8月
02
まだまだ

続くコンクールの本番。
明日は久しぶりに、書き下ろしを自分で演奏する。
14人のための「ルーマニア民族舞曲/バルトーク」だ。
[Fl/Ob/Cl-2/ASax/TSax/Trp2/Hn2/Trb2/Euph/Tuba/ (内、適宜Perc.持ち替え)]
曲が持っている恐ろしいほどの素晴らしい力を表現できる楽譜になっているかどうか。
メンバーのひたむきな音でバルトークの世界観を表現しきれるかどうか。
 

とある地区で少人数演奏を審査員としていくつか聴いた。
一番少ない団体で10人だったが、同じような少人数団体が複数有った。
当然、素晴らしい演奏も、もう一息な演奏もあった。

ずっと昔から、人数の多い・少ないと、演奏の出来・不出来は直接関係がないはずだと思っている。
確かに出てくる「音」は違う。音量とか響きの豊かさとか音色の豊富さとか。また、人数が少ないと一人一人の負担は限りなく増大する。
しかし、人数が少ないから音楽が貧弱になるのではない。その演奏に音楽の力が少ない(それは演奏技術であったり表現手法であったり感性であったりするのだが…)ことが原因だと思う。

しかしそれらを聴いて、大いに触発されたのは確か。

一人一人をきちんと磨き上げ、14人で出来ることは限りない。諦めず求め続けること。
個性溢れるメンバー全員の力が全て発揮され音楽を通して一つになり、この上ない幸せな時間になることを心より期待している。

考えず。
感じて!

7月
23
佳境

例年通り、この時期は吹奏楽コンクール一色の生活だ。
6月末から休み無く朝から晩まで1日に2つ、3つとバンド漬け。

昨日一つ自分の本番が終わった。
今日も、現場に行けなかったが深く関わったバンドの本番があった。(もちろん別の練習があった)
また明日一つ本番。

その次も、さらにその次も、まだまだ先は続くので、一区切り付くような段階ではないが、ここ(コンクール)に向かって進んできた皆さんが、なお、それ(コンクール)を越えていく事を心から願う。
吹奏楽コンクールは決して到着点ではない。
 

毎年くり返しコンクールに振り回され「進歩無いなぁ」とイヤになる自分が居る。
しかしその一方で、本当に自分がやりたいこと、やるべき事が見えかけてきている事も確かな事実。
それもこれも、一緒になって汗をかき力を尽くしている10代から20代にかけての若い人達がいるからこそ。さらにはその環境を与えてくださっている多くの方々がいらっしゃるからこそ。
まだまだ形はもちろん、言葉にもならないのだが、この1年くらいで確実に何かが見え始めている。

だから、苦しいことには変わりないが、以前とは違い迷いはない。
音楽の意味、吹奏楽の意味、スクールバンドの意味。
ずっと以前(深く考えもせずに)「本質」という言葉をよく使っていたが、もう一度考え直そうと思う。
いずれ、何かの形にするときは来ると予感するが、その「形にすること」の意味も含めてあらためて考え直す。

7月
19
ドミナント−トニック

バンドレッスンするとき、どうしても和声的な処理としてドミナント−トニックを説明したくなるときがある。
”ソシレファ”と音を出して、「この音聞くと、次にこう行きたくならない?」といいながら”ドミソ”と音を出す。「あー、落ち着いたねぇ。」
そうすると大概の人が「うん、うん。」という顔をしてる。

機能和声としての基本的な動き。コードネームでは”G7−C”。
皆「うんうん」と頷くのだから、そう感じているのは確かだと思う。

でもいつもそこで疑問が湧く。
「なぜ、みんなそう思うの?」
和声という約束事でそう決められていて、いつしかその感覚を覚えるのかしら?
いやいや、機能和声というのは、試行錯誤した結果、生き残った音の動き方を整理したモノだと思ってるから、始めに「約束ありき」ではなく、「そう感じる」ことが先にあっただろうはずな気がする。

ではなぜ人は皆、一つの理論体系が出来るほど確かにそう感じるのか?
百歩譲って、西洋音楽機能和声ではなくても、ドミナント−トニックの機能、即ち「不安定→安定」「ストレス→開放」のようなものを音を通して感じるのはなぜだ?しかも限られた人ではなく大勢の人が等しく感じるのはなぜだ。

機能和声の大前提となるこの感覚については、どこかで説明されてるのだろうか。
ご存じの方、どうか教えてください。

7月
16
¥108

この時期どうしてもバンドレッスン漬けになるのだが、その移動中ほんの少し時間が有ったのでぶっくおふに寄った。
気軽に時間つぶしできるような本を、と思ったのだが、目に留まったのが 「脳と仮想」茂木健一郎 著 新潮文庫 。

パラパラとめくって冒頭の、
”「サンタクロースは存在するか?」この問いほど重要な問いはこの世界に存在しないという思いが、私を不意打ちした。”
が、私の何かを刺激し、
”小林(註 小林秀雄)が、それほどまでにとらわれていた問題とは、物質である脳に、いかにして様々な主観的体験に満ちた私たちの心が宿るのかという、いわゆる「心脳問題」だったのである。”
まで数ページ進んだところで思わずレジまで動いた。108円也。
車にもどってから気が付いた。お店に入って2分弱。あぁ時間つぶしにはならなかった!

少し気になることがあって、まずいくつかの読書レビューをネットで探し読んだ。概して「なるほど」という感想と「全然判らん」という感想に別れるようだ。
「なるほど」タイプは、感覚的に共感する、な感じ。「判らん」は「難しくて判らん」と「論拠を示せ」の二通り。
うん。予想通り。

コンクール前でなかなか時間が取れないが、早く読みたい。
そして「論拠」を見つけたい。まさしく「音楽」は脳内の仮想だと思うので。

5月
26
BAND設立

一つ始動した。
ENSEMBLE SPIRITUS
アマチュア吹奏楽団設立である。
先日第1回目の練習があった。
企画してくれた人、動いてくれた人、集まってくれた人、サポートしていただける人達、たくさんの皆さんに感謝。

ようやく。
ささやかな一歩。
実は様々な期待をしてる。
課題山盛りであはるがなんとエキサイティングなことか。
蒔いた種をうまく育てる事に傾注したい。
「ごっこ」にしないためにも。

本番は9月だ。

8月
07
怒りの夢

誰かと何かを差し向かいで話し込んでいる。BAND(吹奏楽)絡みの話しだったと思う。
音楽の扱い方だったか運営のポリシーだったか、内容は詳しく覚えていないのだけれど相手が気に触ることを言ったのだと思う。
真剣に心の底から怒りを感じ、怒りの大きさではっきりと目が覚めた。覚めてからも怒りで震えていた。
昨晩寝入りばなのことだ。

特にこの数年、夏の時期、自分の非力に対して悔しさを刻み、何とかしてそこから抜け出す事に傾注してきたつもり。
今年もやはりその悔しさは感じたのだが、どうやら一つ段階が進んだような気がする。悔しさと同じかそれ以上の怒りに似た感情が生まれてきたのかも知れない。

先の夢の話しは、その直前に考えていた事に由来してたのだろう。つまり吹奏楽コンクールの在り方とその審査に求められる内容について。

それは例えば、数年前トモダチ作戦で希望の光を乗せて東北の空を飛び回ってたヘリが墜ちたことに対する短絡的な感情とか、今でも汚染水が溢れ続けているのに、生活維持するには電気がたくさん要るから動かせ、とか、自分ちの周りでは止めろ、といったりするのと同じレベルのモノとして自分は捉えてるみたいだ。

もちろん全てがおかしな事になっているのではない。誠実に賢明に物事が進んでいることも少なくないはずだ。
しかし、この大きなうねりは止められないのか。加速していくだけなのか。そのうち呑み込まれてしまうのか。

本日は愛知県大会2日目。
私と関わった団体も出演する。ぜひ舞台の上で音楽の愉しみや幸せを感じることのできる演奏をと、願う。

8月
03
読み返す

手元にある吹奏楽用メソード(各楽器用、合奏用)を片っ端から読み直している。
いろいろ読み落としがあるなぁ、と気付く。

こんなところにこんな事書いてあるじゃん。見落としてたぁ。が多い。
そうか、この意味ようやく判ったぁ。も多い。

「楽譜」とか「音符」とかだけに目に行きがちだけど、そこから何かを読み取ること。
メソードだって全く同じだな。一個の全音符の意味や背景を見抜き、より良く音にすること。

以下はあるメソードに記載されている一文。

音符とは、ある時間のある「高さ」と「長さ」を表したデジタル情報です
〜中略〜
隣接する各音符は一種の点グラフのようなもので、時間的(長さ)にも空間的(高さ)にも不連続にしか記すことが出来ません。
 JBCバンドスタディ 指導書 より

7月
29
吹奏楽コンクール雑感

怒濤の7月が一区切りついた感じ。大変だったなぁ。(この後はまた別の意味で大変だ。)

嫌いだ嫌いだ、と言いながらも、吹奏楽をやるからにはコンクールを避けて通るわけにはいかなくて結局どっぷり浸かっている。そして見誤る。なんだかなぁ…。

今年は、コンクールに向けての練習や本番で起こりうるアクシデントやトラブルの続出だった。良いことも悪いことも。
一つの団体で色々起こっているわけではないけれど、私と何らか関わりのあるそれぞれの団体で次々と起こるから、自分が疫病神だったのではないか、と思い始めている。

部活動としての崩壊、練習時の内容(これはまさに自分の責任部分)、本番時の大きなミス、タイムオーバー、コンクール規定違反、審査員として得点化することの出来ない評価の悩み、自分達が感じる演奏の出来と実際の評価の乖離、などなど。細かいことを上げればまだまだキリが無く。
どれも現実。だからこそ、その中で一つ一つ出来ることを積み上げていくしかないのだろう。

でもやっぱりどうしても、「金」「銀」「銅」「代表」だけでは計りきれない音楽的充実度があるということは強調したい。いや、百歩譲って「活動的充実度」でも良い。
学校吹奏楽は「人を育てる」ことが第一義で、それを楽器の技術習熟度や音楽の完成度を通して評価していくべきだと私は思っている。巷でよく聞かれる「あそこから来た生徒は確かに上手いけど高校では全然続けられないんだよな。どうやらどこ行っても同じ。」みたいになっちゃうのは成果主義に傾きすぎて大切なことを忘れちゃったかぁ、なんて思うわけ。
とはいっても吹奏楽コンクールは音楽演奏のコンクールだから本番での出来が成績順位に直結するのは当然だし、努力の結果目に見える成果や評価が欲しいのも当然だ。そのバンドの背景を演奏から明確に聴き取って点数化することは難しいから、出てきた「音」が最重要であることには間違いない。

しかし。

例えばこんな例。
審査した大会で、ティンパニ4発を横一列に並べている団体があった。演奏方法はマリンバのようにサイドステップを踏みながら、しかもヘッドの真ん中を叩いていた。それではきっと難しいだろうなぁ。他の楽器も同様な事がたくさん見受けられたが、中にはどうやったらそんなに器用に吹けるの、といったような音も出てくる。が、全体の演奏クオリティは決して良くない。いや、はっきり言って悪い。したがって評価としてはどうしても高い点は付けられない。
でもね。そこで演奏している人達の情熱は感じるのですよ。きわめて演奏しにくい方法でそれだけ出来るようになるには大変だったろうな、と。ただ、正しいとされている演奏の仕方を知らなかっただけ。今の世の中、手を伸ばせば正しい情報なんてすぐ手に入れられるからそれこそ努力不足だ、といってしまうことも簡単だけど、言い捨てて「はい、おしまい」ではあまりにも無責任だと。
何より、どう考えても正しくない情報の元で、一生懸命やっている生徒達がそれに気付いたときの落胆を思うと、いまのその情熱だけでも評価してあげたいなぁ、と思うのだが、結局「講評」という点数化できない曖昧なところでフォローするしかない。

例えばこんな例。
長い時間かけて少しずつバンドの状況が良くなってきた。人数も増えメンバー相互の関係がとても良くなって、それに伴って練習の仕方や運営の仕方など高校生としての自主活動が充分成り立っていく良い流れにあった。楽器の技術はまだまだ発展途上だが、たまにとても良い音がして相互の関係が見える音楽的なアンサンブルが出来るようになった。で、結果は「えー、どうしてそうなっちゃうの?」と言いたくなる低い評価。出てきた音の評価だけだとしても私には妥当だとは決して思えないのだが、コンクールである以上それは致し方ない。色々な考え方がある中での審査なのだから。しかしそうなると生徒達は今までやってきた努力を全面否定されたようなとらえ方をしがちだ。音楽的な思考とその表出方法を学び拙いながら表現という領域にたどり着こうとしていた諸君が「認められなかったのだ」とそのプロセスすら自己否定をし始めたとしたらこれほど残念なことはない。

だからこそ「音」の渦から「音楽」をきちんと嗅ぎ分ける力が必要なのだが、私自身全然力及ばずであった。
それは、次々と出てくる結果でわかるはずなのだろうが、始めは、なぜそうなるのか良く判らなかった。

そんな折、あるJAZZユニットを知る。私の中学時の後輩絡みなのだが『中3の姉と小4の弟による小さなJazzユニット「サファリパークDuo」』のことだ。
ユニットの説明といくつか紹介されている演奏動画を見ているうちに自分の中で何かが弾けた。

「自分は大切なものを忘れていた!」

そう、コンクールの魔物に振り回され大切なものを見失ったまま臨んだ当然の帰結としてコンクールの結果が返ってきたのだ。
偉そうなこと言いながら結局「金」「銀」「銅」に振り回されていたんだ。
なんということだ。
もう一度最初からやり直しだな。みんな本当にゴメン。

7月
09
凄まじい

事態に遭遇している。
うん、やはり凄まじいのだと思う。

あまり状況が把握できなかった段階で関わり、ある程度予想はしていたものの知れば知るほど「なにこれ!?」である。
詳細を書きたいと思うのだが、それはもう少し後になるかと。

じっくり書く必要のある内容だと思い、しかし今は連日「ピッチィーッ!」とか「合わせてー!」とか「聞けよっ!」とか「感じろぉーっ!」とかで、思いのほか疲れる。やってる最中はみんな素晴らしく集中してるし疲労感なんて全く感じないけれど、終わった途端、へなへなへなぁーと床に座り込んでしまうくらい。そんな時でも私自身はすこぶる充実してる。

ただ、これだけは今すぐにでも言いたい。

学校吹奏楽は良くも悪くも「教育活動の一環」。そこで体験し感じ身体に浸みたことは一生持って歩く。一生影響する。その大切な始めの瞬間に立ち会うのだから。
全ての吹奏楽部員が音楽の専門家を目指しているわけではない。むしろ目指す人はほんの僅かな一部だろう。しかも、そんな人は将来もっと深く音楽を勉強する機会を持つだろうから、少々の事があっても後々取り返しがきく。
だからこそ、学校吹奏楽の場ではきちんと深い音楽を知らしめ生きる糧としての豊かさを伝えるべきだと思う。アマチュアだからテキトーでよいのではなく、アマチュアだからこそきちんとした物を見せなければ!

そして、それが出来るはずの専門性の高い人達が、「たかが吹奏楽」「たかがアマチュア」と軽く見るのではなく、楽器の奏法やコンクール対策をさらっと示して「出来る出来ないはあなた達の能力次第」で終わってしまうことなく、奏法技術にしろ音楽性にしろ、じっくり「育てる」指向性を持ち、楽器を手にして目を輝かせている生徒達が一生音楽を好きでいてくれるよう真剣に相対するべきなのだと思う。

様々な難しい状況が背景にある事は承知の上。
でも次を育てなければ全てが先細りだ。