3月
09
ようやく

手に入れた。
言語にとって美とは何か 吉本隆明 角川ソフィア文庫。?と?と。結局大手通販に頼った。

例の古本屋チェーンでは、方針が変わったのか、この手の本が店頭からどんどんなくなっているように感じてる。あっても値段も上がり気味。そういえば、端末ピコピコさん達も減ったような。高値で売れるもっと別のルートを見つけ店頭には出なくなったのかな、と密かに思っているのだが、どうだろうか。

なかなか読み進めていかないが、本の冒頭「文庫版まがえき」の4行目で
文学の作品や、そのほかの言葉で表現された文章や音声による語りは、一口にいえば指示表出と自己表出で織り出された織物だ、と言っていい。
と出てきて、のっけから自分の中の、ある種の感覚が「うぉ〜」と呻いた。
 

最近になって、自分に何かを取り込むやり方が少しだけわかったような気がしている。
どうやら「理解」という感覚ではなく、もっと奥底での変化(というか変容というか…)を感じることのほうが上手くいくようなのだ。
それは反復によっていつの間にか「身についている」事もあるし、一瞬にしてそれこそ「!」と閃くような時もある。
そこにはまだ明確な言葉が無い。言葉はもっと後から付いてくる。(ついてこれない場合もあるけれど…)
いままで、その感覚はあまりも感覚的すぎるので出来るだけ見ないふり感じないふりをしていたのだが、それを改め微細な感覚の変化をそのまま信じることにしたら、案外うまくいくようなのである。

で、「うぉ〜」は一瞬にして閃いた「!」そのもの。
直後、文字を追うことをやめると今まで持っていたものとチカチカと反応しはじめる。自分でも把握できない何かが起きているのだが、それを特に理解言語化しようとせずにじっと待つ。
そんなふうにしていると、いずれ何らかの考えが浮かんでくる。
それで良いのだ、と思うことにしたのだ。

子供の頃、本を読んでその物語の世界の中にどっぷりつかっているときと、ただ文字を追っかけているときがあることに気がつくことがあった。子供ながら、それは決定的に違うのだ、と思った記憶がある。

まだ言葉は浮かんでこない。自分の内部で何かしら変化が起きていることは確かなのだが。
読み終えるのには少々時間がかかりそうだ。

11月
19
余韻

先日の日曜日の昼過ぎ、本番があった。あぁ、楽しかった。
その時はただそれだけを感じ嬉しかった。

実はその晩、なかなか眠れなかった。
ようやく寝付いて、浅い眠りの中で夢を見た。
今自分が考えていて、やろうとしていて、生きているうちに出来たらいいなぁ、と思っていることが実現している夢だった。
ハッと目が覚め、この夢は絶対忘れてはいけない、と強く思った。

それから、じわじわと、その本番の真の意味が理解できてきたような気がする。

私はかつて、創部昭和4年という希有な伝統を持つ、東邦高等学校吹奏楽部というところの顧問で毎日指導をしていた。
前任からそこを引き継ぐときに様々混乱があり、何も知らずに着任したとき私は全く孤立し、以来私以前との断絶は続き、しかしそのなかで伝統に見合う活躍をしなければならないプレッシャーと戦い続け13年ほどでそこを辞めた。

辞めてからやはり変わらない状態でさらに年月が経ったが、邦吹会という私以前の東邦高校吹奏楽部OBの方々が中心になっているBANDで本番を振ったのが先日の日曜日の昼過ぎ。この日この本番をもって続いていた世代間の断絶がとうとう終了した。

本番最中は、冒頭に書いたように、単に「ようやく繋がることができた」ことが嬉しくて楽しかった。ようやく私を認めていただけたのではないか、と感じて幸せだった。時間はかかったけれどようやくここまで来る事が出来たのだ。

邦吹会20151115

ただ現在私が東邦高校吹奏楽部の現場にいないことはなんだか申し訳ない…。

が、その後じわじわと滲みあがってきた事がある。
私が2曲、そして先代が1曲、この二人でたった3曲15分ほど、その時だけの寄せ集めバンドで街角演奏することが、私個人の感情などとは比べものにならないくらい、とてつもなく大きな意義を持っていたことに気がついたのだ。
今それが大きな余韻となって私の中を駆けめぐっている。

創部以来85年を越える(きっと日本国内でそれだけの伝統を持つスクールバンドはほんの僅かだろうと思う…)伝統が、言葉のみで語られる歴史としてではなく、実際の人と人が繋がって受け継いでいく生きた伝承として蘇りつつある。その時々に関わる個々がいてこその伝統だが、受け継がれ出来上がった流れは人の意図を遙かに超え大きなうねりとなる。そのうねりの中に世代を越えた人の繋がりが厳然とあること。それこそが今まさに生きている文化なのではないか、とさえ思う。

まだまだ「始まり」に過ぎないが、とても大切な「始まり」だ。
その小さな「始まり」も勝手に始まったのではない。それを望み働きかけた方々がいらっしゃってこそ。心より感謝いたします。

記念写真

そして何よりも良かったのは「間に合った」こと、だと思う。本当に良かった。
「望むこと」の大切さ。

その晩に見た夢は「望み続けろ」ということなのだ。きっと。

10月
12
サイト構築

しばらく更新に間があいた。

その間に、以前書いた始まりつつある動きの一つにかかりきりだった。
あるWEBサイトを構築しているのだが、どうしてもそれに集中してしまうのだった。

慣れないphpというシロモノと格闘しあちこち検索しまくって情報を拾いつつ、つい最近なんとか思ったような機能が構築できてきた。
機能が出来たけからといっても、サイトの全容はまだまだなので、これから精査し充実させなければならない。
もちろんそれだけでなく、そのサイトで起きたアクションをローカルPCで処理する別の仕組みを作るつもりなので、そろそろそちらに取りかかりたい。
さらにはそのサイトで発信していくべき一番大切なコンテンツも、やりたいことやらなければならないこと満タンで頭の中がパンクしそう。
(大体そういうときは部屋の掃除をしたくなるのだが、まずは一区切り付くまで今は我慢。)

そんなことを考えて動いていることが実に楽しい。
遅々として歩みは遅いけれど、様々なことを確実に進めていく。

…なんのことやらさっぱり?
来春までにはきちんとお知らせできると思う。

そう、もう一度やるのです。あれも、これも。それも。どれも。
なぜなら、やりたいから。
 …あのときのように、やらなければならないから…ではありません。

ただ、やりたいから。
とても単純な理由です。

8月
12
見えてきたこと

前回(自転車と一輪車)からの続き

見えてきたことは、実は新しい事ではない。
今までも見え隠れしながら私の周りにまとわりついていて何かある度に少しずつ顕在化してきた事々なのだが、うすらぼんやりとしか見えていなかった一つ一つの事々は、だから確固たる自信がなかったり、自信はあるけれどその実行に弱気だったりして、どうにも情けない状況だったのだ。(それでたくさんの失望や迷惑をおかけしてきた。本当に申し訳ないです。)

それが今、その一つ一つはやはりどれも大切で、それらを有機的に結びつけていずれ一つの大きな動きにする、という道筋がはっきり見えてきたのだ。そう、いきなり。

今はまだ、その目指すべき一つの大きな動きを説明するのは難しい。
しかし、その全体の大きな動きに中にある一つ一つの要素を着実に進めていくことこそが、それを説明する一番最良の道なのだということは判った。

今現在、実際に動き出している事は二つほど。
始めかけていることが一つ。(これはずっと以前より考えているけれどなかなか進んで行かなくて、そろそろ加速せねばと思っていた。)
これをきっかけに相談開始していることが一つ。
今までもやっていたけれど、もっとたくさんやらねば、と思っている自分自身のこと二つ。
今までもやっていたけれど、もっとたくさんやりたい(でも、こればかりは私ひとりでは出来ない…、どうか依頼してください!)こと一つ。
まだ何もやれていない、けれど、とても大切で必ずそこに行きつかなければならないこと、三つ?いや四つか?

全てが私のイメージの中で明確にリンクしている。
まだまだ見えていないこともきっとあるだろうから、するべき事は数多い。
 

これを書いている最中に、かつての生徒が音楽で活躍しているという便りが届く。(facebookの情報です)
彼女は、「自転車」に乗って縦横無尽に音楽という世界を駆け回っているのだ。
 
たどり着くための大きな力を頂く幸せ。
皆さん、どうか今一度力をお貸しくださいませ。
少しずつかも知れないけれど、私は本気で動き出します。

8月
11
自転車と一輪車

自転車や一輪車は、だいたい小学生かそれより少し前くらいに乗れるようになるのだと思う。
いずれも同じように人が乗ってバランスを取りつつ前に進んだりする。
でもこの二つ、タイヤ数の違いだけでなく、性格が根本的に違う。

一輪車は乗れることがステータスだ。さらに難易度の高い技を競ったりして「乗る」こと自体が楽しさである。もっと高度に「乗る」「操る」ことを目指しつつ。
一方、自転車は乗れることのみが目的ではない。今まで行けなかった遠くにまで足を伸ばせるようになることや、移動時間の短縮にもなるし、より多くの(重い)荷物を運んだりもできる。そういった乗れることによって生まれる恩恵のほうに重要な意味がある。他のアクティビティの範囲を広げるためにこそ自転車はあるのだ。

最近は自転車に「乗る」ことが大きな目的だろうと思われる上から下までビシッとバイクファッションで固めた大勢の方々が、車道をかっ飛ばしていらっしゃるけれど。
移動や輸送の手段で動いている大多数の自動車と道上でなかなか折り合いが付かないのはその目的が違うからかも、と思ったりする。

確かに、乗る自転車は錆付いたママチャリより最新のマウンテンバイクやロードバイクの方がかっこいい。(とはいえ、体にあったサイズや調整をしていないと少々苦しいのも事実だが。)
しかし「乗れる」からこそ「行動が広がる」のが自転車であって、乗っている自転車がかっこいいかどうかはまた別の話なのだと思う。
 
 

そんなことを、今年の吹奏楽コンクールの様々な演奏を聴きながら考えた。
どこのバンドも楽器は達者に吹けるようになった。個々の楽器の集合体である「バンド」という大きな楽器も本当に達者になった。
吹奏楽コンクールは、まさにその達者さを競っているのだと改めて感じた。それはとても難易度の高い一輪車的アクロバティックな競技なんだな。

で?

中学高校で管楽器や打楽器に興じているこんなにたくさんの人達はこの先いったいどこへ行くのだ。小学生の頃一輪車に興じた多くの子供達が、大人になったら一輪車のことなんか全く忘れてしまうように、みんな吹奏楽から、楽器から離れていってしまう。

一輪車のように、楽器が達者に吹けるようなることやバンドとして精度を高くすることだけではなく、自転車のように、出来るようになったその先にあるもっとたくさんのもっと大きな様々な楽しみを伝えてくるような、そんな演奏を目指して欲しいと心底思った。(もちろん自転車に乗れなければ決して出来ないのだから、自転車をうまく乗りこなす技は必要である。)

一輪車的な吹奏楽は話題性もあり世間に振り向いてもらえる可能性は高いが、それが続けば飽きてくる。本人も飽きる。私はとうの昔に飽きている。
きちんとその先の数ある楽しみを伝え、だからこそ吹奏楽(音楽)を続けたいと思わせる楽器技術やバンド演奏にならなければならないと強く思う。さらに言えば、それが自転車ではなく自動車になっていく可能性をも見せるべきだと思うのだ。

そこを押さえた指導がいかに大切かということと、それをこのコンクール現状の中では実践するのは難しいのだろうということ。
個々のバンドレベルでの問題ではなく、もっと大きな視点で捉え大きな動きにしていかないと、吹奏楽という音楽文化はいずれ衰退していくのだろうとさえ思った。

それは今年度のとある課題曲の扱い一つとっても感じる。「音楽の表現」という領域に入ってい(け)ない場合が多いのが露呈した感じ。演奏する側(※実際に演奏した団体についてのことではない。演奏した団体はその曲を「選んだ」時点で既に「表現」を意識している…)も評価する側も。この数年何となく感じていたがそれがこの曲によりはっきりした。
特に、評価する側についてそう思っていたら、最近になって「この曲は吹奏楽コンクールの審査員を試そうとしたんだ」と作曲者本人が言ったとか言わなかったとかの話を小耳に挟んだ。いずれコンクールが全部終わったら今度は「吹奏楽連盟を試したんだ」と言いそうだね。(私は最初からそう思っているけど。)

そして、衰退をしはじめたら止めるのは難しいかも、と思う。
 

一方で、たくさんのレッスンの様子から、個人レベルでは皆それ相当の力を持っているように感じている。しかし、本人達はどうやらそれを知らないみたい。力の発揮の仕方を知らない、「発揮させる」という発想を持たない、というか。でも本当に一生懸命一輪車の練習はしてるんだよ。
(あ、鉄棒の逆上がりに置き換えても同じ事。その先に何か良いことあるの?が判らないまま、本当にまじめに練習してる。あたかも「それが出来ること」が最大の目標のように。「それが出来たら良い成績をもらえる」ことが最終目標のように。)
 
 

その中で私は何が出来る?
何をするべきだ?

この数年(数十年かも知れない…)の混沌の中から見せるべき形が浮かんできたように思う。今までぼんやり見え隠れしながら感じていたことが、今年はとてもはっきり見えだした。

(続く)

8月
01
花火大会

我が街には昨年まで花火大会があった。
さほど大規模ではないにしても人気はあって毎年賑わっていた。

それが、今年から中止になった。理由は当初、交通渋滞がひどく近隣からの苦情が多かったから、と聞き及んでいた。
確かに開催中、近くの県道は全く身動きが出来ないくらいの渋滞だったが、だからといって「花火大会を中止せよ」になってしまうのもなんだかなぁ、と思っていた。1年に一度のことだし、住人だって花火大会楽しみたい人多いだろうから、そんなかんたんに中止で良いのかなぁ、と思っていた。

そんな折、本日もう少し詳しい話を聞き及んだ。本当の理由かどうかは判らないけれど、「さもありなん」な感は否めない。

我が街には大きな大学病院がある。ドクターヘリ基地があるような救急医療の拠点になる病院だろう。
花火大会中、その病院につながる全ての道で違法駐車がひどく、救急車が全く通れなくなることが一番大きな理由らしい。
急患を乗せ病院を目の前にして、しかし違法駐車の群れで行き着けない。そんな理由で本来つながる命がつながらなかったのだとしたら…。(やはり、そんな例があったのだろうか。)
人の命に関わる事だから、そりゃ中止もやむ得ない、と思った。とても残念だけれど。

 
そうか、そこまで思いつかなかった。最大の原因は違法駐車なんだ。救急車も通れなくなるくらいに道の両脇にずらっと並んだ違法駐車。
それって、まさに花火大会を楽しみに訪れる人達の車だ。
もし本当に理由がそうならば、一番花火を楽しみたい人(楽しんだ人)達が、いつの間にか自分達の首を絞めた、ということになる。

中止の原因を作ったかもしれない人達がそこに思い至る事があればよいのだけれど。

7月
01
捨て石

「新聞を懲らしめるべきだ」といった人が、後日、再度同じことを言ったらしい。
本人はいたってまじめで本気にそう思っているのだろう。

通常、失言(自分ではまっとうなつもりだけど世間が認めてくれない発言…)をしたら、(真意はともかく)とりあえず「お騒がせしました」になるのだと思う。
それが、そうならず同じことを2度言った。

何かしらの変化を求め、自らの意志を貫いて2度も発言し、世の中がさまざま反応し、中には「よくぞ言ってくれた」のような賞賛の声も届き(仮にそれがほんの一つ二つでも「言って良かった」につながるうれしさに違いない…)、ある意味ご本人はご満悦なんじゃないのかな、と私は勝手に思ってる。
 

でもそれは、もっと大きな力に「利用」されてるだけなんじゃないの。
知ってか知らずか。

一度元気の良いやつ使って言わせてみろよ。
あ、本当に言ったなぁ。褒美でもやっといてくれ。
あらら、調子に乗り過ぎちゃったな。
過ぎたるは及ばざるが如し。
騒ぎが大きくなってきたからそろそろお引き取り願おうか。

捨て石。
消耗品。
−使える物は何でも使うだろうからねぇ。−

もしかすると、本人そんなことは先刻御承知なのかもしれない。
だとしたら、自爆テロと変わらんですな。
あ、そうか、特攻隊が見え隠れしてるわ。

これから、このような事がぐっと増えていくんじゃないかと。
そのたびに炎上して、疲れて、飽きて、そのうち「それでいーじゃん。」「なんとでもなれや。」「めんどくさい事言う奴黙っとけ。」な雰囲気を醸し出すまで。

石ころは、どこにでもたくさん転がっている。
私だってちいさな石ころのたったひとつにすぎない。
でも、この捨て石にはされたくないなぁ。

6月
30
かんじん

定石を多く身につけることと、その定石を破る道を見つけること。
自分の周りに知識の壁を作ることと、その壁を打ち破って外の世界に出ること。
Inputすることと、Outputすること。

それぞれ対になっている事柄は、単純に対になっているわけではない。
両端の間に、対となり得るための大切な部分が隠れている。
その大切な部分は見えないことが多い。
見ようとしないこともさらに多い。

心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ

  星の王子さま  サン=テグジュペリ

久しぶりに再会した一文。WEBさまよってたらいきなり飛び込んできた。

肝心なことは目に見えない。
 だから、(考えて)見えるようにする。
 だから、(心で)見る。

肝心なことは言葉にならない。
 だから、(考えて)言葉を紡ぐ。
 だから、(心で)思いやる。

そしたらきっと両端がつながる。

6月
16
なぜか今日になって

このような論調の記事が目立つようになってきたなぁ。

例えばこれ、亀井静香氏の発言記事

例えばこれ、改憲派の憲法学者の記事

なぜこのタイミング?ということに興味がある。
なぜ、もっと以前に表に出てこなかったのか。
この人達の考えが突然今日になって変化したわけではあるまいに。
メディアの怠慢を指摘する声もあるが、メディアにだって表に出さなかった(出せなかった?)理由がきっとあるだろう。
それが、なぜ今?

何かバランスが崩れたか。崩そうとしているのか。
誰の?
誰が?

(少なくとも、国民、とか、世論、とかでは無さそうな気がしている。)

6月
12
生物多様性

季候が良くなって、生き物の活動が活発になる。
梅雨に入って雨も降るから、植物もどんどん生い茂る。
様々な生き物の活動が人の目に触れるようになる。
それを見るたびに、自然ってすごいよなぁ、と心から感心する。

私は。

しかしWEBをさまよっていると、実は世間の人々はそうでもないのかな、と思わされる事に出くわすことが多い。

「ゴキブリが出て引っ越ししたい。」
「ヘビがいて気持ち悪い。」
「名前の判らない大きな虫(註 シロスジカミキリと思われる)がいて怖い。」
「大きな蜂が飛んでる。」
「蚊がうっとうしくて寝られない。」

それだけなら別に何とも思わない。個人の好き嫌いの範疇だろうし。
むしろ、そういうのを嫌いな人がいて当然だと思うし、誰だって人に危害が加わるのはご容赦願いたい。

しかし、その後に
「即死刑だ!」
「早く絶滅させるべき!」
「こんな物が生きていることが耐えられない」
などと続くと、本気で言っているのかなぁ?と心配になる。

以前にも紹介したが、ヒトはイヌとハエにきけ J.Allen Boone (著), 上野 圭一 (翻訳) 講談社という本。

現在は動物はすべてを知っている (ソフトバンク文庫)と改題されている。

その中に、ガラガラヘビのくだりがある。アメリカに移入したヨーロッパ人達は開拓時代、皆ヘビが怖いから、ガラガラヘビを見たら恐怖で騒ぐ。銃で撃ち殺す。ガラガラヘビはそれを感じて余計に人間に攻撃を仕掛けてくる。ネイティブアメリカンはガラガラヘビなんか別に怖くないから出会っても騒がないし敵意もない。だからガラガラヘビも攻撃せずに素通りする。
ガラガラヘビは(ガラガラヘビに対する)人間の気持ちを全て感じていて、それによって対応を変えるのだ、という話。

元々この本は異種間コンタクトに関する記述だから、どこまで本気にして良いか微妙なところもあるが、しかし私はこの考え方が好きだ。
なんといってもネイティブアメリカンの場合は人蛇ともお互いに敬意がある。

 
一方で、虫とか蛇とかを忌み嫌って絶滅を望む気持ちと、ネット上でいろいろ聞き及ぶ差別や侮蔑などのヘイトスピーチと、両方とも根っこはかわりがないと思っていて好まない。
地球上で自分達と同じように生きているのに、自分にとって不快な事や物だからと言うだけでさげすんだり、絶滅を願ったりするのだから。

究極の自然保護は人間が滅びることだ、と言われてしまうことがあるくらい人間の存在は自然環境にとってダメージが大きい。
にもかかわらず、人以外の生き物は人に対して文句言っていないんじゃないかな。
どんなことであろうとも、あるがままに受け入れているだけだ。(因果関係など判るわけ無いからそうせざるを得ない、ということでもあろうが…。)

だから、せめてそいつらの存在くらいは認めてやらなきゃ、と思う。(もちろん、好き・嫌いは別な話。だれだって嫌いな物はある。)

生物多様性とは、生物が多様であることこそ地球が豊かなこと、という考え方だと思う。
万が一、自分にとって不快な存在はこの世から消えてなくなれ、と思っているのだとしたら、豊かさを否定していることになるんじゃないの?