと思う。
 …少なくともそのときはそう思った。

自分自身の為に書き留めておく。

2月
01
敬愛なるベートーヴェン

という映画を見ている。(まだ最後まで見ていないけれど…)

昔、中学生・高校生だった頃、ベートーヴェンは好きではなかった。いや、はっきり嫌いだったといった方がよいだろう。でも音楽の勉強にはベートヴェンは欠かせない。たくさん知っていくうちに「すごいな」と思うようにはなった。
6、7年前(だと思う)、第9交響曲の4楽章をマーチング用にアレンジした。そのとき久しぶりにベートヴェンを読み直したけれど、そのときは「すげー、かっこいい!」と思った。

この映画の途中で歌付き(交響曲第9番)の初演の場面が出てくる。
今回は、不覚にもその場面で涙が込み上げてきてこぼれてしまった。ストーリーに感激したのではない。歓喜にあふれる聴衆の顔が写される事があっても、だからといってそれが涙する理由ではないと思う。
音楽そのものの美しさや力強さがそうさせたに違いない。なぜならいきなり「うっ!」っと来て「すぅーっと」涙が頬を伝ったのだ。泣くかも知れないなんて意識する暇はなかった。

久しぶりに音楽を純粋に聴いた気がする。

1月
30
最近

毎回の合奏が練習にならない。

大いに反省すべきであると思いつつも、どうしても、何とかして、ほんの少しでも良いから、伝わって欲しい、と思ってしまい、しゃべりすぎる。

なんでだろう、と自分でも思うよ。
何をそんなにかたくなになるんだ、と思うよ。
それが伝わったからって、ただの自己満足じゃねぇのか、と思うよ。

とにかく音出して練習せねばいかんのに!
時間がもったいないのに!

そろそろ合奏で何とか曲を形にする、という図式を壊さなければならないだろう。
個人練習やパート練習が上がっていなかったら、何も出来ないまま、すさまじい本番になってしまうことを体験せねばなるまい。そろそろ自分が何もしなかったら顔から火が出るほど恥ずかしい思いをする、ということを知るべきだ。
とは言っても、実は私自身、その覚悟が出来ないでいるのだ。
T邦を去るときに捨てたはずなんだけど、まだどこかに見栄とか要らぬ誇りとかがあって、たまに顔をのぞかせる。まさに今がそうだ。
私が棒を振っているのにそれなりの演奏が出来ないバンドが許せない。
それは、同じレベルまで目線を下げ泥まみれになってみんなと格闘する勇気をどこかにおいてきてしまったからかも知れない。
だからスタッフに甘え、3年生に甘え、来年度の新入生に甘え、いろんな場面で様々甘えているのが自分でも良く判る。

今日、たまたま第一回定期演奏会のDVDをちらっと見た。
一見「お、そこそこ人数いるじゃん!」「そんなにすさまじい音していないぞ!?」  
だけどよく見るとトラだらけのステージ。私の知らない人たちがいっぱいステージにのっている。(自分も棒を振ったのに!全然見知らぬ人たち。)
なんだか痛くてすぐ見るの止めたが、今も胸にとげが刺さったままだ。
その演奏が「痛かった」のではない。そのステージに音楽ではなく人の業を垣間見てしまったのだ。そしてその業が今の私を直撃したのだ。

自分はいさぎよさを忘れている。これじゃダメだ、と直感した。
人数が少ないから、技術が未熟だから、編成が揃わないから、何とかそれを誤魔化して形にしよう、と思うのはよそう。
カバーして誤魔化してもTSWの音楽レベルは上がらない。後々自分が恥ずかしいだけだ。

正直にきちんと出来ることを少しでも増やそう。そのために時間を費やそう。エネルギーを使おう。
具体的にやるべき事を伝えよう。みんなに説明しよう。手始めに「今後どう打開していけばよいか」部長に少し話をした。

TSWのみんな、申し訳ない。
いま、なかなか上手く事が運んでいかないのは他でもない私の努力が足らないのだ。そう肝に銘じる。

1月
29
一歩進んで二歩戻る

では、前に進まない。
それは今のTSWの現状だな。

せめて三歩進んで二歩戻る、になりたいなぁ。

掃除を見てても、いろんな係の作業を見てても、もちろん練習を見ていても、何を見ていても思うことは全く同じ。
周りが見えない。
状況が読めない。
全体が見えない。
今やっている事と最終的に目指すことが結びついていない。

さらに…。

行動力がない。
仮に気が付いても、それをやろうとしない。
そのそぶりすら見えない。
あとから「やれば良かった」「しなければダメだった」、というような反省は微かに聞こえることもあるが…。

この行動を規制する要因はいったい何だろう。
私は、いつもそのことで頭がいっぱいだ。常に考えている。
何とか改善することは出来るんだろうか?
それとも無理なんだろうか。
覚悟があったら何とかなるのかな。(もしそうだとしたら、どんな覚悟で、どの程度の覚悟かなぁ。)

他校の吹奏楽部顧問の先生は案外無駄な努力をせずに、一つの一発芸で何とかするんだろうな。
でも私には出来ない。音楽をするための前提なしに音並べても無意味だからねぇ。