カテゴリー: 音
音楽のこと
いよいよ本番。第7回 吹奏楽フェスティバル in NAGAKUTE。
直前の練習で何処まで粘るか。何を粘るか。
いつも悩む。
アマチュアの青少年が目指すべき音楽の喜び。
自分なりに考えることあって、やることある、と思いなんとか実現しようとしているけれど、果たして本当に皆はそれを欲しているのか。
いつも不安になる。
特に今回はいつも以上に悩む。
選曲の難易度と練習時間の足り無さと、もっとこれをしたいあれをしたい何とか伝えたい、という自分自身の気持のせめぎ合い。
両者のバランスは取れているのだろうか。
もちろん、みんなとても真剣で一生懸命だ。
難しいことでも何とか応えようとしてくれる。
痛いほど良く分かる。
だからこそ、私自身の役割がきちんと果たせているかどうか、無性に不安になる。
もっと私に力があったら、もっと簡単にもっと楽に伝え、もっとすんなり実現できるのではないか。
ここに集まった全ての一人一人の中に何か一つでも「やって良かった!」と心から思うことのできるものを残せるか。
そして、聴きに来てくださった方々にそれを伝えることが出来るか。
ふぅーっ…。
さらにもう一度。作戦を練ってみる。
1回目が昨日終了した。
とっても嬉しい誤算で、参加者皆さん練習精度が想像以上に高い。
手強い選曲だったので各団体単独指導も取り入れたりしてみたが、その甲斐あってか目処はつきそうな予感だ。
合奏一発目、毎度の「海を越えた握手」。
随分すっきりとした音が出る。
230人の合奏だよ!
その多さの例は、コンサートバスドラムが5台、スネアが5台、…というと想像できる?
いくつか毎度のポイントを上げながら練習を進めていくと「今年はさらに進化したな」と実感する。
反応が早いのだ。
説明したことがすぐ音で返ってくる。
…曲が慣れているからかも知れないけれど。
「禿げ山」一発目、音が出た瞬間で(といっても数十秒の間)、「こりゃいけそうだ!」と感じる。
ま、さすがに、部分部分でそこそこ苦労するところはあるけれど。(それはまた次の一週間で解決してくれるだろう。)
説明し指示するときちんと音で返ってくる。みんな力は充分にある。
だからついもっともっとと、欲張ってしまう。一つ一つ丁寧にやりたくなる。
みんなには力があるのに充分に引き出せないのであれば、それは全く私の力不足、ということだからな。
でも、圧倒的に時間が足りないと感じる。
限られた時間の中で何処で線を引くか、という苦しい判断を強いられるだろう。
次の練習は半日。
そこで何処まで突き詰められるか。
さらに入念な準備をしなければ。
そして来週の日曜が本番。
長久手町文化の家・森のホール。
無料だけど入場整理券は全て出きってしまったよう。
当日券が出るかどうかその場になってみないと判らないそうです。
でも、是非たくさんの方に演奏を聴いていただきたいと思ってます。
以前お知らせしたように2週間後の1月30日(日)に第7回 吹奏楽フェスティバル in NAGAKUTEが開催される。
例年ならば、一週前の一日、前日の半日、そして本番直前、と3回だけの練習で200人を超える大合奏をするのだが、今回は規模の大きな難曲にチャレンジすることになったこともあり、それぞれ各団体へ事前個別レッスン実施を企画、先週の土曜日まで1回ずつ完了した。
目標や課題を提示しつつ、雰囲気をつかんでもらう練習を心がけた。合同練習までのおさらいを少しでも有意義にしてもらうために。
ただでさえ冬時間で学校の部活動は時間を確保するのが難しい中、単独演奏の練習時間も削って合同演奏のため一生懸命頑張ってくれた。
やはり、一人一人の表情をきちんと見ながら練習を進められるのが良い。大人数だと大雑把にざっくりとしかできないからね。
今週の土曜日には全員が揃った練習。
それまでにさらに頑張ってくれるだろう。どんな練習になるかとても楽しみだ。
そしてすぐその一週間後に本番。
「今回はせっかくだから少し規模の大きい難曲にチャレンジしてみましょうか」という現場サイドからの提案があった。
そのこと自体既に嬉しいし、本番に向けて皆さん一生懸命なのがさらに嬉しい。
皆さんの気持ちに応え、参加した一人一人が音楽の喜びに身を委ね、どっぷりと浸かり、幸せを実感できる演奏にしていきたい。
いつも大変お世話になっている長久手文化の家の演奏会告知です。
名演への招待シリーズ10
アンサンブル・ゼフィロ〜超絶!木管アンサンブルの至芸
【と き】
平成23年1月21日(金曜日) 18:30開場 19:00開演
【ところ】
長久手町文化の家 森のホール
【料 金】
【前 売】一般3,500円、学生1,500円
【当 日】一般4,000円、学生2,000円
アンサンブル・ゼフィロはオーボエ クラリネット ファゴット ホルンで各楽器の奏者2名、合計8名。
珍しいピリオド楽器(古楽器)使用の木管アンサンブル。
古楽器アンサンブルを生で聴く機会はなかなか無いと思います。是非足をお運び下さい。
また、学生向けにゲネを公開できるとのこと。
珍しい古楽器の演奏はもとより、練習の様子はとても良い勉強になると思います。
公開ゲネについての詳細は長久手文化の家に直接お尋ね下さい。
季節。
それぞれの団体やグループの、それぞれのアンサンブル演奏を聴く機会が増える。
で、只、音が並んでいるような演奏に出くわすことが多い。(そもそも音がきちんと並んでいないことも多々。)
タテヨコ、ダイナミクスはそれなりに気を付けてる様子。
でもそれだけなんだな。
聴いていてつまらない。大切なものが伝わってこない。
レッスンもぼちぼちと。
継続したレッスンならば、音楽やアンサンブルの仕組みを説明してからようやく本格的に音楽の作り方とかに移行できるのだけれど。
本来前提であるべき音楽やアンサンブルの楽しみを理解させるのに時間がかかる事が多いから、どうしても単発のレッスンだと時間切れ中途半端になってしまう。
そのままコンテスト本番に突入するときっと良い結果にはならないだろう。
そうすると結果に落胆し、また大切なことを見失いそうだ。
このやり方、即効性という意味では失格だとおもう。
確かに、今の世相では流行らないだろうと思う。
しかし一方では、継続したレッスンを通して、少しずつ音楽やアンサンブルの本質を感じながら演奏できるようになった人たちも確実にいる。
テクニックでは未完成でも、始めから終わりまで滞りなくスムーズに運ぶ演奏が出来るようになった人たちもいる。
この感覚、時間と手間はかかるけれど一度覚えたら決して忘れないはず。
そしたらそれが文字通りその人の「力」になるんだけどね。
アンコンに向けて頑張っている人たちがみんながそうやって音楽への感覚を磨く方向を向いたら、もっと居心地が良くなると思うんだけどなぁ。
残念ながら現実は厳しい。
もっと伝えなきゃ、と思い、伝え方難しいなぁ、と思い、なかなか理解してもらえないなぁ、と思い、一筋縄ではいかないなぁ、と弱気になる。
でも、諦めないことにする。
一度熾きた火はなんとか保ち続けよう。
来年も。
コンサート、開演前から行われていた中高生の金管アンサンブルクリニックと彼らの公開リハーサルも全て見させていただいていた。
クリニックは、高校生のバリテューバ4重奏と中学生の金管8重奏。
SBBQの5人は楽器を待たず、言葉や動作で通訳を交えながら、基本的な呼吸の練習方法、演奏者相互のコンタクトの取り方、もちろんバランスやフレージングなど、様々な示唆に富むアドバイスがあった。
その後休憩を挟み、彼ら自身の公開リハーサル。
どんなリハーサルをするのか興味津々だったのだが、実際には曲はほとんど合わせず、小一時間ほど5人揃ってバズィングから始め、基本的なウォームアップに終始した。
それは、自分達のため、というよりは、聴講している中高生のために、「トレーニングとはこうやってするんだよ」と、身をもって示しているようだった。
後々考えて、すごい、と思ったことがある。
その後の本番も含めて、無駄な音を一切聞かなかったことだ。
単純なミストーンはもちろん皆無だが、それ以外でも、例えば、一つのパターンが終わったあとに口をほぐすために出しがちな音や、唾を抜く時に出しがちな音も含めて、試し吹きなど不用意な音は一切無い。
ウォームアップ一番最初のバズィングからアンコールの最後の音まで、発音された音全てが必要だから出された音で、しかも全ての音が間違いなく的確なのだ。
このことはある意味テクニカルな事項かも知れない。
ウォームアップはアメリカンスタイルで、パターンとパターンの間の音を出さずにいる時間ですらきちっとコントロールするとてもシステマチックなもののようだ。
しかし、その裏には、やはりそれだけではない何かの存在はあると確信する。
例えば「発音する音に対する責任感」とか「音への惜しみない愛しみ」とか。
いやいや、そんなお硬いモノではなくもっともっと暖かく深いものなんだ。うーん、私の拙い言葉にすると途端に色あせてしまうのが悔しい。
「完璧な技術を身につけたからそれらが可能になった」のではなく「何かを求めていった結果完璧な技術が身についた」というと伝わるかな。
要は、目指しているものが、「言葉では表せない何か。理屈では説明できない何か。」だからなのだろう。そのためのテクニックは必要だが、しかしテクニックは言葉で表せるし理屈で説明できる。先の言葉からすれば目指すべきはそこではない。
彼らの、テクニックのさらにその先にある「説明できない何か」を求める、という揺るぎない基本姿勢が、エル・システマ数々の奇蹟を生んだのだろう。
そこまで考えてようやく、私のアンコール時の涙の不意打ち、という個人的経験は、そのうちのほんの微かな奇蹟の一つに過ぎないのだろうと考えついた。
昨晩のコンサートでのアンコール1曲目。
不覚にもいきなり涙が滲んだ。
内輪ではない演奏会では何十年ぶりだろうか。
終演後、理由を考えた。
「演奏」や「音」とか、「アンコール演奏する前の挨拶」の言葉などを通してそう感じたのでもないように思う。
自分の心の真芯を「何か」によって直撃されたようだった。
敢えて言葉にするなら「優しさ」「愛おしさ」「思いやり」「感謝」のようなものがホールいっぱいに満ち溢れたような感覚、ということなのか。
その感覚は、特に各プレイヤーが各々ソロを取っている間中、続いたように思う。
今も考えているが、やはりいくら考えてもその答えは良く分からないままだ。
一つだけうっすら判るのは、私がパンフレットのコラムにも書いたアヴレウ博士の言葉、
「(音楽は)言葉では表せない何かを示される。理屈では説明できない何かを示される。」
なのだろうということ。
であるならば、感じるしかない、のだな。
上手く説明できないが、核心はここにある。
ご紹介します。
SIMON BOLIVAR BRASS QUINTET
(シモン・ボリバル・ブラス・クインテット)
2010年12月18日 16:30開場 17:00開演
長久手町文化の家 森のホール
前売り 一般¥3000 学生¥1500
問い合わせ先 長久手町文化の家
当日本番に先立って、メンバーによる地元中学や高校の金管アンサンブルの公開レッスン、およびリハーサルの公開もあります。
団体でお申し込みできると思います。長久手町文化の家に直接お問い合わせ下さい。
ここに少しだけ演奏の動画(mp4 4.9M程度)あります。携帯電話でも視聴できるとおもいます。
是非どうぞ。
レッスン。
朝9時半到着で、すぐさま演奏時間を5分以内にするためのカットの相談。検討する時間ももったいなくそのままレッスン突入。
そして50分一コマで休憩無し午前中3つ連続。昼休み15分を挟んで午後4つ連続。ご多分に漏れずレッスン時間延長し少しずつずれ込んでいく。
さすがに最後はしんどかったな。
しかし、とても充実した時間。至福の時間と言っても良い。
アンサンブルによって人と人が繋がることを理解して、にわかに音が変わっていく。音楽の流れが出来る。
何故だか解らないけれど、人の持つ暖かさや豊かさが、発せられた音から滲み出てくる。
突然、テクニックが上達した、なんて事ではない。
楽器始めてまだ一年未満だったりするのだから、音さえうまく出せないことだって数多い。
心のありようが変わったのだ。アンサンブルの仕組みを知ったのだ。
ただそれだけで音が変わる。音楽になる。
その礎となる豊かな心は誰しも遜色なく存在している事の証明だ。
当たり前だが、決して世界の頂点の技術や音楽ではない。比べようもない。
どこにでもある、ありふれた高校吹奏楽部。
名を馳せた有名伝統校ではない。
そんな決して恵まれた環境ではない学校の普通教室に、音楽の本質を見ることが出来るなんて、誰も信じてくれないだろう。
あ、いるかも。そこにいたそれぞれ数人のメンバー達は、今は解らなくても年月が経った後に解るときが来るかも知れないから。
いや、きっと解るときは来るだろう。レッスン中の生き生きとしたキラキラの目がとても印象的だ。
そんなところには世間のフォーカスはまず当たらない。
そんなちっぽけなこと誰も気には留めてくれない。
もちろんTVや新聞の取材が来ることなどあるわけがない。
当事者以外誰も知ることのないまま、がほとんどじゃないかな。
しかし。
そのちっぽけなことの積み重ねが人の幸せを作るのではないか。
そのちっぽけなことこそ、脈々と続く人の営みであり、音を通じて人と繋がることの幸せであり、目一杯自分と向き合って生きていくことなのではないか。
そんなこんなを、どうやって広げていったらいいのか。
昨晩横になってから「出来ないかも知れない」と思ったら悔しくなってほんの少しだけ涙が出た。
その直後だっただけに、みんなの生き生きとした目と心温まる豊かな音に救われた。
ボコボコにダメ出しされて思いっきりへこんでいる生徒ですら、悩んでいる姿が瑞々しかった。
諦めちゃダメ、と言ってくれてるんだと痛いほど感じた。