3月
26
課題

アンサンブルする上で、誰かがたった1つミスをしたとする。
ミスをした当人は「一生懸命やったし…」「これくらまぁいいいや…」なんて思ったりする事は良くある。
しかし、そのミスが取り返しのつかない場合だってあるのだ。本人が気が付かないだけで。

もちろん「その重要性を知らなかった」という場合もあるだろう。「そんなに大変なことだとは思わなかった…」と。
しかし知ってたとしても知らなかったとしても取り返しのつかないミスであることには変わりない。

よく私が「信じられん!!」と嘆くミスがそれだ。
結果、音楽が台無しになる。
たった1つのミスが原因で。

だから、常に細心の注意を払って音を出すことを覚えなければならない。
闇雲にやりさえすればいい、なレベルはそろそろ卒業しよう。

不注意で、ミスを出すことは止めよう。
ミスを100%無くせ、と言っているのではない。
取り返しのつかないミスが何か理解し、絶対避けるべきミスは絶対に避けよう。

それが4年目の課題だ。早い頭の回転と正確な状況把握が必要。出来るか?

3月
23
生き残り6人

第4回定期演奏会まで到達したTSW2期生の6人。3年間よく頑張りました。
心の中まで土足で踏み入られ、理性をぐるぐるぐるぐる攪拌され、あれをせよこれはするなと翻弄され、忙しさに目が回り、自分が何が何だか分からなくなったこともあるでしょう。さぞ苦しかっただろうと思います。
 

演奏会終了して数日経ちました。まだまだこの3年間を冷静に振り返るには時間が足りないと思いますが、でも今、せっかちにこの3年間の意味を見いだそうとする必要はないです。そんなに簡単に見える物でもないでしょうし。次第に見えてくる物もあれば、何年も後に突然ひらめくこともあるでしょう。

それは必ずやってきます。
やり遂げた者への何よりのご褒美です。逃げずに立ち向かい最後に勝ち取った自信と誇りです。
紆余曲折色々あったにせよ、最後まで到達したのですから。
途中どんなことがあったにせよ最後まで生き残った6人だけの特権です。
「高校生活最後の定期演奏会の舞台に乗った」ことは厳然たる事実なのです。そうでない人と決定的に違うのです。

それはこの先、生きている限りじわじわとその意味をずっとかみしめることになると思います。
(たった)3年間でその準備をして、一生の宝となるのです。凄いことです。
 

3年前、私がここに来るのと同時に高校に入学し、入学した途端、当初の予想とは違う吹奏楽生活の展開が始まり随分とまどったんじゃないかと思います。それでもTSWの土台をつくるという地道な作業をひたすらやり、TSWに居続け、一生懸命私の話に耳を傾け、私の希望に添おうとし、私の一言に一喜一憂してくれました。そして私に力を与え続けてくれました。随分助けてもらいました。TSWが次のステップを踏めるのはあなた達のおかけです。心より感謝します。

さらに進化させたTSWにするために残された者が引き継ぎます。身を引き締めて引き継ぎます。
だから安心してそれぞれ自分の道を前に進んでください。未来はあなた達の前にあります。

3年間、本当にありがとう。

3月
21
雲雀

を声を空高く聞いた。
軒下を出入りするツバメを見た。
キジが鳴いた。
鳩が卵を抱いている。
丹頂草が咲いた。
柳の垂れた枝に柔らかい緑の小さな新芽が無数についている。
木蓮が咲く。
ミモザが咲く。
ユキヤナギが咲く。
桜はつぼみが膨らみ、気の早いいくつかは既に花開いている。
香嵐渓ではカタクリの群生が満開らしい。
土筆の卵とじを食べた。
菜の花を食べた。

〜今日見聞きしやったこと。

春だ。

==

第4回定期演奏会は昨日無事終演した。
とても良い演奏会だった。
その時その空間にいた人々が皆それぞれ暖かい気持になり優しく幸せになった。
誰かの指示通りやったから出来たのではない。それぞれが皆、自らやるべき事をやったのだ。
その事の意味の大きさを各自が実感するにはもう少し時間が要るかも知れないけれど。
 

本番という特別な時間と空間の中で、舞台に乗った人も、乗っていない人も、何かの弾みでたまたまそこに居合わせてしまった人も、(そこに居たいのにそれが叶わなかった人も、)全ての人がそれぞれ特別な感情を持ち、「音楽」を通して揺るぎない一体感を持つ。その凄まじい恍惚の中である人は涙し、ある人は微笑み、ある人は感動で打ち震え、ある人はやり遂げた達成感を感じながら極度の緊張が心地よい安堵に変わっていく。
今までの全てのストレスが解放され希望と喜びに変貌する瞬間だ。

音楽の持つ力。計り知れない偉大さ。
決して一人では出来ない。たくさんの人の力が合わさることが必要だ。
その瞬間瞬間に生まれては消えていってしまい決して手に取ることは出来ない「音楽」というもの、さらにはそこから目に見えない「幸せ」が生まれ続けていることを一人一人が微塵も疑わず信じることによって、全ての人々が1つになる。

信じること。諦めないこと。

そして、次の一年はさらに。
TSW-NGOは進化し続ける。
我々TEAM NGOは当然揺るぎない。

毎年必ず春は来る。
喜びに満ちて春は来る。
今年は第4回定期演奏会開催と同時に来たようだ。
我々も大いに喜びに満ちあふれよう!

3月
13
昨年の

今頃、定期演奏会に向けて新入生の練習参加が始まっていた。
もう一年が経つんだ。

今年もやはり同じように新入生が練習に参加している。
数日たって少しずつお互いのことを知ってうち解けてきているように感じる。今日は自分たちだけで曲の練習を合わせていた。新鮮で初々しく、不安でいっぱいであろうに何より一生懸命な感じが嬉しい。
初心忘れるべからず。

さて、昨年新鮮で初々しく不安でいっぱいだけど元気もいっぱいだったあの人たちは今どこにいるのだろう。舞台転換の段取りを自分たちで組み上げ、どんどんこなしていたあの人たちは今どこにいるのだろう。
おかしいなぁ。
 「朱に交われば赤くなる」。
いつの間にか、何かに、何処かに同化していってしまったのか??
それとも劇的に変わる何らかのきっかけが有ったのだろうか??

取り戻せるか?

3月
12
高校の記憶

先日、なぜか突然、高校時代のある一コマが急に蘇った。

前にも書いたかな?
私の通っていた高校はマルトウ訓練なる物をやる、いわゆる「管理教育」を全面に打ち出した学校だった。校則は理不尽で力任せ。生徒は人間扱いされていない(ように感じていた)。それでも新しい学校だからか、とりあえず生徒は従順だったなぁ。この事件までは。

確か2年の時だったと思うが、授業中、急に廊下から激しいやりとりが聞こえてきた。全員がほとんど授業を上の空で聞き耳を立てている。
声の主は一人の生徒指導部教員と一人の生徒。その生徒は、教員相手に激しくやり合うことなどにわかには信じられないような成績学年トップ、スポーツ万能(剣道部だった)、人望も厚く先生も生徒も皆が認めるリーダー。同級生だ。
だから「何であいつが?」って、みんな固唾を飲んで聞き耳を立てている。
次第に事態が判明してきた。内容は、授業中校則違反をしている彼をとがめて廊下に連れ出し指導し、それに対して猛烈に反論している、ということらしい。
たまに(今では問題になるよ…)殴られているであろう激しい音がするが、彼は全然そんなことにはひるまない。

校則違反とは靴下の色が学校指定と違う、ということ。…その場をしのぐには脱ぎさえすればいいのに…。

今思うと、彼は自分がリーダーであることを十分自覚した上で、理不尽な指導に対し、全生徒の代表として断固意思表示をしたのではないか。決して独り合点の我が儘では無かったと思う。
次の日、自発的に集まったたくさんの生徒の前で事の顛末を説明し、改めて自分の主張をした。「その校則はおかしい。その指導は間違っている」と。「みんなに迷惑かけて申し訳ない、しかしどうしても許せないのだ」と。

ここで書いたような事と同時期だったと思う。こんな事件があったからこそ、私もそれに呼応して動いたのだったんだ、と思い出した。
 

TSW諸君、あなたはどう思う?
「すごいな、見習おう!」かな。それとも
「先生にタテツイタらダメ!なんじゃないの?」って思うかな。
「適当にやり過ごせばいいのに…」か?

我が儘と自己主張って何が違うんだろう。

自分の気持ちを表現する、ということは、それを阻害する物を打ち破っていくエネルギーが要る。「叩かれたら止めとこ」程度だったら全く説得力無い。だから行き着くところまで行こうという意志が要る。けれども無理矢理押し込んでいけばいいという訳でもない。それでは理不尽な先述事件と何ら変わらない。一定の理解と容認が無ければそのエネルギーはただの暴挙にしかならない。絶妙なバランス感覚はとても重要だ。

しかし、今はとにかくその力が欲しいのだよ。TSWに。
全くのパワー不足で何も出てこなかったら表現も何もあったもんじゃない。
 

「他律の中から自立は生まれる」というキーワードが最近気になっている。この場合少し意味が違う(反面教師)かもしれないけれど。
結果、理不尽な校則という他律の中から、それはおかしいんじゃないかという(ある意味正義感的な)自立が生まれたのかもしれない。

押されたら押し返す。そんなことでも良いじゃないのか。
とにかく「若さ」という無尽蔵なエネルギーが欲しい。

第4回定期演奏会は目前だ。

3月
08
2週間

を切った。
3年計画の総仕上げ。

総仕上げ。
今まで積み上げてきたことの。
積み上げてきたはずのこと。

何を?どれだけ?ちゃんと積めたのか?
積んだものは活きているか?
どれくらい詰めたか?
密度は上がったか?

「3年間」という膨大な日数を見渡す。1000日を超える日々。何ができたか。何ができなかったか。
「3年間」という全体を見渡す。そして今いる位置を確かめる。今後向かうべきところを確かめる。

あと2週間弱。その日はやってくる。
その一瞬に懸ける気迫をさらに漲らせよ。

3月
08
関連させる事

一つの解決が次の解決に繋がっていく事。
それぞれの事柄は各々独立しているのではなく関連している事。
一見別の事に見える事でも、イメージの中でどんどん繋げていく事が出来る事。

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小学生の頃、好きだった工作本の裏表紙にあった広告。(マブチモーターの広告だった。)

真ん中に万年筆一本と、むき出しのモーター(もちろんマブチの模型用モーター)
の写真が載っている。絵柄はそれだけ。

下に小さな字で、「あなたは一見関係ないこの二つをどう結びつけますか?」みたいな事が書いてあった。
さらに小さな字で、「機械の力で文字を書かせたい、という気持ちが電動タイプライターを発明させました」みたいなことが書いてあった。

今でも鮮明に覚えているのだから私にとって何らかの大きな意味を持っているのだろう。その広告から得た物は単なる数百円の模型用モーターという物の購買意欲だけではなく、人類の知恵そのもの(ほんの一部だけどね…)だった気がする。

電動タイプライターは、いつの間にかワードプロセッサーになりパソコンになっていく。また日本語変換プログラムや音声認識技術などにも繋がっていく。さらにはケータイにだってつながっていく。
−−何年か前、口頭で色んな指示してた時、メモをケータイに入力する人がいた。「間に合うの?」「はい、早いですよ。」−−

==

何かが何かの足がかりになる。一つの事柄が次のエネルギーになる。そうやってより素晴らしい物を目指していく。それは「失敗は成功の元」ともつながる。

関連させ積み上げる事。
これは決してTSWの中だけの事ではない。同じ所にとどまるのではなく次のステップに行くためには世の東西・老若男女を問わず必須だと思うのだが。

もちろん、明日の練習でもさっそく問われ試される。気がついて欲しい。

2月
21
卒業式

予餞会・卒業を祝う会・卒業式が、全日制、定時制の両課程で終了した。
それに伴うそれぞれのリハーサル、練習などなどもあった。
我がTSWは忙しくハードな三日間だった。

毎回、本番前はどうなるかと冷や冷やさせられるの勘弁してほしいなぁ。間に合わないかもしれないという綱渡りは本当に苦しい。予定通りに練習が出来たとしても怪しかったのに、全体リハーサルの延長やら、式典の他の練習やらでどんどん練習時間と場所が限定されてしまったから、さらに苦しい練習になった。
演奏だけではなく、予餞会ステージの出ハケが全然組み立てられずとてもみっともなかった。
間に合いそうもないと思ったので、結局、口を出し指示をしてしまった。我慢強く充分待てないんだなと反省しきり。

そんなこんなではあったが、拙いながらも何とか誠意を込めて卒業生を送り出すのに失礼ではない演奏にはなったったかと思う。外からの刺激・圧力で緊張感を高めるのではなく、自身の中から余裕を持って緊張感を出せるようになったら、と願う。
 
−−
TSWみんなの先頭に立って一生懸命部活動をしていたのにパタッと私の前から姿を消した生徒がいる。
その彼女がこの卒業式で学校を巣立っていった。

TSWから離脱するにあたり何も感じなかったわけではないと思う。
その後、私たちの練習はいつも聞こえていただろうし。
卒業式の演奏だって間近でTSWの音を聴いたのだ。
万感胸に迫るものはあっただろうと、この先力強く生きて行けよ、なんてつらつら考えながら答辞を聞いていた。
ただでさえ、立派な答辞で感心していたところ、ある不意打ちを食らい見事私の心に命中したのだった。
思わず涙が一筋流れた。
熱い感情が徐々に胸に込み上げてきて、のようにドラマチックなものではない。突然、つっと一筋流れてしまった。

式後、友だとたちと屈託無く笑い喜び合っているのを見て、私の心の中にあった重い物が取れた気がした。
心の底から嬉しく思い、ひとりでに笑みがこぼれてきて困った。
一瞬こちらを見た気がしたので思わず声をかけようとした。が、止めた。
プライドの高い彼女のことだ、自身の感情をコントロールしようとして無理をさせてしまうだろう、と思ったから。
結局そのまま何も言わず見送った。でもやはり私は一人でにやけていたような気がする。

何にせよ良い卒業式だった。
こんな卒業式に立ち会えることが出来たTSWの諸君は幸せだろうと思う。
その直後に行った吹奏楽連盟の会でも「立ち会った生徒たちは本当に良い経験してるよねぇ!! 吹奏楽部だけの特権だよねぇ!!」と話題になった。

日誌にこんな感想があった。
「全日制よりも、定時制の方が「自分たちは卒業するんだ!!」ってオーラ!?がギラギラっぽかったです。どうせ卒業するならあんな風にしたい!!と思います。」
4年間生き延びた末の卒業なんだもの。そりゃ、うれしいだろうさ。

答辞の一節。(これは記憶…)
「普通の高校生ではない道を選択したがためにお父さんお母さんに重い荷物を背負わせてしまいました。ごめんなさい。」
いやいや、謝る必要は全く無いと思うよ。立派に卒業したじゃん。

いつもは挨拶しても見向きもしてくれない金髪アンチャンに「おめでとう!」って通りすがりに声をかけてみたら、小さな声で「うん…」って応えてくれた。心の底から喜んでいることがヒシヒシと伝わってくる。

皆さん、卒業後も立派な人生を歩んでください。自分の生き方に自信を持って下さい。誰の物でもない自分の人生なんだから。

2月
17
毎年の事ながら

この時期は苦しい。

このくらいは出来るだろう、という想定がことごとく覆される。
伸び率が止まる、という感覚ではなく、急激に後退しているようにさえ感じる。

こちらの気分としては定期演奏会に向けて全開にしたいのに、そうするとたちまちあちらこちら負荷に耐えられなくなって故障し崩壊する感じだ。

原因は良く解らない。良く解らないから困る。本当に困る。
三つほど原因を仮定してみた。

資質で片付けて良いのか?
何か方法が間違っているのか?
別の大きな力に飲み込まれてしまうのか?

しかし、どれもしっくりこない。
 

「どの子も育つ、育て方ひとつ」というスローガンが有名なシステムで育った私。
そのシステムに特別な感情を持たないが、しかし「誰でも可能性はあるんだ」という気概は持ち続けたいと思っている。
「育て方」、すなわち教える側の責任において、育ったり育たなかったりするんだ、だから私が気を抜いちゃいけない、のつもり。
 

今日ネットをさまよっていて「感受性」は教えられるか?という一文に出くわした。

>>教育によって感受性のすべてを育てることは到底出来ない。しかし、補足修正の可能性はある。資質の開発可能性は教育が決定する。

そりゃそうだと思う。でも大切な事が解らない。
どうやって?

いろいろ策を巡らせ手を打っているつもりなんだけれどな。全くの力不足だ。
どうやって?

聞く耳持たなかった人たちが、人の話を聞こうと自ら耳を傾けるのを待つしかないのか…?

2月
06
卒業式

関連の合奏レッスンが始まった。
当然、予餞会、卒業式だから現3年生は参加しない。

記録によれば、昨年は予餞会ですら3年生の演奏参加を打診している!
今年はその発想を持たなかったけれど、いずれにしてもこの時期まで3年生に頼らなければならないのは本当はまずいと思っている。もっと早い段階で先輩離れして後輩達が自立せねば…。

1、2年だけで、編成は少し(だいぶ)変則。
でもしょうがないよな。無い物ねだりしてもダメなことは重々承知。
現在持てる力で最大限の力を発揮するために工夫し努力する。

ある程度普通の形に整えなければ、と思う(だから3年生に頼ってしまう…)反面、本質を損なわなければ形などこだわらない、という気概(次に向けての覚悟…)もある。

TSWは人数が少ないとはいえ、複数の人が集まってアンサンブルをする。一定の指向を持った集団だとは思うがそれでも1人1人違った価値観を持っている。集団として何処に線を引くか、常に悩ましい。

が、前提は確実にある。進歩したい。進化したい。次に向けて。