4月
12
本ではなく

声。

いつもの古書店巡りで見つけた。講演収録の一部を並べたCD&BOOK。
講演のCDが入っている。膨大な講演記録音源があるらしいのだがそのほんの僅かな一部だけを少しずつ「立ち聞きする74分」。

そうか、講演か。
と思ってWEBをさまよってみると、ちゃんと有るんだ。ほぼ日刊イトイ新聞の中。
吉本隆明の183講演

FBでシェアしようかと思ったけどやっぱり止めてここにだけ書いておく。なんだかもったいない気がしたので。

早速データ取り込んでipodの中身になった。
 

そうそう、手に入れたCD&BOOKに載っていた一文。

言葉のいちばんの幹は沈黙です。
言葉となって出たものは幹についている葉のようなもので、いいも悪いもその人とは関係ありません。

きっとこれは〈自己表出〉ということなのではないか、と思ったりするのだが、まだそこにきちんと行き当たっていないので…

うわぁ、キラキラの宝物がわんさか出てくる。

4月
04
この時期

この辺り、桜全開である。
遠くに望むそここの公園や川の土手や街路樹が桜色の煙幕を張ったようにかすんでいる。
樹下に入れば今日の雨と風で道端や水路にはおびただしい花びらが舞い落ち、その桜色は次第に拡散しつつある。
もう数日で興奮も冷め、咲いていたことすら忘れられていくことだろう。

この1週間足らずの花の宴のために世の中に植えたも植えたソメイヨシノ。
確かにこの一瞬は本当に美しいが、その陰に隠れて様々な花が咲いていることを忘れたくない。

人々が浮かれて花見宴会をしているレジャーシートの下にだって小さな別の花が咲いていて、踏みにじられているかも知れないのだ。

春を待ち望んでいたのは桜だけではない。

3月
18
朧気ながら

朧気ながら、今まで考えたりやったりしたことの意味がようやく見えてきたような気がする。
あらためてそこから見渡してみると随分回り道をしてきたんだな、と感慨深いが、大切なのは「今自分がそこにいる」ことだと思う。

そろそろ、24歳になってもよいかも。(長い間23歳のままだったし…。)
そのためにも、もっと書かなきゃ。

2月
15
読む

最近ポツポツとでも本を読むようにしている。

元々本を読むことは嫌いではない。いやむしろ大好きだ。
それなのに、あまり読まない事が続いた。読んでいないばかりではなく、それに気が付いていないふりをし続けていた。

気になっていることをそのままにしないで、少しでも何か考えなければ、と思い、まずはとにかく読む、と相成ったわけ。

たくさん読んだわけでもないのだが、でも、なぜだか、読んだ本のそれぞれから必ず行き着いてしまう人が一人いることに気が付いた。
そして、その人のことを知らないまま読む本を広げていくことはマズイのではないか、と思い至ったのだが、敷居が高いイメージがあって、どこから手を付けたものか、と、しばらく放置されたまま、しかし乱読は続いていた。

そんな折、先日たまたま行った図書館の開架で対談集を見つけ、これなら始めの一冊として良さそうだ、と借りてきた。しかも運良く図書館は蔵書整理の都合でしばらく閉館になり4週間借りられる。時間がかかったり何度も読む必要があったりなのではないかと億劫になっている身にとって好都合だ。(この手の本はなかなかbookoffで見つからないので…。)

というわけで
「すべてを引き受けるという」という思想 吉本隆明(光文社)
を読んだ。
今まで出来るだけ(無意識に)そぉっとしておいた頭の中一部分をぐるぐるかき回されている感じ。
「甘いんだよ!」「もっと良く考えろよ!」「おまえはそれだからダメなんだよ!」等々。
とはいっても全くイヤな感じではない。思考だけでなく様々な感覚や感触を否応なく刺激され、むしろ叱咤激励されている感じと言っても良いと思う。そして、机の上には既に次の本が置いてある。(きっと無知の手当たり次第、なんだろうけれど読まなければ先に進まないし。)

(良くも悪くも)密閉された中で時間をかけほんの少しずつ発酵してきたものが、ここに来て外気にふれ、変化の速度が劇的に加速している感触があり、その変化を(全く根拠はないのだが)受け入れたい気持があるのは紛れもない。