10月
03

意味はとりあえず理解できなくても型を覚えると良いものは色々たくさんある。

たとえば九九。何故2かける3が6になるのか解らなくても「ににんがし」「にさんがろく」「にしがはち」「…」と覚えておくと、後に高等な数学になってもそれは生きる。いや生きるどころが九九は必須だな。しかしもし「にごきゅう」と覚えてしまうと全ての計算の秩序が崩れて覚えたことすら全く無意味になる。
意味が判るかどうかは問題ではなく正確に覚えたかどうかが重要だ。

たとえば挨拶。朝会った人には「おはよう」という。それは挨拶の型だ。もし顔を背けて何も言わなかったら人並みな社会生活を送れない人だと思われる。仲良しだけに言うことでもあるまい。また、決して「ご愁傷様」とは言わない。
これは状況に対するパターンだから単純ではないかも知れないが、それでも挨拶はまず型だ。

もちろん言葉も同じ。言葉も皆が共通認識できる型だ。その状態や気持にあった言葉を知らないと人に伝えることが出来ない。「何かあるんだけれどもやもやして言葉にならない」では他人は知りようがない。他人に伝えたいと思うならばその状況や気持に対応した言葉、すなわち生活パターンに応じた言語を知っていて使える必要がある。
言葉をたくさん知るには、誰かを真似るか、本を読むか、などなど、何らかの方法で状況に応じた言葉のパターンを覚える他はない。覚えた言葉を(ボキャブラリー)語彙といいコミュニケーションの宝だ。

「型を覚える」という行為や、その結果である「型をたくさん覚えた」という事実は、本人の好む好まざるとは無関係で、たくさん覚えている方が有利であることはいうまでもないだろう。

さて、我々は音楽をやっている。上記と全く同様にたくさんの型を覚えなければならない。
音階。音符。強弱。拍子。リズム。発想表語。音程。音色。楽器。様式。形式。その他様々。
さらに、吹奏楽部の活動運営上、知っておくべき型もある。練習の仕方や係の仕事など。それらは無条件に、出来る限り多く、出来る限り早いうちに、正確に、体で覚えておく必要がある。
なぜならそれらが必要になった時、自然にすらすらと体から出てこなければならないから。必要になった時にやっと覚え始めるのでは「泥縄」と言い、たいがい手遅れになる。

それぞれの型が状況に応じてすらすらと出てくるくらいになって、やっと一人前と言われるレベルだろう。そのレベルに達してはじめて「覚えておいて良かった」と思うことができる。意味も判らず覚えたことに改めて感謝することになる。
その一方で、身に付けることが出来なかったらその恩恵にあずかることなく意味も判らず一生を過ごすことになるだろう。ただ「覚えろ!」と言われ苦しい思いをした記憶だけが残ることになるだろう。それは負け犬の記憶だ。

やるか。やらないか。
覚えるか。覚えないか。

9月
28
昔々

私が通っていた高校は新設2年目のまだ校舎も体育館も完成していないようなとんでもなく中途半端な学校だった。
当然部活動だってまともに活動できず、吹奏楽部も楽器が全然揃っていなくて苦労した。
2年の時にやっと3学年揃い人数も何とか合奏できるくらいに増えたのでコンクールに出たいと言うことになった。

そのときの顧問の先生は全然吹奏楽のことは判らず、コンクールのとき(夏休み中)は神戸に帰省するから、とかで全然頼りにならない。それでも教員か?と怒りまくったね。

しょうがないからに直談判をしに校長室へしょっちゅう行ったものだ。
「楽器を買ってくれ」
「買ってくれないなら他の団体から借りるから許可をくれ」
「練習場が狭いから何とかしてくれ」
「夏期休暇中の校舎の鍵開けを任せてくれ」
「他の学校の生徒と練習交流をしたいから学校に呼んで良いか」
「顧問を変えてくれ」
などなど。
いきなり生意気な生徒が校長室をノックして入ってくるんだからびっくりしただろう。

しかし、だいたいにおいて校長は取り合ってくれず(会ってもくれず)、教頭に「本校の学校方針によりそれは認めることは出来ません」と言われておしまいだった。
悔しかった。学校方針という代物は一度も目にしたことがないから、文書化したものを見せてくれ、としつこく迫ったこともあった。
ガッコのセンセは嘘つきだ、という認識になったのはこのあたりが原因だろうな。
教員にとっては一番いやな生徒だったろう、と今になって思う。

しかし、突然練習中に校長がわざわざ合奏を見学に来たことがあった。あなたは一生懸命やっていると聞いたので是非練習を見させてくれ、と。一時間くらい黙って座って見ていた。「ありがとう。良いものを見させてもらった。」と帰って行ったっけ。
合奏練習の雰囲気は、その当時と今とそんなに変わりはないから、先輩を相手にしてなんと生意気な厳しい練習をしていたんだろうと思い出しながら苦笑する。

この頃、後輩に「死神のように怖かった」と評された事もある。それも中学校時代の私のことを、だ!

温度差のある部員に対して(それが先輩であろうとも)「もっと練習してください!」と平気で言っていたし、そんなのだったら一緒に音楽したくないです、と何時間もミーティングを重ねた結果お辞め頂いたこともある。(それがみんなの総意だったから一人で何人もの先輩に立ち向かい嫌われ役を買って出ていたわけだ。)
コンクール初挑戦の演奏は特にすばらしいものではなかったけれど、みんな精一杯がんばった。配置をTb下手、Tp上手にしたりといろいろ反骨丸出しで、それでも心ある部員はみんなついてきてくれたし、本当に楽しかった。

その当時のメンバーは今どうしているのだろう?と気になる時がある。
今も音楽に浸って生きている、という便りを聞くことがあるから、みんな充実した音楽生活をしているんだろうな、とは思うが。
 

時代が変われば人も変わるというけれど、本当にその当時から考えると今の高校生はだいぶ様相が違うように見える。でも、根本的なことはそんなに簡単に変わらないはずだから、きっかけ一つでもっともっと輝ける青春時代を謳歌できると思うのだが。

是非やってみて欲しいなぁ。

9月
28
オネゲル

なんだか急に書きたくなったので書く。

アルテュール・オネゲル (Arthur Honegger,1892年3月10日 – 1955年11月27日)
フランス近代の作曲家。フランス6人組のメンバーの一人。
私が大好きな作曲家。

一番始めにオネゲルの曲を聴いたのは、冨田勲のシンセサイザーアレンジのパシフィック231だった。確か中学2年の頃だ。ぶったまげた。本当に機関車が走り出し疾走し急停車する有様が手に取るように見えたから。そのシンセアレンジも秀逸なのだ。銀河鉄道を彷彿とさせるファンタスティックなものだった。

その後、どうしても原曲(管弦楽)の演奏を聴きたくなりレコードを買いに走った。スコアも見つけ、なけなしのお小遣いで買い込んだ。バス代が無くなり長い距離を早くレコードを聴きたい一心で急いで歩いて帰ったのを記憶している。

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《パシフィック231》は、パシフィック231という蒸気機関車を描写した作品であると解釈されており、オネゲル自身はそのような通説に抗ってきたが、オネゲルの機関車好きはつとに知られたところであった。「私は常に蒸気機関車を熱愛してきた。私にとって機関車は生き物なのであり、他人が女や馬を愛するように、私は機関車を愛するのだ」と語ったことでも有名である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(「オネゲル」でググってみてください)
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『わたしは作曲家である』という自身が書いた本にあるパシフィック231の解説の部分で、
「テンポがどんどん落ちていくのにスピード感がどんどん増大する曲を書きたかっただけだ。曲が出来上がった後にたまたまパシフィック231というぴったりの題名を思いついたのだ。」
のようなこと書いてあった。(記憶を頼りに書いてます。違ってるかも知れない。)
作曲家の純粋な着想や発想と、出来上がった楽曲のイメージは必ずしも一致する物ではないのだ、と妙に感心した。

そしてそのレコードのB面にあったクリスマスカンタータを聴いてまたもや涙した。なんと強い音楽だろう。
ちょうどその頃は作曲の勉強を始めた頃だ。聴く音一つ一つが私の心に取り憑いて離れない。音楽の将来を悲観していたオネゲルの遺作だと知ってなおさらこの曲が好きになった。単純なのに全く隙が無く、飽きない。そしてフィナーレが希望に満ちているのだ。苦悩の末に行き着いた喜びってこんなに素晴らしいんだ、と。

高校生の頃、弱小ではあるものの吹奏楽部の部長だった。2年生の時(創部3年目。その部活にとってそれがコンクール初挑戦)でコンクール指揮をし、3年では私の大好きな曲、オネゲルのパシフィック231をやろうとアレンジも全部書き上げた。部員は20人ぐらいだったと記憶している。結局、それは実現せずそのアレンジはお蔵入りになってしまった。楽譜は大切に保存している。

東邦4年目に全く新しい私のアレンジでパシフィック231のコンクール演奏をしている。そのアレンジは特殊だけど案外気に入っているんだ。その演奏(正確にはコンクール直前のホール練習の音)は今でも聴ける。

 

23歳の私にだって高校生の時があったんだぞ、その時にはこんな事を考え、あんな事をしていたんだぞ、とつらつら思い出していたのだ。
純粋に音楽に憑かれ、やりたい事をやりたい放題やっていた。思いっきり夢を追いかけてたんだなぁ、と考えているうちに、私にとってオネゲルがとても重要だった事を思い出したのだ。

吹奏楽部の活動の為に、音楽以外の事でも色んな事やってた。今考えると生意気で恥ずかしい事ばかりだけど。それはまたの機会に書く。

私の青春を支えていたのがアルテュール・オネゲル。
今、初心に返ってオネゲルを全部聞き直そうと思う。

9月
24
創部何年?

今年は本校創立80周年記念の年だ。様々な記念事業が執り行われてきたが、よく考えてみると80年という年月は簡単に積み上がるものではないだろう。

さて、TSWは創部何年なのだろう?正確には不勉強で不明のままだ。
蔵書を見るとそこそこ古い楽譜がある。私が中高生の頃流行ったものもあるので最近ぽこっと出来た部活では無いようだ。
とはいえ、私の知っている範囲では約3年ほど。今はそれ以前に遡る必要を特に感じないので、前を向いたままでいる。

前任者も定期演奏会の回数をリセットして第1回から始めたんだし。ま、いっか。

有名な学校バンドの歴史が少し気になった。
T邦の創部は昭和4年だ。ここはスクールバンドの草分けだと思われるのでずいぶん特殊かもしれない。80年近いのだから本校の歴史とそんなに変わらない。
A工大M電は創部50年と言っていたな。日本の実力校の歴史は30年から50年くらいなのだろうか。しっかり調べたわけではないが。
それだけの年月を重ねたら良くも悪くも様々な伝統や習慣が出来上がっているんだろうな。改めて確認するまでもない細かな約束事が脈々と息づいているんだろうな。

われわれTSW-NGOは3年目。
もちろん、今できることを目一杯やる。今いるメンバーで出来る限りのことをやる。それが私の役目だ。3年目だろうと30年目だろうと関係ない。今すべきことは間違いなくい今すべきなのだ。
今無いものは、伝統だろうと習慣だろうとこれから作っていけばいい。
そして、将来の夢や目標も忘れてはいけない。今日の、明日の、一週間後の、一ヶ月後の、一年後の、五年後の、十年後の、…。
TSWとしてももちろん。そして各メンバーももちろん。
それぞれの夢や目標をしっかりと。

自分がTSWのメンバーであること(あったこと)に誇りを持ち続けることが出来るバンドでありたい。胸を張って「3年間ここで活動したんだ!」と言い切れるバンドや人であり続けて欲しい。

9月
20
曼珠沙華

必ず秋の彼岸には曼珠沙華が咲く。
今日、あるジュニアバンドの練習に行ったとき、その窓から見える土手いっぱいに咲いている事に気が付いた。
帰宅してからの犬の散歩中、畑の土手や田の畦にやはり咲いていた。
毎年必ずこの時期になると正確に咲くものだ。もちろん、だから彼岸花なんだろうが。
 #どんな仕組みなのか気になる。日の出日の入り時間を計っているのかな?

先日の中秋の名月は天気が悪くて見れなかった。雨だったな。団子を食べただけ。玄関前にあるススキはとても良い感じに穂が出ているのに。
昨日は台風だった。このあたりは特にひどい事にはならなかったが。練習が無くなったりしてスケジュール的には元々タイトなのにさらにタイトになってしまった。(大会前でなくて良かった…)

今晩は開け放した窓のカーテンを勢いよく揺らしさわやかな良い風が吹いている。
秋の虫が鳴いている。コオロギ、スズムシ、キリギリス、カネタタキ、マツムシ、クツワムシ、…賑やかだ。
いつの間にかもう秋なのだ。

私自身、自分の中で様々な事が動き出しているようだ。今までずっと蓄積してきた経験がどうやらいっぱいになって溢れ出してきたらしい。
TSWの次のステップに行くために、何か新しい風も吹きそうな気がする。
人に変化を求めているのだ。自分も変化しなければ。
そのためにはまず勉強。推察、考察。企画、そして実践。

急ごう!時間がもったいない。

9月
19
ゴクラクハゼ(2)

別宅で過ごしているゴクラクハゼ。全部で5匹。

クロメダカやヌマエビを食べてしまうので致し方なく別居中だ。その住処は確かに居心地は良くないだろうと思う。箱は小さいし水の浄化は限界があるし隠れるところないし。

でもだからといって自分から飛び出して床に落ちるような自殺行為はしないほうが良いと思うぞ。
新天地を求めているのだろうか…?それともやむまみれず発作的に飛び出してしまうのか…?それとも単なる事故か…?

一匹は床に落ちていたのに気づき水槽に戻したら、今のところなんとか泳いでいる。手遅れにはならなかったようだ。
もう一匹は棚の後ろのほうに落ちていたのでしばらく気がつかず、気がついたときにはだいぶ体表が乾いていた。ぴくぴく動いていたので水に戻したが時既に遅し、先ほど絶命した。
いくら乾きに強く少々水から上がっても平気で大丈夫なハゼ科の魚でも限度が過ぎるとダメだよ。

誰かが気づき、手遅れにならないうちに戻してくれたら(自分だけでは決して元に戻れないから)、当事者は「良い経験をした」という事なのかもしれない。
しかし誰も手を貸してくれなかったり、気がついても手遅れだと、残念ながら即そのまま昇天だ。

自由を求めるのも良いがリスクは高すぎる。
飛び出すのは自分の意志かもしれないが、飛び出した後、自分では到底対処できない現実が待っているのだから。

9月
16
3年計画第3章

は単なる演技タイトルにとどまらない

文字通り、3年計画の3年目という意味だ。
3年間でやりたいことを当初に予定し、その完成年度。…あれ?当たり前か。

この3年間では、TSWの形を作り上げ、短い期間ながらも伝統を作り、実績を作り、ある程度のレベルまで引き上げる事を目指した。

しかし、マーチングコンテストで終わったわけではなく3年目はまだまだ続く。実はあと半年もある。
まだまだやれる。やるっきゃないね。

そうして順繰りに、次の年や第2期3年計画に繋いでいくのだ。
人は入れ替わるが、それぞれの人の心の中にはTSWである(あった)誇りは永久に残る。それぞれの行動や対応は時々で変わっていくが、その根底にあるスピリットは変わらない。
そして、それらが蓄積されてTSWの想いになり伝統になる。

常に変化し更新するが、常に変わらず有り続ける。

これに応えているつもり。

そのことを確認出来たマーチングコンテストだったと思う。
本当にみんなよくやったよ。大変な思いを乗り越えて。誰がなんと言おうがTSW-NGO。俺の誇り。

だからこそ「次」だ!
息つく暇無く本番の波状来襲だが、一つ一つ丁寧に確実にみんなで取り組んで道を切り開こうぜ!

9月
14
明日だ

練習は今日一日。

以前、ここに書いた。

次の3年目。3年計画の第3章。

〜中略〜

もちろん当然私はそこにいる。TEAM NGOスタッフも揃ってそこにいる。(OB、OGもここにいる)
TSW諸君も揃っている。
これ以上の布陣はない。

誰がなんと言おうとTSWは劇的に動き出す。
感動的な活動を展開する。

TSWがどんなバンドを志向しているのか世の中に知らしめるチャンス。
あなた達次第でどうにでもなる。
音楽は、マーチングは、自らが喜びに満ちて初めて表現になる。
苦しみや悩みを乗り越えて、心の底から喜びに満ち溢れた演奏演技を期待したい。

練習は今日一日。
本番は明日、泣いても笑っても一回限り。どうせなら心の底から笑いたい。

9月
13
ブログを読む

たったそれだけのことなのに。
内容を全て理解し共感しなさい、ではない。
WEBにアクセスして一通り目を通して自分の記憶に留めていくこと、だけだ。

なのに、これだけのエネルギーを使わないと君たちは行動しない。いや、現実にはいまだに出来ない人もいる。普通は「一日一回くらいは読んでおけよ」と一回言うだけで済むことだろうに。

今日の練習開始時に、この記事を読んだかどうかお互いに確認してみると良い。
「最新の記事は何?」ってさ。

ここに書いたこと、どのような気持で読み理解したのか友達どうしで、パートで、たまたま顔を合わせた人どうし、お互いに確認し合い意見を言い合ってみると良い。なかなかじっくり話している時間がないなら日誌に考えを書けばいい。自分のWEB日記に書けばいい。(書き忘れてた!)なんなら この記事に直接コメント書けばいい。上の方にコメント書く方法書いてある。ずっと以前にそんな話したことあるし、実際にコメント書いた人もいるだろうに。

メモリー(記憶領域)は極端に少ないし、保存はすべて上書き保存だから以前の情報なんかこれっぽっちも覚えていないのかもしれないけれど。なんなら探してごらんよ。書いた人さえも覚えていないかもね

人の話を聞きその事について考え意見を言うことが出来ないから私たちはこう感じてしまうわけだ。少なくとも顧問やスタッフの話や書き込みは君たちにとって「ふーん」で終わる話ではない。それを元に考え行動することが求められる。

◇暖簾に腕押し
◇糠に釘
◇豆腐に鎹
もしくは
◇馬耳東風
◇豚に真珠
◇猫に小判
もしかしたら
◇TSWに音楽  だったりして…。
いやいや、いくら何でものそこまで酷くはないでしょうよ。心ある人たち居るでしょうよ。

あと二日。
変わる事出来るかな?

9月
12
打てば響く

打てば響・く

すぐ、その反応・効果が現れる。
「―・くような返答」

WEB辞書 大辞林 第二版 (三省堂)

反応がない事は、ものすごいストレスがたまる。

例えば…、
◇ケータイで文章作るときに漢字変換が遅い
◇リモコンのボタン押してるのになかなかチャンネル変わらない
◇店の前に立ったのに自動ドアが開かない
◇ファミレスで呼んでるのにいつまでたってもオーダー取りに来ない
◇文字どおり叩いても音のでない太鼓
◇吹いても音のでない管楽器

機械の不備でさえも不快だ。
さらに、それが人の怠慢によるものだとわかったときは怒りに燃えることさえ。

たぶんみんなもそうだよな。

打てば響く。
いつでも気持ちよく響いて欲しいと思うのは欲張りか?