2月
03
自信と誇り

さて。
自分たちTSWの事。先日の本番はどうだったか。

演奏の出来は?
舞台のお手伝いはこなせたか?
長久手まで行った成果はあったか?

一生懸命動こうとしていることは良く判ったよ。
「とっても助かりました」ってお礼の言葉沢山頂いたしね。
客席から見えていた部分でも「良く動いていたんじゃない?」との感想頂いたし。
でもな、欲は出る。
やらなきゃいけないから、ではなく、自然に動ける、とか。
逆に必要の無いときには邪魔にならないようにうろちょろしないとか。
ま、そういったことは経験を重ねたからこその「自信」が必要なのかも。
また、そういったことが出来るゾ、といったような密かな「誇り」とか。
さらにもう一段階上を目指そう。
 

演奏は?
あのリハでは全くダメだ。それぞれが自ら持っている緊張感の質が悪いんだな、きっと。
だから、大切なところで信じられないケアレスミスをする。
実はどう考えてもそれが理解不能だ。
なんで? この期に及んでそれ?
だから、しなくても良いダメ出しが雪だるま式に増える。そんなのは全て無駄な練習。
当然ストレスも激増する。疲れる。

本番はそれなりに(いつものように小さな事故はあるものの)TSWの音楽は出来たように思う。その時の条件の中で出来得ることはやった、と感じる演奏にはなった。
しかし!
本番がなんとか出来たからいいじゃん、ではダメ。
もちろん観客は結果オーライだろうと何だろうとそれしか聴かないわけだからそれでもかまわない。
しかしそれではTSWとして何も進歩しないじゃないか。
さらに高度な課題が次々と繰り出され、それをガンガン乗り越えていきたいのに、いつも同じところで足踏みする愚行はそろそろ終了したい。

ポイントは自信と誇りだ。
自信と誇りをたくさん持つような練習を日頃から積み上げなければならない。
辛抱・我慢し、必ず出来るようになる事を信じて、気の遠くなるような日々の練習を積み上げて、ようやくそれが自信に繋がってくる。そして「出来るんだ」という誇りが漲ってくる。
自信がつくと余裕が生まれる。その余裕があって初めて音楽の楽しみを感じることが出来る。そしてその楽しみが誇りになる。
そこまでやりきらなければ音楽なんてやる意味がない。

自信と誇り。次のステージだ。

2月
02
練習モード

文化の家での私の合奏リハーサルを見た人の感想。
「合同練習はドンドン音が変わっていくのが凄い!」
「マジックですね。」
「みんなを集中させる事が凄い!」
さらには。
「合同練習と豊川単独練習と練習の仕方が全く違う!!」
「豊川単独練習の緊張感は凄い!」
などなど。
怒号や罵倒に聞こえる指示と切れることのない緊張感が、合同練習モードのギャップと相まって相当なショックだったらしい。見てなかった人に「凄い」「怖い」「ピリピリ」など何とか伝えようと、躍起になって言葉を選んでいた。

確かに、モードは意識して変えている。
そうでなくても、そのバンドの現状からさらに良くしようとしたときに、何を課題ととらえるかで、当然練習モードは変わる。

でも、そのやりとりを聞いていたM氏はいとも簡単にこう言い放った。
「あんなの(前日夜の合奏)は全然怖くないです。怖いと思っちゃダメ。当然やるべきダメ出しをしてるだけです。それに引き替え、昔はあんなの比べものにならなかった。それはそれは怖かったですよ。ははははっ!」
彼は自分の練習の居残りをしながら久しぶりに私の合奏レッスンを聴いたらしい。
「なつかし〜」ていってた。
「でも、あれ(高校当時の厳しい練習)があったから今の僕があるんです。」

2月
02
吹奏楽フェスティバル

in NAGAKUTE
無事終了した。
良い小屋が、良い人と良い音楽で満たされた。
やっぱり、まず「人」だ、再度強く感じた。
そして「自分は?」

私自身は頑張りすぎたかなぁ。
体中バキバキいってる。
右腕が上がらない。首が回らない。下向けないし、横向けない。
例の、背中から首筋、頭にかけての痛みはまだましだけど。
両足太ももの付け根から足首まで動きが鈍い。
目も見えづらい。(眼鏡の度が合わないようになってきた?)
おかしいなぁ…、体がいうこと聞かない。

やっただけの成果はあったと思うし、関わったみんなにそれぞれ何かおみやげを持たせてあげることは出来たのじゃないかな、と思っている。TSWも、その他の団体も。

200人を超える合同バンドで指揮をしていると、メンバー全員の真剣なまなざしをストレートに受ける。私はそれをたった1人きりで受け取り、返さなければならない。残念だがたぶん全員には行き渡らない、返しきれない。当然不十分だろう。しかしだからこそ私の持ち得るエネルギーを全放出しなければその気迫すら伝わらない。
当たり前だが、伝えることが出来なければ返ってこない。だから伝えようと目一杯。そのやりとりがスリリングだ。

気持ちが返ってくると、だんだん音も返ってくる。揃ってくる。合ってくる。技術ではない。(…言い方がまずいな。それぞれが今持っている技術がフルに活用されるようになる、ということなんだけど。)

みんな気持ちも力もある。感性も技もある。ただ、出しきっていない。出し切ろうとしていない。
本人すら気がついていないかもしれないその隠れた力を存分に引き出すこと。
それぞれが持てる力を全開で出せたら凄いことになるんだから。
本番は「良き思い」で満たされなければならない。「感動」が満ちあふれなければならない。凄いことになったご褒美であるべきだ。
だから全力でいろいろな手を尽くす。それが私の役割。
今回、何とか出来たかな、と自惚れてみる。

次のステップは、何より継続すること。決して忘れないこと。
「嵐が過ぎ去ったからそれは過去の話」ではまずい。
積み上げなければならない。
重要なのはこれから。この先。
 
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さて。ゲストのみなさんや主催者スタッフとのお話。
「結局ダメなのは大人、子供達は何も悪くない」で盛り上がった。
さらに「それで育っちゃった、大人になっちゃった人が如何に大変か」で盛り上がった。

根は深い。
個人が太刀打ちできるような事ではない。
「でも、それぞれの立場でそれぞれが出来ることをやっていくしか手はないんじゃない」
「めげずに頑張りましょ!」
「続けることこそ大切だな」

十数年前の高校生(今のTSW諸君と同じ!全く何も変わらない!)が、現状の教育を憂い音楽を伝えようとし、人を育てようとしている。
自分に何が出来るか真剣に考え、それを職業音楽家としての使命と責任感でやろうとしている。
いや、そんなに堅い話でもないか。結局音楽やりたくてしょうがないんだ。音楽の喜びを伝えたくてしょうがないんだ。
私の周りにそんな勇士がたくさん集まってくる。
それが出来る場がある。
この瞬間は何物にも代え難い。心より嬉しい。至福だな。

TSW諸君がそれを心から感じるのは何年先だろうか?
いや、何年先でもいいんだ。いつか自分の花が咲けばいい。きっと咲く。

そのためには訳がわからなくてもとにかく、今、目一杯やることだ。
限界ギリギリ目一杯、だ。

1月
26
より良き物

を目指すために必要な事など。

・とにかく情熱。
・本質を見極めた目指すべきビジョン。
・そこに向かうための熟考された施策。
・ブレる事のない固い決意。
・しかし、それ以上の苦言を受け入れる謙虚さ。
・粘り強く諦めないこと。
・集中力。

うーん、他に何があるか。何か忘れてないか?

 #人のふり見て我がふり直せ。

1月
25
育てる

今日は、来週に本番がある合同バンドの練習会初日だった。吹奏楽フェスティバル in NAGAKUTE。愛知万博をきっかけに始まって今年で5回目のイベント。私は初回から関わっている。

練習終了後、高校生に「ボクはこのイベント好きです。今回で5年目です。」と嬉しそうに話しかけられた。中学校時代から参加しているらしい。「中学校の時、中途入部でこの本番がデビューだったから何より思い入れが強いんです。」とも。彼は「高校卒業しても出させてもらえますかねぇ?個人参加できますかねぇ?」と言っていた。

ある学校は、本番当日に他の本番(アンサンブルコンテスト県大会!)とダブルブッキングした。そちらの本番に出られるということはとても誇らしいことだし大切なことだ。だから、アンコンに全精力を傾け、こちらに出られない人がいてもしょうがないだろう、と当然思っていた。
が、しかし。アンコンの出番終わったら稲沢から駆けつけるという。「合同演奏には間に合わせます!」ということらしい。

うれしいな。「この本番に出たい!」という気持が嬉しい。

イベントとしてはとても地味。華々しく素晴らしい質の高い演奏会かどうかもわからない。無料だから営業収入もない。予算獲得難しく、継続することは実は難しいのじゃないかな。さらに苦労多くて担当者は大変な事ばかり。目立たないから評価もちょぼちょぼ。

しかし、育っているんだよ、確実に。人も。そして文化も。
一見無駄な事に見えるけれど、このことこそが大切なんだと思う。

最近こういった社会教育型な吹奏楽イベントに関わることが多いが、上手くいっている所の共通点がある。
関わっている人全て、特に大人(企画者、小屋(会館)の人、館付き舞台の担当(通常委託で舞台屋が入っている)、参加団体の引率者、などなど)が、みんな一生懸命。
中高生に対してとても積極的。指示するのはもちろん、タラタラしてたらド叱る、ボーッとしてたら仕事させる、上手くいったらどんどん褒める…。とにかく、関わろうとしているのが良く解る。
館付き舞台の担当者が学校名叫んで点呼しながら打楽器セッティングの指示なんか、普通しないよ。絶対あり得ない。
もちろんそれしないと良い本番にならないから自分のプライドが許せないのかもしれないし、なにより自分が楽できないということもあるかもしれない。

でもだからこそ、結果、人が育っている。
企画力や運営力ももちろん大切だけど、実際に動き出した現場ではその人のクオリティがモノを言う。幸田のコンサートでもそう思ったけれど、人としての魅力で人が育つんだな。

来週は、是非良い本番にしたい。中身は私が全責任を負うのだから。
今回は我がTSWも部として参加する。是非有意義にしたい。

1月
18
合同練習会

第4回定期演奏会スペシャルバンド練習会が始まった。

いきなり7曲通した。中学生諸君にとって午前午後5時間の大初見大会は少しきつかったかな。
しかし、回を重ねているからか、年々レベルが上がっているように感じる。
何度か繰り返すとすぐ吹けるようになって付いてくるし、少しのアドバイスでどんどん変わるし。
顧問の先生は「なんだかみんなやる気満々で…」っておっしゃってくださるし。
やっぱり継続は力なんだな。こうやってすぐ近くの中学校が少しずつ力を付けてくることがとても嬉しい。

これに参加してくれる中学生の皆さんがみんなTSWに入ったら良いのに、とちょっぴり(いや、本当は物凄く!!)思うけれど、でもそんなことより、この経験を元に音楽や吹奏楽を好きになってどんどん広がって行ってくれる方が、なんだかワクワクするんだな。何年も何十年も後で、「実は、あそこで一緒にステージ乗りましたよ」と奇跡の再会をしたらすごいことだと思う。
 
 

さて。
実際に練習で音出している時。
さして難しい練習ではないところで、ふと「定期演奏会」の匂いがした。何度も。
なかなか言葉では説明できない。
雰囲気というか、特殊な感情というか。
油断すると涙腺が緩んでしまうような、絶句するというか、全く違った次元にいきなり飛ばされてしまったかのような…。

今年もそれを感じる頃になったんだな。
第4回定期演奏会まであと二ヶ月余り。

1月
16
準備室

なんだかにぎわう。
TSWの活動中は当たり前なんだけれど、そうでない時も人が来る。
「落ち着く」という人もいる。「居場所」になっているのかな。

人にとって自分の居場所は必要だ。いくつもある必要はないかもしれないけれど。
ほっとする空間と時間。特にここでは活動をギリギリまで攻めていくから、そういったスペースはなおさら要るだろうとは思っている。

で準備室。ある意味その意図を持たせているつもり。賑わうのだからその役割を果たせているのかなぁ。
とはいっても本当はそれで良いのかどうか判らない。
特殊なことかもしれないし、緊急避難的なことかもしれない。

ただ、一番大切なのは人と人の繋がりだよな。
心地よい空間や時間はそれを実現させるための条件と考えておくのが良いのかも。

1月
15
1月の半ば

になってしまった。早い。
ついこの間まで正月だった。

七草(セリ、ナズナ、オギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ)を覚えようとしているうちに、いつの間にか七草粥食べずに終わってしまった。
先日、我が家のすぐ前の田んぼで左義長があったらしく(きっと書き初めを燃やし鏡餅を食べたのだろう)気がついたら、黒く焼けた跡が丸く残っているだけだった。そういえば朝早くからポンポン竹の焼けるような音がしてた日が有ったような。
なんだかなぁ。大切なことを見逃してしまったようでもったいない。
 

そうこうしている間にもいろいろなことがあった。
始業式で今までの掟を破り、TSWも発願文を唱えた。思いのほか反響は大きかったようだ。後から色々声をかけていただいた。
調子に乗って定時制でも。
悪くないね。これからも続けよう。
本番も1つ。
ライオンズクラブのチャリティコンサート。
どうしても直前まで苦しいのは何故だ。最後のチューニングの時間でさえ「よし!!」ってな気分になれない。「なんで??」「昨日やったじゃん!」「さっき出来たじゃん!!」「信じられない!!」ってなことばっかり。
だけど、本番はそれなりに。冷や冷やさせずに最初からやってよ。

「必ず出来る!」という大前提を持ちつつ、油断することなく、諦めることなく、目一杯。
私は毎週末のようにあちこちのバンドでゲネやら本番やら。
TSWは2月1日に長久手文化の家デビュー。
私の地元。恥ずかしいこと出来ないゾ。知り合い沢山呼んでおくかな。(本当は2月1日は特別な日。岐阜の渓流(長良川)解禁日だ。随分行ってないなぁ…。郡上に行きたくなってきたぁ。)

その間をぬって定期演奏会の練習会。卒業式関連の練習。
本当に息つく暇無い。
高いテンションのまま気持ちが維持できるように願いたい。

1月
05
始動

明日から練習再開。

長期休業の後、最大イベント定期演奏会突入まで休む間もない。
しかもそれまでに多くの本番を抱え、曲数も半端ではない。

TSW皆の衆、準備は良いか?

12月
30
親切

何度も話をしたので重複するけれど。
「親切な行い」と「親切な心」の違い。

「親切な行い」を教え、実際にさせることは出来る。そして、それが出来たかどうか検証することが出来る。電車に乗ってしんどそうな人がいたら席を譲ることを教えることはできるし、そして実際にその状況で行動できたかどうか、を評価することも出来る。具体的な行為行動だから。これはもちろん教育の守備範疇であるらしい。

しかし、その行為がどのような動機によって行われたか、は検証が難しい。
上記の状況でも、たまたま偶然に席を立っただけかも知れないし、「何で私が貧乏くじ引かねばならんのだ!」と怒りながらもしぶしぶだったかもしれない。
行為と心は必ずしもシンクロしないものだ。
だから席を譲る親切行為が純粋な「親切心」から行動したかどうか真実は大変わかりづらい。
そもそも「親切心」って何?
この定義すらきちんと説明できないかも知れない。
だから教育によって「親切」な心を持った人にすることは極めて難しいということのようだ。
定義や検証が極めて難しいから。出来ないからやらない、に聞こえるけれど…ね。

もしかしたら宗教とか哲学とかの範疇なのか?とは思う。

このことは、最近マスコミを騒がせた学校の問題で、ワイドショーコメンテーターの「学校って所はきちんと勉強教えていりゃ良いんだよ!」との発言に要約されるのかな。
 

私(私たち)は音楽をやっている。音楽とは音の高さや長さや強さや音色や、他様々な要素の順列組み合わせ以外の何者でもない。当然、理屈は定義できるし、理解したかどうか検証することが出来るが、音楽を理屈で説明しようと思うととても高度な理論が必要で大概辟易する。
にもかかわらず、誰でもそこに人の複雑な心情や言葉では表せない感情などを見いだそうとする。演奏するときも聴くときも。「音」を通して目に見えない心に思いを馳せるのだ。
ドレミがわからなくても、4分の3拍子がわからなくても「今の歌は心にしみるなぁ、故郷が懐かしいなぁ」と…。

その心情はどこから来る?
感情のとらえ方をどうやって知る?
誰が教える?
感性とかセンスとか、つかみ所のない物の言い様で片づけて、本人が勝手に身につけるのを待つしかないものなのか?そんな呑気なことで良いのか?

私の口癖「センスは磨く物だ」。それでは、誰が磨く?誰が磨き方教える?
 

「親切な行い」について1つ1つ例を取って説明し教え示唆する。励まし、やらせて、出来るようにしていく。それは教えることによって出来る。しかし単なる行為の修行である。
さらに大切なのはその修行を重ねて「親切な心」を育むことではないのか。(その事を宗教では悟りというのか。)
教育というからには「教える」事と「育てる」事と両方必要であると思う。
今の世、教えることは学校がやるとして、誰が育てるんだろう?
家庭? 地域? 社会? 学校? 
 

音(音だって随分漠然としている!)を通して、目に見えない心を探ろうとする。
そして、閾下にある意識を顕在化させ認識させ次に繋ぐ。
それが教育の範疇であるかどうか知らない。今のご時勢、学校では難しい気がする。
しかし私は音楽(吹奏楽)を通して何とかしてそんなことをやろうとしているのだと思う。それが出来る状況をTSWでつくりたいのだと思う。
なぜなら私と関わった全てのTSWな人に「親切な行為が出来る」だけではなく「親切な心の持ち主になって欲しい」、すなわち「育って欲しい」と思っているのだもの。