4月
26
言葉数

折々の言葉

何か話す時に、できるだけ正確に伝わるようにと思えば思うほどうまく説明できず無駄な言葉を重ね我ながら嫌になってしまう事が良くある。
言葉を重ねれば重ねるほど誤解の上乗せになるようにすら感じることもある。
だから、私は、自分の思ったとおり、イメージ通り、のことを他人に言葉で伝える力が本当に足りないのだ、と思っている。語彙も少ない。組み立ても下手だ。

簡潔な言葉で端的に物を言い表す事が出来る人を見ると心から底から羨ましい。

最近は、そもそも(できるだけ正確に話さなければ、というような)話し方が間違っているのかも知れないともっていた矢先、この言葉に出会った。

そうか、私は言葉が多すぎるのだ。正確に伝えようとすることで思いを押しつけようとしてしまう。
そのことによって人の想像力に任せる部分を狭め、さらに伝わらなくしてしまうのか。
妙に納得している。

だからこそ言葉を磨かなければ、と思う。
必ずしも難しい言葉ではなく。

これを書いていて何かパチパチと頭の中で化学変化が起きはじめているように感じる。どうやら言葉だけではなさそうだ。

3月
05
久々に

更新です。1年以上経ちましたが、また真面目に記事を書こうかな、と再考中。

手始めに折々の言葉。

失敗が出来る環境というのは大切。

今はなかなか失敗させてもらえない。失敗すると非難され叩かれてしまうだけ。
口では試行錯誤って言うんだけど、失敗して叩かれて嫌になって辞めてしまう。

それでは育つわけ無い。

12月
15
聴くこと

朝日新聞 折々の言葉 1315 (2018年12月14日)
から覚え書き

彼らがわたしの言うことがわからないのはわかろうとしないからだ。

ジュンパ・ラヒリ

鷲田さんのことば
 わかろうとしないのは「わたしを受け入れたくないから」、わたしを無視でき、わたしのことを考慮しないですむからだと、インド系米国人の作家は言う。言葉は、それを聴こうとする耳にしか届かない。関心のない人には、どれほど情理をつくし語っても伝わらない。聴くことは他者を人として尊重することであるから。昨日と同じ随想集『べつの言葉で』(中嶋浩郎訳)から。(鷲田清一)

あ、音も同じだな。
聞く(聴く)耳を持つ事の大切さ。

12月
02
拾ってきた言葉 20181201

ネットの中から拾ってきた言葉。

それができないという人は、
それをやっている人を妨害してはならない。

– 中国のことわざ –

そりゃその通りだと思う。
だけど、人の妨害をするような(できない)人は、自身が「できない」ということをわかっていないんじゃないかなぁ。
それともわかっていてそれでも羨望ややっかみが妨害させるのかなぁ。

11月
09
手を打つ

今日の昼過ぎに、この昔に書いた記事を思い出した。

教える側の専門性不足による不幸せな事態。

しかし、専門性の不足なんてどこまで行っても誰にでもあり得ることで、足りないところを謙虚に学んでいけば良いだけのはずなのだが。
何より本人が「足りていない」ことに気が付かないのが問題なのだと思う。

そりゃそうかもね。見たこともないのに思い描けるわけがない。知らないのだから自分で気づくのは難しいだろう。
それではと、おそるおそる指摘してみるも、改善しようとしないのかな。自分を守ることに終始してるように見えてしまう。

結局、割を食うのは学ぼうとしている若い人たち。
 

またそんなことが身近に起こっている。
音楽を学ぶはずなのに、若い芽がどんどん萎れていくのを見ていることしかできないのか。

と頭を巡らせていて、先の記事のことを思い出したのだ。

そうだよ、ちょっと待って。
同じ轍を踏んだらあかん。
このまま憂いているだけでは昔と同じじゃん。
見て見ぬふりでは本当に申し訳ない。

心に決めた。何か手を打つ。必ず。急ぐべし。

5月
06
民主的な社会に暮らす方法を

朝日新聞 折々の言葉 1101 (2018年5月6日)
から覚え書き

民主的な社会に暮らす方法を学びたいのならば、オーケストラで演奏するのがよいだろう

ダニエル・バレンボイム

鷲田さんのことば
 楽団の各パート(受け持ち)は、あてがわれた単一の機能を担う部品(パーツ)とは違って、他の演奏者の思いを量りつつ、追従したり、けしかけたり、互いに応じあう中で曲を作ってゆく。そう、他の人のために場所を残しながら、同時に自分の場所を主張すると、ピアニスト・指揮者は言う。A・グゼリミアン編『バレンボイム/サイード 音楽と社会』(中野真紀子訳)から。(鷲田清一)

11月
19
スローガン

エルシステマのスローガン
「奏でよ、闘え!」
について、突然に何か腑に落ちる感じがした。

ようやく気がついたみたいだ。
「闘う」とは相手を倒すことではなく、自分自身に決着を付けることだ。

そうか、闘っていないな。いろんなことがモヤモヤなままだ。

これでまた少しだけ前に進める。

4月
16
5年前

と同じ感覚。
まずは、何かしたいのに何もできないもどかしさ、悔しさ、を痛感する。
そして、次に(直接関係がない事でも)今自分ができることを一生懸命やるしかない、という覚悟。

西宮市長のFB投稿

なお、出発した部隊のさらに後方の支援をおこなうこと、新たな支援の照会・要請に応えられる体制をとること以外には、日々これまでどおりの仕事を一所懸命することこそが、西宮市役所にできることだと思っておりますので、あらゆる活動に関して自粛等は致しません。

とあった。そうだよな、「日々これまでどおりの仕事を一所懸命すること」が唯一私にできることなんだ。

〜〜〜〜
一方で、先回の経験は生かされているのだろうか…。

TVはNHKの災害報道が付けっぱなしなっている。(釣りビジョンしか見ない私には大変珍しいこと!?)
報道ヘリはやっぱりうるさく飛んでいるらしい。
もっとも自分もTVでその映像を見て事の重大さを知ったりするのだから、全く必要ないとは言わない。でもリアルタイムな生中継が必要なほどでもないだろう。
それって現在はドローンでできるのではないの?人名救助とか物資運搬とかじゃなくて単なる空撮でよいのだから。何よりヘリより決定的に静かだ。しかも無人、自動操縦で。危険なところへも飛んで行ける。
番組見てると(釣りビジョンですら)とても効果的な空撮映像撮れてるよ。人間が行けるところまで手で持って行けるし。

も一つ。
災害放送のなかで川内原発の話題はほとんど無い。本当に稼働中止の必要がないのなら他の話題と同じように繰り返し流せばよいのに。少なくとも私は放送の中で一度も目にしていないので、放送できない理由がどこかにあって「きっと圧力掛かってるんじゃないの?」って思う。
とにかく、地震が収まってからまた考えればよいことなので「今は止めておく」べきじゃないのかしら。
こんなページ川内原発を止めてください。も。

4月
02
年度の初め

こんな言葉に出会う。

朝日新聞 折々のことば 2016年4月2日

語ること、書くことは、ある経験を翻訳することであるが、その経験はしかし、それが紡ぎだす言葉のなかではじめて原典となる。

モーリス・メルロ=ポンティ

 言葉にならない経験を言葉で表現しようとするとき、人はそれを翻訳の作業になぞらえる。だが、外国語の原典もあくまで自言語を通して探るほかないように、言葉以前の経験も言葉として整えられてはじめて形をなす。経験に浸っているだけではいつまでもその経験の意味は明らかにならない。哲学者の講義要録集「言語と自然」から。(鷲田清一)

2016年4月、新年度当初に肝に銘ず。