10月
05
音楽祭

10月5日。ハッピネス・ヒル音楽祭という本番があった。

前任校を辞めて吹奏楽の世界から足を洗ったつもりだったのに、もう一度この世界に入るきっかけを作ってくれたJr.ユース・ウインドオーケストラの本番。
今回は練習になかなか参加できず本番前に2回、ゲストとのリハーサル1回、そして本番、という中高生のバンドとしてはなかなか難しいスケジュールだった。
しかし、スペシャルゲスト/平原まこと(サクソフォン)さんとのリハーサルが始まってから、とても有意義で幸せな時間が続いた。なによりメンバーに対する温かい御指導が嬉しかった。
「楽器持ったら俺と君たちはプレーヤーとして対等なんだよ」
この言葉は「中高生レベルに降りてきていただいている」ことと同時に「このレベルまで上がってこい」と言う激励の言葉でもある。それに対してみんな良く応えたと思う。良い演奏が出来た、と思っている。本番中涙出そうになった。

「プレーヤーとして対等」なんと心地の良い言葉だろう。どんな場合でも是非そうありたいと思う。
だからこそTSWにも様々な要求をする。
応えて欲しいと心から思う。
土俵に上がらなければ相撲は取れない。早く上がってこい。

3月
21
本番

決して奇跡ではない。

素晴らしい本番になった。
みんな想いがぎっしり詰まった忘れられない本番になった。
この瞬間が永遠に続けばいいと思う本番になった。

一曲目から胸が詰まった。
アンコール最後では涙でみんなの顔が見えなかった。

ここに至るまで本当に色々あったからな。
「前日からやれよ!!」
「これだけのことが出来るんだったらもっと出来るだろ?」

いままで「信じる」ことがわからなかった者達よ。
 自分を信じる。
 仲間を信じる。
 今この瞬間を信じる。
この本番で実感できたよな。

「信じるってどういう事か全然わからなかったけど、信じても裏切られることしかなかったから信じることが怖くていやだったけど、でも本番中、みんなの出す音信じて自分の音を出しているのに気がついた。」 

そう。それだよ。
それを実感できたのならこの本番は大成功。聴いてくださった皆様にも必ずそれは伝わった。
今これを書いているこのときですら、私は涙がこぼれてくる。

どうだ!
信じることの凄さ。
確実に証明したぞ。
ざまーみろ!

2月
29
神?

洋物の音楽映画を見ていると、必ず出てくる「神」の存在。
最近いくつか連続して映画の中でそのことを目の当たりにして。
人を超越した絶対的な「神」の存在が人自身の行動の規範や制約となり、音楽も神からの啓示を受けて創造される。(と信じている。)
 「神」というもの(偶像があろうとなかろうと)が、自身の向かうべき目標や信じる対象となり、神の名においてすべての苦労は試練として昇華されてしまうのだ。「神のご意志」「神の思し召し」が人の意識を支配し、人はその手のひらの上で俗世を生きる。

さて、私には私を支配する神が存在するのだろうか、と自問してみた。
今まで自分は無宗教だと思っていた。なぜなら、最終的に自分の行動を決するのは自分以外にいない、と信じているからだ。

実家には仏壇がある。我が家にも亡き者を弔うスペースはあり、花を飾り食べ物を供え手を合わせる。しかしそのことが日常の自分の行動規範になっているかと考えると、漠然と大きなくくりで何かあるような気もするが、具体的なことはあまり思いつかない。
また、日本には古来より八百万の神がいる。大きな樹木や岩や滝や世の中のすべての物に精霊がつき、人はこぞってご来光を拝む。
自然崇拝。決して私は嫌いではない。むしろすばらしい景色に遭遇すると神々しさを感じ、ああ、自分は日本人だなぁ、とうれしく思う瞬間がある。
しかしこれでも、日常の行動規範としては弱いのではないか。自然を大切にする気持ちとか、畏怖を感じる場所とか、それによって身を引き締めよう、などと思うことはあるだろうが、直接的に日常の具体的行動に直結することはさほど多くないと思うのだ。

とらえ方を変えて「自分自身の思考や行動を支配する何か」と、別の思いを巡らせてみた。

で、気がついた。私にとっての神は音楽だ、と。
いやいや、そんなにかっこよくないし簡単明瞭ではない。
ただ、「私にとっての神は音楽だ」と考えるといろいろなことが説明できるんじゃないかと気がついた。
私は、すばらしい理想の「音楽」の実現と人の生き方をオーバーラップさせて説明することが多い。我を忘れて時間を忘れて話し込んでしまうほど(聞かされる者にとっては迷惑な話だろう)、皆に一番知ってほしいのはそれだと思っている。

私にとって音楽とは、無条件で信じ、目指す事なのだ。
信じ、目指し、理想の音楽を実現するために、自分がどうあるべきか、どう考えるべきかの根拠をそこに求めている。すなわち自分の行動の規範が生まれる。

そうだ! 信じることにより規範が生まれるのだ。
そうか、私がTSW部員達に理解してもらいたいのはここなのだ。
やっと自分で整理できてきた気がする。

しかし、まだ音楽経験の浅いTSW部員達に、いきなり「音楽の奇跡を信じよう!」と言ったところで何のリアリティもないだろう。
世の中の大半の吹奏楽部員が絶対的に信じることは、「目指せ普門館!!目指せ全国大会!!」なのだろうと思う。
わかりやすく信じやすく目指しやすい。皆が同じ向きになるためにこんなに効果的なことは無い。私もよくわかっているつもりだ。
しかし、私はそれを「本質ではないと」言い放ち、決して潔しとしない。なんと愚かなことだと思う。「信ずべき物」の選択肢を減らしているのだ。
だから、TSW部員は悩み苦しみ混乱する。

心から信じてほしいものになかなか到達できない苦しさ。
みんなそこまで行きたいのに。

大切な物は目に見えない。
大切な事は聞こえない。
大切なものに触れられない。 …。

このジレンマ。

信じるものがない状態でめいっぱいやれ!って言うのは酷だよな。
すべての行為がただその瞬間をやり過ごすための作業にしかならない。あるいはその作業すらあきらめ、首をすくめてひたすら嵐が過ぎるのを待つ、そんな印象を強く持つ。

少しずつ、ぼんやりと、見えてきているようでもあるがまだまだ半信半疑だし、すぐ見失ってしまいそう。

信じるべきことを、どうやって理解したら良い?
信じることを確固たるものにするには何をしたら良い?
それぞれの神をどうやって見つけたら良い?

神?

2月
01
敬愛なるベートーヴェン

という映画を見ている。(まだ最後まで見ていないけれど…)

昔、中学生・高校生だった頃、ベートーヴェンは好きではなかった。いや、はっきり嫌いだったといった方がよいだろう。でも音楽の勉強にはベートヴェンは欠かせない。たくさん知っていくうちに「すごいな」と思うようにはなった。
6、7年前(だと思う)、第9交響曲の4楽章をマーチング用にアレンジした。そのとき久しぶりにベートヴェンを読み直したけれど、そのときは「すげー、かっこいい!」と思った。

この映画の途中で歌付き(交響曲第9番)の初演の場面が出てくる。
今回は、不覚にもその場面で涙が込み上げてきてこぼれてしまった。ストーリーに感激したのではない。歓喜にあふれる聴衆の顔が写される事があっても、だからといってそれが涙する理由ではないと思う。
音楽そのものの美しさや力強さがそうさせたに違いない。なぜならいきなり「うっ!」っと来て「すぅーっと」涙が頬を伝ったのだ。泣くかも知れないなんて意識する暇はなかった。

久しぶりに音楽を純粋に聴いた気がする。

1月
27
本番

長久手吹奏楽フェスティバルの本番だった。
200名を超える合同バンドで3曲演奏した。

なぜか本番のパワーはすごかった。練習でどうしても上手くいかなかったところもなぜかうまくいった。本番のスイッチが入ったのかな。素晴らしい。
逆に「え、こんなところ!?」で、私は振り間違えた。情けなし。

これで4回目(4年目)だけれど、毎回短い練習でよく出来るよな、と思う。これは一回目の練習以後、それぞれの団体に帰って練習してきたたまものだろうと推測する。でなきゃうまくいかない。
皆さんの頑張りに感謝です。
演奏は楽しかったか?お客さんも楽しんでもらえたか?私がやる意味はちゃんとあったか?いろいろ検証すべきことはあるけれど、それぞれの立場でやって良かったと思える本番にはなったかな。
懐かしい人々にもあった。また少し人の輪が広がった。

TSWのメンバーも8名のった。宿泊ともなって大変だったかもだけど、それに値する成果はあったんじゃないかな?いろいろな物が見えてきたんじゃないかな?
舞台のお仕事ご苦労様でした。助かりました。

ただ残念だったのは今回1年生の参加が皆無だったこと。不参加の理由はいろいろあるだろうけれど、宝物を取り損なったね。また同じようなチャンスがあるとは限らない。その一回一回が大切で唯一なチャンスだよ。いつもとは違う世界を見なければいつまで経っても田舎の井の中の蛙から脱却できない。次は是非取りこぼさないようにしたいものだ。

今回の事でいくつかおもしろい企画案が出てきた。実現できたらホントに楽しそうだ。乞うご期待!

1月
23
信じる

音楽の正体を掴むのはなかなか難しい。
目に見えないし、手でつかめない。色も形もないし、匂いもない。いつまでもそこに有る事もないし、一度出てしまった音をなかった事にすることも出来ない。

にもかかわらず、「そこに何かがある事」を信じる必要がある。そして、信じる事によって少しずつ音楽が見えてくる。少し見えると、もっと信じたくなる。そうするとさらに奥深くが見えてくる。
そうやって音楽の正体がだんだん見えてくるのかな。

という事は、まずはとにかく信じなければ何も始まらないのではないか。
…さて、手始めに何を信じようか??

1月
20
フェスティバルバンド

200人規模バンドの練習があった。中学校2校、高校2校、大学一般各1団体の合同バンド。

本番は来週。練習は2回で、GP・本番。(リンクは不完全です。すいません。全体はPCでここからどうぞ)

細かいことをやるにはあまりにも時間がない。しかも人数が多すぎる。
では、何を断念し何を目指すのか?いつも悩ましい。

で、いつも結局縦横そろえることよりも、もっと別なことやっちゃう。
「喜び」とか「楽しみ」とか。
「揃わなくても良いから!」なんて言っちゃって。
アンサンブルの精度を上げるには大きな回り道だと思う。
誤解されると危険だよな、と思いながら。

そんなことは先刻承知、ただ「やらされて」「言われたとおりに」「無表情に」しか音が出てこないとムキになっちゃうんだな、どうしても。
「あなたは何をしたいの??」「何を感じてるの??」ってね。

今日もやっぱりそうなっちゃった。
今年こそはもう少し緻密にトレーニングやって精度あげようと思ったけどだめだった。我慢できなくて同じ事こだわっちゃった。
でもね、練習の一番初めとおしまいでは、みんなの目の輝きは違ったんじゃないかと思うのは気のせいかなぁ。最後はへとへとに疲れてはいたけれど、みんないい顔していたよ。
私は子供達のそういう顔が好きみたい。

(ただの自己弁護かなぁ。)

12月
30
晦日

いよいよ明日大晦日。
今日は日頃出来なかった掃除をたくさん。
洗車して、仕事部屋も片付けて、と欲張っていたが、昨晩から不調だったこのBLOGのメンテナンスが結局朝までかかってしまったので寝坊してしまい、断念した。

午後セロリの散歩中、雪が降ってきた。しかもボタ雪ではなく、直径5mmくらいの丸い奴。すぐにやんだけどね。同じ愛知県だけど勤務地との天候の差は著しい。
 

夜は友人夫妻と石狩鍋。火の通ったイクラの食感は初めてだったが、なんやらおもしろかった。
その後餅つき。残念ながら臼と杵ではなく、以前オークションで手に入れた餅つき器がゴロゴロやってくれる。
普通の伸し餅と、餅米とうるち米が半々のたがね餅をついた。合計四升。
たがね餅は三重県の風土らしい。なかなかこのあたりでは聞かないようだ。
友人が好きなのでこのところ毎年ついている。うるち米のプツプツと、餅なのにあまり粘らない感じが私もきらいではない。

しばらくするとTVで「イカ天」の特集をやっていた。
おおぉっっっっ!懐かしい!
平成元年〜二年のことなのでもうずいぶん前だよ。そういえば毎週「明日の練習にひびくなぁ」と思いながら深夜の放送を見ていたよ。出演したバンドは案外覚えているものだ。「ああ、知ってる、覚えてる」ってなる。

改めて聞くと、今も鮮明に記憶に残っているバンドは上手い。格段に上手い。
素人でもこれだけのことが出来るんだね。
 

さあ、明日一日で今年は終わる。2007年の締めくくりは何をやろうか?