5月
17
この春より

吹奏楽で音楽を勉強する会、始めました。
楽器持って実際に音出しながらやってます。本日はその3回目。
まだ参加人数は少ないのですが、ディスカッションも活発で内容の濃いものになり、とても充実しています。

以下、その内容紹介などを試みます。

音楽をもっと広くもっと深く知ろう!
【音楽の仕組み・音を出す技術・表現する心】  音を出しながら吹奏楽を研究する会

1. 音楽の音とその由来
   【音階の仕組み】
   ◇12個の音 ◇音階の不思議

2. 音と音のつながり
   【オトがつながると線となってメロディーになる。】
   ◇一つ一つの音がつながると意味を持つ

3. オトが同時に鳴るとハモる
   【和音の力はすごい】
   ◇機能和声 トニックとドミナント

4. ハモると動き出す   ←次回はここ
   【和音はどんどん進化する】
   ◇サブドミナント&転調 ◇テンションって何?

5. 音符の付属品
   【音符についている小さな印】
   ◇アーティキュレーションとかディナーミクとか

6. 楽譜の付属品
   【楽譜についているいろいろな印 楽譜に書かれていない様々な指示】
   ◇全体を支配する呪文 ◇連続的に変化させる指示 ◇記号化されていない隠れた指示がある!

7. 音楽の多様性 1
   【まさに十人十色 音楽の色も実に様々】
   ◇音楽のスタイルについて
    例えば…。ライトモチーフ 印象派 セリー ミニマル 微分音 不定量記譜 などなど

8. 音楽の多様性 2
   【タイミングの妙 合うことの気持ちよさ ズレルことのスリル】
   ◇生き生きとしたリズム ◇複雑な拍子 ◇ノリって何?

9〜 ひたすらさらおう!
   ハッピョウカイに向けて練習あるのみ
   テーマを持って選曲。研究するのだよ。◇Tuttiの曲だけじゃなく 個人やアンサンブルの曲も

LAST.【ハッピョウカイ】
     本番!

また、ただ勉強するだけではなく、その成果を元にいろいろなことを目論んでいます。
おもしろいことがたくさん始まりそうです。
わくわくしています。

今からでも参加可能です。
興味のある方、こちらからお問い合わせください。

4月
21
Tempo

〜前略

 オーケストラや吹奏楽など、指揮者を必要とする編成が大きい楽曲の演奏は、指揮者が適切なテンポを演奏者に示すことで始まります。分かり切ったことのようですが、実はこのことは、

 演奏者は、指揮者から与えられたテンポを、演奏者自身のテンポとして置き換えることができる

 ということを前提としているのです。
 さらに、演奏者が共通して感じ取ったこのテンポとは、いわば、その曲を進行させるための「慣性」というべきもので、一旦動き出したら簡単には変えられない強力な力です。この慣性という推進力を共有できるからこそ、大人数の演奏でも緻密なアンサンブルや音楽表現が可能なのです。

後略〜

JBCバンドスタディ スコアブック 指導書(YAMAHA) より

これに気が付いていないバンド青少年諸君は案外多いのかもね。

3月
21

歌を書く。

いや、実際にはまだ書いてないのだけれど。
特に具体的な音が思い浮かぶわけでもなく、なんとなく雰囲気というか情景というか、そんなものがふとした瞬間に浮かんでは消えていく。
そうやって何かがどこかに貯まっていくようなのだが、きっとまだもう少し貯める必要があるんだろうな、と感じてる。そしていっぱいになったときに、つーっと自然にしずくがこぼれてくるのを待つ。

いつも大体そうだ。(端から見たら何もせずにサボっているように見えるんだろう。でも、ここで無理をすると上手く行かないことが多い。)
贅沢な時間の使い方であることに違いない。

3月
18
朧気ながら

朧気ながら、今まで考えたりやったりしたことの意味がようやく見えてきたような気がする。
あらためてそこから見渡してみると随分回り道をしてきたんだな、と感慨深いが、大切なのは「今自分がそこにいる」ことだと思う。

そろそろ、24歳になってもよいかも。(長い間23歳のままだったし…。)
そのためにも、もっと書かなきゃ。

3月
03
PCの

データ整理していたら、1行のテキストデータが出てきた。
WEBのどこかで拾って、気になるから残しておいたものだと思う。
いつ、どこで、拾ったのかも記憶がないのだが。

自作で勝負できるのがアーティストで、人の曲で儲ける人は職業音楽家。後者は大衆に迎合するしかないので…

うーん。
勝負かぁ…。そこから逃げていたのかもしれんなぁ…。

9月
16
マーチングコンテスト

を聴きに(観に)行った。

沢山の見知った団体が出場しているけれど、マーチングのレッスンをがっつりしてるわけではないので、とても気楽なお客としてである。

一昔前まで、この中にどっぷり浸かって、演奏演技の出来に一喜一憂しながら熱くなっていた自分が懐かしかった。
(再確認するまでもなくアマノジャクな)私には、表情に乏しい顔、無理に笑顔をつくっている顔、「とりあえず声出しとけや」に聞こえる執拗な挨拶、などなど、他にも沢山の気になることがあった。
そして以前と違い何だか少し冷めた自分であることに気が付いた。

マーチングというカテゴリーの有用性は改めて言うまでもない。素晴らしい。老若男女だれもが見て聴いて楽しい。そして一生懸命さが伝わりやすい。
にもかかわらず、何でそんなこと感じたんだろう。もしかしたら、本番の演奏演技を観てというより、それ以外の部分で感じた興ざめが影響しているのかも知れない。
とにかく、私の感覚と何か少しずつずれてきているようだったのは事実。

自分の中に変化が起きてきているのだろうか。
それともただ鈍感になっただけなのだろうか。

もちろん全てがそうなのではなく、等身大な演奏演技がとても爽やかで気持ちの良い団体があったことも記憶に留めたい。

9月
09
ひとつの演奏会が終わり

ひとつの演奏会が終わり、その後FBの上で、こんなやり取りがあった。
内容は、ある打ち上げ時の様子と感想。
 (ひとつ抜けていたのを補完 9/15)

七川(仮名)
仕事に行く前に今日の作業内容をまとめようと思っても、昨日のことばかり考えて手につかない。
昨日、シンバルの話をしていた時私の目の前にいたあの子達に、とてもとても大事なことを伝えるのを忘れてしまった。
それは第一組曲をやった今回だから伝えやすかったのに、それを、あの時に気づかなかったことが演奏会での色々よりダメージが大きい。

NGO
なんだろ?気になる。

七川
空気感と身体とシンバルが1つになってって話したじゃないですか。その空気感は会場の響きだったり私以外の音だったりするわけです。私の音が変化するのは、常にあなたの音が影響してるからだよってことです。高校時代に第一組曲の私のシンバルで自然に涙が出たとある先輩に言われたことがあるのですが、それは、私が上手かったからではないんだよって。もちろんそうゆうことに気が付いて、表現できる技術が必要かもしれないけど、みんながエネルギーを貯めて貯めて貯めて、それを開放するのが役割なので、その感動は私以外の音があってのことなんだよって。私は、一人じゃシンバルを叩けませんから。バスドラムがあってのシンバル、バンドあってのシンバルなので。第一組曲のあの部分だけではなく、「マーチの強弱」以外の全ての音は他の楽器の影響で音が変化してます。今回のゲネプロと本番で、私の叩きかたも音色も全くちがいました。それは、本番だからというより何かしらの変化があったからなんだと思うのです。それをあの時彼らから感じました。とても嬉しく、この先も変化を見てみたいと思いました。

七川
↑笑っちゃうくらい長文でした(笑)しかも、結局は昨日の話やずっと合奏の時に先生が話していたことと同じなんですけどね。

NGO
ありがとう!
ふふふ、何だか嬉しいな。

七川
あんなに真剣に先生の話を聴いている彼らを見ながら懐かしい気持ちにもなり、「あ、大丈夫だ」と思いました。その『気付き』は彼らにとってとても大きなことでしょうし、私にとってもとてもとても大きなことでした。

確実に意義はあったのだ、と感じる。
やって良かった。
少なくとも、ここに至る事が出来たのだから。

9月
07
音の向こう側

以下は、本日の ENSEMBLE SPIRITUS というバンドの演奏会で、パンフレットに載せた一文。

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音の向こう側

 
「三角形な感じの音にしてみてよ。」
「お湯入れてから30分も経ってしまったカップラーメンのように手を叩いてみましょう。準備はいい?ではそれを食べる時の気持ちで、さん、はい!」
我が師、兼田敏先生のレッスンや講演、バンド指導ではこの類の話は連発した。単に「〜のように」という指示にとどまらず、面白おかしいエピソードを混ぜながら話しが進んで行くのでいつに間にかその独特な世界観に引きずりこまれて行く。私はそれが大好きだった。
傑作だったのはこれ。
「こんどは色を白くしてみよう」
「あ、はい。しろですね。少し待ってください…。うーん…。」
「…。さあ、やってみて。」
の後、シンバルを一発叩き、しかし即座に止めて、
「すいません!間違えましたっ!ごめんなさいっ!」
と彼女は叫んだのだった。誰も「間違えた」なんて判らないのに。公開レッスン会場は一気に笑いの渦。自分の想いと全く違った音が出ちゃったんだろうな。

そんな訳だから、私もついつい長々とそのような話をしてしまうのだが、最近、初顔合わせのバンドレッスンでそれをやると違和感を感じるようになってきた。
「で、それが何なの?」「結局どうすればいいんですか?」な、ぽかんとした顔に出くわすことが増えたように思うのだ。

先日、バンド絡みの若い人たちと「波間の昆布」(…バンド指導で度々話す内容…。残念ながら詳細は割愛…。)が話題になった。そして「あの話は意外に敷居が高いです」と言われた。
愕然とした。音楽におけるそれぞれの役割とその感じ方について上手く言い当てていると自分でお気に入りの話だったし、「とっても良くわかります」「何だか妙に全てが納得出来るようです」などの感想も多く聞いているので、ショックは大きい。
私の、「音」や「音楽」とイメージとの関係が、突拍子もなくあまりにもかけ離れていて、かえってイメージが湧きにくいのだろうか。
音楽によるイメージの深さが、少なくとも私と、「波間の昆布」の話を敷居が高いと感じる人たちとは、かなり異なっているのだと急激に不安になったりした。

「テンポ60、一点イの全音符二つと二分音符のタイ、ダイナミクスはmp、発想記号としてespressivoと書かれている」ような楽譜について「440Hzの音が50dbの音圧でしかし多少の音程や音色や音圧の変化を伴いながら10秒間発生すること(その楽器の「良いとされる音色」で)」のようであるのなら、それはただの「音」に過ぎないのだと思う。(並外れて優れた「音」ならば、それだけで心が動く事も有るだろうが…。)

その音に「蛇に呑み込まれかけた蛙がまだ飲まれていない足をぴくつかせながらもがいている様子」だったり「今まさに夕日が水平線に隠れ、真っ赤だった空と海が急激に群青色に染まり変わっていく情景」だったり「強く挟むと潰れてしまうのでそうっと、しかし早くその美味しさに感動したい一心でゴマ豆腐を落とさないよう箸で口に運ぶ期待感」だったり、こんな私の陳腐な表現ではなく、本来言葉で表せないもっと様々なイマジネーションを潜ませたり膨らませたりする事が音楽なのではないのか。そのイマジネーション活動こそが音楽の神髄ではないのか。
「良い音色だなぁ」「美しい音の並びだなぁ」にとどまらず、その発せられた音を仲介として演奏する人と聴く人が様々な想いを馳せ合う。
重要なことは、その想いには全く実体が無い、ということだ。微振動すらない。全てがそれぞれの人の頭の中だ。自分以外の誰も覗き見することが出来ない唯一無二なイマジネーション。それを脳科学の世界では「クオリア」と呼ぶらしい…。すなわち「心」。
今、私は、「音楽」とはその「心」を「音」によって顕在化させ豊かにすることなのだ、とようやく実感を持てるようになってきた。

余談ながら、現代科学ではクオリアを、随伴現象として出来れば無いものにしたいらしい。科学の対象は「計量できる経験」に絞られて、「心」が絡むとたちどころに客観的検証から外される。以前「教育の範疇で優しい行為をさせることは出来るが、優しい心の持ち主にすることは不可能である」を読んで途方もない絶望感を感じたのを思い出し、「いや、ちょっと待てよ。音楽では可能なはずだ。私はその実践をずっとしてきたつもりだし、関わってきた多くの人達がその証明をしてくれる。絶対諦めてはいけない!」と密かに誓った事も決して忘れない。

冒頭のエピソードは、出てくる音のイメージを豊富にさせる手段だけではなかったのだ。音の向こう側にあるイマジネーション「クオリア」を育てていたのだ。つまり現代科学では困難な「心を豊かにする」実践がそこにあり、確かに私はそれで育てられていた。
これこそ音楽の意義だ。
音の向こう側にこそ音楽が存在する事をさらに伝えていくことが「音楽とはなぁ、生きることなんだ…。」と遺して逝った我が師への恩返しでもある。
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8月
15
一息

コンクールラッシュが終わってしばらく日にちが経つ。
ようやく一息ついて、色々ざわついていたものが落ち着いてきた。
棒を振ったバンド3団体。
レッスンに行ったバンドは…えっと、幾つだっけ?
審査員も。
コンクール日程が年々早くなっていて、夏休みにじっくりとレッスン、というわけにはいかず、どの団体にもスケジュール調整でご迷惑をお掛けした。申し訳ない。
それでも、それぞれのバンドは少しでも良い音楽にするために粘り強く練習に励み、それぞれきちんと成果が出たと思う。頂いた賞の色に一喜一憂するのではなく自分達がやってきたことに自信を持ってさらに前に進んで欲しいと思う。

さて私自身、今年は妙な絶望感はなく、むしろ沢山の発見があってとっても有意義だった。
なんと言っても、自分の方向性がかなり明確に見えてきたことは重要だ。
今までずっと納得できなかったことの理由が判ってきたようなのだ。

例えば。
なぜコンクールを嫌いなのか。
バンド界での「サウンド」至上主義に抵抗したくなるのはなぜなのか。
皆が「うまい!」という団体の演奏を聴いても、必ずしも「素晴らしい!」と思わないことがあるのはなぜか。
レッスンをしていて、どうしても拘ってしまうことがある(しかも、それはコンクールでは不利益なことが多い!)のはなぜか。

最近読み漁っている類の本の中に、

「学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない」

(※ グライダーは自力では飛びあがれない。牽引してもらってようやく空に飛び出す。一方、飛行機にはエンジンが付いていて自発的にいつでも空に飛び出すことができる。)
さらに、

「しかし、現実にはグライダー能力が圧倒的で、飛行機能力はまるでなし、という”優秀な”人間がたくさんいることもたしかで、しかもそういう人も”翔べる”という評価を受けているのである」

思考の整理学 外山滋比古 / ちくま文庫

をみつけたりして「あ、そういうことか」と気が付いたりしているのである。
私はバンドのメンバーに対し常に飛行機人間を望んでいる!

思い起こせば、ずっと昔からそのようなことを口走り、いつもそれを追いかけてきた。
今さら何を再確認しているのだ、と思うが、その再確認が今の私にとってとても重要であることには間違いがない。

ようやくとっかかりが見えてきたようだ。

8月
11
記憶の彼方から

自分がいったい音楽に何を求めているのか、つらつら思い巡らしている時に、30年以上(だと思う)前に読んだ本のある一節をいきなり思いだした。
その本のプレビューなどを見ると

これが、魂の音楽だ! トランペットの響きに魅せられ、ニューヨークのジャズメンの世界にとびこんだ少年の熱くほろ苦い日々。「最高の青春小説」として、若い読者の圧倒的な共感をよんだ話題作。

などとあって、「え?青春小説だったのか?」と思ったりもするのだが…。

探したら本棚にあったので読み返した。
思いだして良かった。
そのなかの演奏描写が強く印象に残っていて、少々長くなるが、引用する。

「ジャズ・カントリー」
ナット・ペントフ 木島始訳/晶文社

7 リハーサル より

〜〜ゴッドフリーは、ウィル・パークのほうを向いた。「ウィル、この曲には題が付いていないんだ。この曲は、あんたにどんなことを言ってきかせてるね?」
「そういうふうには、おれはこの曲を聴いてみなかったんでな」と、バークは言った。「ただ、どういうふうに組み立てられてかってことだけ、おれは聴いてみたんだ。」
「感じ取れよ」と、ゴッドフリーは言った。「もう一度、考えて、感じとれよ。」
 バークは、そこに数秒、立ったままで、天井を見上げ、それからこう言った。「そうだな、お堅いよう(スクェア)に思われるかもしれんが、この曲はおれには子供たちが遊んでいるみたいに聴こえたな。」
 ゴッドフリーは、喜んだ。「ズバリだ。だからこそ、あんたはここに来てるんだ。おれは、あんたならそれをぴたりと掴まえてくれると思った。よしきた。あんたが子供のときのとおり、やってくれ。街でどんな感じだったか。だれがあんたは好きになったか、だれがあんたを苛々させたか。お回りや教師や両親なんかを引きずりこんでくれ。そういうの、みんな引きずりこんでくれ。あったとおり、吹いてみせてくれ。それできみたちは」−−ゴッドフリーは部屋を見まわした−−「耳を傾けて、そのどれかがわかるかどうか、そのなかに入りこめるかどうか聴きとるんだ。きみたちが子供だったころのことだ。サム、きみもむかしは子供だったんだろ、え?」
 ミッチェルは、唇をすぼめた。「おれは八十二年前に生まれてな、毎日、若返ってるんだ。ここにくるときいがいは、よ。ここに来る日は、おれの寿命に十年つけ足すことになるぜ。」
 「おまえは、きっと警官にだってなれるぜ」と、ゴッドフリーは言った。彼は、ピアノのところにいき、テンポを叩きだした。で、音楽は、始まった。それは、ぼくがこれまでに聴いたことのあるうちで最も並みはずれたジャズの二時間だった。最初、バークのために背景となる音は、いまや完全にミュージシャンたちによって極めつくされたモーゼの譜面(スコア)によって、ほぼ完全に構成されていた。しかし、バークがもっと自信を持って、しだいしだいに個性的な即興演奏をやるようになると、他のメンバーたちも、音楽にじぶんじしんのアイデアやフィーリングを徐々につけくわえはじめた。モーゼの譜面(スコア)に基ずいて、かれらは、バークが演奏しているものにたいして、そして、めいめいお互いの言いたいものにたいして、反対(カウンター)メロディ創りだした。まるで複雑だが奇妙に美しい絨毯を一緒に織っているとびぬけて技倆のすぐれた職工の一団を見まもっているようだった。

 モーゼが望んだとおり、中心になる物語の筋は、いつもバークによって決められた。彼の両目は閉じ、両頬はふくらみ、バークは、そのトランペットに物語らせていた。ほんとにそのトランペットが話していた時があった、とぼくは言いたいのだ−−いや、むしろ−−ふくみ笑いをし、鼻を鳴らし、唸り、冷笑し、激怒し、すすり泣き、どなり、囁いていた、と。そして、かれは、ぼくがこれまでに聴いたことがないようなメロディーを創りだしていた。けれども、それらのメロディを一度聴くと、すぐにそれは聴きなれたひびきをもってくるのだ。フットボールの長いパスみたいに、舞い上がって、ぽいとすくい上げられるメロディーがあった。眠っているなと思われてるときに、暗闇で話してるみたいなメロディーがあった。
 バークと他のミュージシャンたちがその音楽を五回目か六回目かやりおえるころには、ぼくは幼年時代の記憶から、もう何年も考えてもみなかったいろんな場所のことを想いだしはじめていた。そして、そのころの感じも。
 あるとき、バークは深くブルースに突っこんでいったので、ぼくは、ぼくも死ぬのだ、始めて死について考えたときのことを想いだし、突き刺されたみたいになった。十一歳のころで、とても高く長たらしい丘を、ぼくは登っていた。半分くらい昇ったところで、とつぜん、ぼくは永久に生きるわけじゃないという考えが浮かんだ。じっさい、そのとおりなのだ。それから、ぼくは、あと何年のこっているかなあ、と思い、そのこと断続的に長いあいだ考えあぐねたのだ。〜〜

中略

〜〜彼女は、見上げ、びっくりし、それから苦笑した。
「ちっちゃな女の子にかえってたの、わたし。」と、彼女は言った。「ね、モーゼ、人形といっしょに遊んだり、ママがお料理するのを見てたり、学校の黒板を消しにかかったり。ヴァージニアのダンヴィルにもどってたの。」
「おれは、シカゴのサウス・サイドでフルーツを盗んでたぜ。」サム・ミッチェルは、かすめてきたものの味をためしてみることができるみたいに、舌づつみをうちながら、言った。「そいで学校サボって映画にいってたんさ。」
 ミュージシャンのだれもが、ゴッドフリーの背景になる音楽とウィル・バークのトランペットのまわりで即興演奏をやりながら、じぶんの瞬間的回想(フラッシュバック)をおこなっていたのだ。今や、だれもがバークの話すのを待っているようにみえた。かれは、まわりを見まわし、またすこし頭をふり、腰をかけて、泣いた。泣くのは、長くはつづかなかった。当惑して、バークは、ポケットに手を入れ、巻煙草を一本とりだした。「モーゼ、八つくらいのときから初めてだよ、泣いたのは。」〜〜

この部分を読んで、音楽はこんな奇蹟のようなことを起こせるんだと知った。
たとえ、これが小説の中の話しだとしても、実際に起こりうることなんだと直感した。そして涙を流した。