手に入れた。
言語にとって美とは何か 吉本隆明 角川ソフィア文庫。?と?と。結局大手通販に頼った。
例の古本屋チェーンでは、方針が変わったのか、この手の本が店頭からどんどんなくなっているように感じてる。あっても値段も上がり気味。そういえば、端末ピコピコさん達も減ったような。高値で売れるもっと別のルートを見つけ店頭には出なくなったのかな、と密かに思っているのだが、どうだろうか。
なかなか読み進めていかないが、本の冒頭「文庫版まがえき」の4行目で
文学の作品や、そのほかの言葉で表現された文章や音声による語りは、一口にいえば指示表出と自己表出で織り出された織物だ、と言っていい。
と出てきて、のっけから自分の中の、ある種の感覚が「うぉ〜」と呻いた。
最近になって、自分に何かを取り込むやり方が少しだけわかったような気がしている。
どうやら「理解」という感覚ではなく、もっと奥底での変化(というか変容というか…)を感じることのほうが上手くいくようなのだ。
それは反復によっていつの間にか「身についている」事もあるし、一瞬にしてそれこそ「!」と閃くような時もある。
そこにはまだ明確な言葉が無い。言葉はもっと後から付いてくる。(ついてこれない場合もあるけれど…)
いままで、その感覚はあまりも感覚的すぎるので出来るだけ見ないふり感じないふりをしていたのだが、それを改め微細な感覚の変化をそのまま信じることにしたら、案外うまくいくようなのである。
で、「うぉ〜」は一瞬にして閃いた「!」そのもの。
直後、文字を追うことをやめると今まで持っていたものとチカチカと反応しはじめる。自分でも把握できない何かが起きているのだが、それを特に理解言語化しようとせずにじっと待つ。
そんなふうにしていると、いずれ何らかの考えが浮かんでくる。
それで良いのだ、と思うことにしたのだ。
子供の頃、本を読んでその物語の世界の中にどっぷりつかっているときと、ただ文字を追っかけているときがあることに気がつくことがあった。子供ながら、それは決定的に違うのだ、と思った記憶がある。
まだ言葉は浮かんでこない。自分の内部で何かしら変化が起きていることは確かなのだが。
読み終えるのには少々時間がかかりそうだ。