11月
16
研修2

研修二日目はA-M高校の吹奏楽の実践発表および練習見学だった。

何よりびっくりしたのは年間の予算のこと。
ここは大きなホールでしかも2部制で定期演奏会をやるからその利益が多い。それ以外でも年間何十本の依頼演奏本番(ま、営業ですねぇ)があり、顧問の先生の言葉によれば「儲かってしょうがない」ということ。
で、生徒からの部費徴収は無いらしい。あの活動内容からすると信じられないけれど、そういえば昔からそうだったような気がする。

もちろん学校からの予算も桁違い(普通の吹奏楽部からするとたぶん二桁違い!)で有るそうだ。遠征なども全て学校持ち。すごいな。逆に楽器の個人持ち率は90%を越えている(打楽器以外は全て、くらいの数字じゃないか?)というから、各個人のお金のかけどころが違うだけなのかもしれないけれど。
前日の合唱部事例では、どうしても音楽はお金がかかるから生徒からもだいぶ徴収しています、だったので、伝統と実績のある所とは随分差があるなぁ、という印象だ。

その割には合奏する部屋は昔と何ら変わらなくてとても懐かしかった。音の乱反射防止にパンチカーペット引き詰めてあったり。
150人が音を出すので学校内だけでなく近隣(普通に街中)に向けても騒音対策は必須だと思うけれど、そのあたりはどうしているのだろう?
ほぼ建物一棟が練習場のようではあったが。

練習は、生徒による基礎合奏と、アルメニアンなど何曲か通しで聴かさせていただいた。やはり個々の楽器技量はさすがだな。上手い。このあたりまで目指さなきゃダメだと再認識。
音楽的力量は開発中な感じかな。自発的、積極的な表現と、それをアンサンブルでどう処理するかなどは、どこのバンドに行っても共通の課題のようだ。特に最近は。
午前中の研修で話題になった「日本はこれだけ吹奏楽が盛んでスクールバンドは世界的にもトップレベルにあるのに、なぜか世界に通用するプロの管楽器奏者が生まれない」の答えがそこにあるような気がした。
技術力と表現力がとてもアンバランスだと思った。
残念ながらTSWは全然その域まで達していないので、まだまだひたすら技術を磨かねばなりませぬが…。

いずれにせよ、じわじわじわじわと「おぉ!バンドやりてぇ!」と心から思った二日間の研修だった。
行って良かった。ホントに。

11月
12
研修1

今日は創部3年目にして全国大会出場を果たした名古屋市にある私学の高校合唱部についての実践報告とその学校の練習見学に行ってきた。

顧問は情熱の塊だった。

指導については、「をぉ!すげぇー」と思ったけれどすぐに私も負けてはいないと思い直した。さらに年の差を考えると永遠の23歳はそこそこの良い線だと思う。

怒鳴り散らし、罵倒し、睨み、威嚇する。説明は早口で聞き取れないことも多い。同じ事の繰り返し。
それに必死で食らいついていく生徒。本気で体を動かし声を出す。目一杯の反応をし、変化しようと惜しげもない。情熱の塊の指導者とそれに目一杯応えようとする生徒たち。
ここまで持ってくるのにさぞかし労しただろうよ。でもここまできたらそりゃ全国大会行けるようになるよなぁ、と感じた。

しかも意図的なのか結果的にそうなのかは解らないけれど、政治的にも成功しているとお見受けした。
さらに彼はそのアピールが本当に上手いな。その手法も努力も。

たとえば、今日の研修資料はB4横で70ページにもわたるものだった。初めから全て読むことを考えていない。(他にも紀要のような論文のような資料が2冊あった。研修では全く使わない。)そのボリュームだけで圧倒してくる。この資料を作る労力を考えただけでゾッとする。エコロジーなんてとんでもない。紙の量がすごいのだから。そして研修が始まる前から到底出来そうもないことをやる奴だ、という印象を与えることに成功しているワケだ。

私は自分で言うのもなんだがそういうことは下手だ。見習わなければ。

明日の研修は違う学校のバンドだ。楽しみ。

9月
17
我が身を置き換え

というキーワードで検索した。

どうも「我が身を置き換える」ことが不得手な人が多いように感じたからである。
どうやってそのことを説明し実践させ実感させるか、何かヒントがないかなぁと。

実際には「我が身を置き換えた」結果の記述がたくさんヒットするだけで思うようなものはなかなか見つからない。
まだまだ検索語を変えて再トライする価値はあるだろう。

しかし、一つ興味を引くものを見つけた。
ここ。タイトルに親しみを感じた。まだ全部読んでいないけれど、特にここにあるこれなどは私にとって多くの示唆を含む。今、う〜〜〜んと唸りながら考え込んでいる。いやいやしかしTSWは曹洞宗を背景に持つぞ、とか、宗教なんか考えたこともないくせに、などと思いながら。

リンクご自由にどうぞ、だったので直リンクしました。「風の便り」さん、ありがとうございます。でもケータイでは見づらいかも。(私のでは何とか表示できたけれど…)

さて、話は戻って「我が身を置き換える」。
気のきく人になって欲しい。そのためには「我が身を置き換えて」人の気持ちを理解しようとすることが大切だと思うのだが。

「自分の気持ちをわかってよ!」の前に「あなたの気持ちをわかろうとします!」
それが幸せな音楽やマーチングの第一歩じゃないかな。

9月
13
メダカ(2)

かつては、童謡「めだかの学校」にもうたわれたように、小川にメダカが群れて泳ぐことが見られるのはごく普通だった。

しかし、様々な要因により野生のメダカが各地で減少している。1999年2月には、環境庁(当時)がレッドリストを発表し、その中の絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)(絶滅の危険が増大している種)にメダカを記載した。これにより、メダカは2003年5月に環境省が発表したレッドデータブックに記載され、絶滅危惧種に指定された。

これは、種としてのメダカが日本から絶滅することが危惧されたというよりも、地域ごとに遺伝的に大きな多様性を持った地域個体群の、局所的な絶滅の進行が危惧されたことによる。 メダカの生息水域ごとの遺伝的な違いは詳しく研究されており、遺伝的に近いグループごとにまとめると、北日本集団と南日本集団に大別され、これらは生息している水域ごとに約10種のグループに細分されている。さらに、これらの水域ごとの遺伝的に異なる個体群には、それぞれ相互に異なる環境適応の構造が検出されている。

減少の主な原因は、農薬の使用や生活排水などによる環境の悪化、護岸工事や水路の整備などによる流れの緩やかな小川の減少、繁殖力の強い外来種であるカダヤシとの競合に負けたことなどが挙げられている。また、メダカは水田のような一時的水域に侵入して繁殖する性質が強く、近年の農地改良に伴う用排分離により、用排水路から繁殖時に水田内に進入することが困難になっていることが特に致命的となっており、メダカの繁殖力を著しく削いでいる。そして、この事がカダヤシとの競合をさらに激しくしてメダカを窮地に追いやっていることも指摘されている。

皮肉なことに、絶滅危惧種に指定されたことは、メダカの遺伝的多様性を減少させ、遺伝子汚染を起こさせる引き金の一つとなっている。 絶滅危惧を指摘されたことで、にわかに保護熱が高まった結果、遺伝的な違いなどへの配慮をせずにメダカ池やビオトープ池を作り、誤って本来その地域に放流すべきでない他の地域産のメダカや、観賞魚として品種改良を施された飼育品種であるヒメダカやシロメダカを放流した例が多数ある。ひどいところでは、誤ってカダヤシをメダカのいる池に放流してしまった例もある。これらは、明らかに本来の遺伝的集団の破壊行為である。そのため、誤った知識に基づいてメダカを放流するのは、喜ばしいこととは言えない。

また、近年では発光遺伝子を持った「光るメダカ」などが台湾などから輸入され一部の業者で販売されているが、これは明らかな人工操作であり、これらが放流されてしまうことでの遺伝子汚染が危惧されており、現在販売を取り締まっている。

2007年8月のレッドリスト見直しにより、絶滅危惧II類(VU)の指定が「メダカ北日本集団(Oryzias latipes subsp.)」と「メダカ南日本集団(Oryzias latipes latipes)」の2つに分けて記載された。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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たかがメダカ。
されどメダカ。

本来あるべき(完成された)ものが無くなり、人為的に作られた(不完全な)物に取って代わっていく。

時代の流れ。
そんな簡単な言葉で片付けて良いの?

本来あるべきもの。あるべき姿。すなわち本質。
我々の本質って何だろう?
吹奏楽って?
音楽って?
高校生って?
部活動って?
教育って?

==かつては、童謡「めだかの学校」にもうたわれたように、小川にメダカが群れて泳ぐことが見られるのはごく普通だった。==

4月
15
禁止事項

自分を守るために(やむなく?)他人を攻撃すること。
他の世界を見ないで自分の尺度だけで判断すること。
長いものに巻かれること。
逆に支配すべき者と思うこと。
世間体を気にすること。
変化を求めないこと。

とりあえずこれくらいで、だいぶ変わると思う。

4月
12
思うこと

私は大雑把でずぼらだと自分で思う。
また、大概のことは容認し事を荒立てないようにすることは出来ると思っている。いや、荒立てることがめんどくさいと思うことの方が多い。それではダメだと思うからこそ神経を尖らせなければと努力が必要だ。だから私が色々文句を言うのは申し訳ないと思っていた。

そんな私の我慢が一杯になりつつある。
一つ一つ事柄を上げることはしない。しかし、細かなことからとても大きな重要なことまで「それじゃダメでしょう!」「これで大丈夫なの?」「何責任転嫁してるんだよ!」「悪いのはあなたでしょ!」…。

良くこれで成り立っているなぁと感心する。
これを組織とは呼べない。系統立てた計画は全く見えてこない。
少数の者がパワープレイをして何とか動いているだけに過ぎないよう。
あらゆる部署で。
地域性とか風土とか伝統とか、そんなもので片付けられるような簡単なことではないと思う。

それを感じているのは私だけではないが、そういった人は私のような外様なマイノリティっぽい。中に踏み込めないでいて、あるいは踏み込んでいって結局はじき出されるか自ら出てしまう。

財産は人。人と人の連携。こういったところではそれが顕著なはずであるが、ここではそれがないがしろにされたままだ。
心ある人たちも、いつしか結局流されていき、そのうち流されていることさえ見失っていく。

今日、それをじっと見抜いている事を発見した。
見抜いている人たちよ、声を上げるべきだ。「私たちの権利を返せ!」と。

4月
04
新年度

がいよいよ始まった。
会議の連続。準備準備。年度初めはしょうがないね。
でも、練習も大切。バランスが難しい。内緒は内緒だよ。

私自身の今年度体制詳細はまだ不明な事多し。少し注文を出したけれどそれがどのように反映されるか未確認。よりTSWの活動が円滑になるような方向を期待しているのだが。
中学校顧問の先生の移動などもあり、私自身が積極的に動くことが可能ならば様々な仕掛けが出来そうな気配もある。そのあたりを理解していただける事を願う。

TSWは今のところ総じて順調。個々には問題が山積しているだろうがそれはいつものこと。
皆の気持ちを前向きに、元気を持って毎日の活動をしたいと思っている。
皆の積極的な気持ちを期待している。

定期演奏会前からずっと参加してくれている新入生の諸君。この通常より一ヶ月早い参加はとても有効だと思う。素晴らしいね。だって、もう既に名前を覚えて、一緒に本番乗って、一緒に遊んで…。もずっと一緒にやってきたような気がするよ。
もちろんまだ今来ていない新入生諸君がたくさんいることを期待する。
是非、一人一人連れてきて人数倍増を目指しましょう!

3月
26
守備範囲

守備範囲外で起こる諸問題についてはとてもおおらか。(言い方変えれば、無関心。)
しかしひとたびその問題が自分の守備範囲に近づいてくると、いかに侵入を防ぐかに苦心し騒ぎだす。
さらに、守備範囲に問題が入り込んでしまうと問題の本質的解決ではなく、自分への被害を如何に少なくするかに奔走する。

そんなように見受けられる。
結局は責任転嫁だよ。
「自分は悪くないもん!」「自分のことはちゃんとやったもん!」「悪いのは○○だもんね!」
って言ってるように聞こえる。
それが保身に走る姿として見えてしまって、つまるところ「嘘」にしか見えなくなっちゃうんだ。

内と外の区別が私の想像以上に強いのかも知れない。
閉鎖的っていうんだろうけれど。
その場合、もちろん私の位置づけは外だろう。

打ち崩すことは出来るのだろうか。
そんな力があるのだろうか。

ん? そんなことで迷ってる場合じゃない。
信じるんだよな、無条件に。

3月
25
命を賭ける

では、大げさかな。

でなければ、

生活を賭ける。

か。

そこまでやって「あほくさー」って思うけれどな。
でも、そう思い、そうやってしまうことについて、自分に嘘偽りはない。

とりあえず、「だから、それで良い」と思うことにする。
「言うべき事は言う」…そう教えたし。

それを自分の中で昇華できて糧になるなら、賭に負けてもしょうがない?
いや、絶対負けない。
なぜなら、私には守るべき者がいる。

3月
25
何故?

ミスは何処?
私?
それとも特定の個人?
組織?

なのに何故、イヤな思いをしなければならないのが被害の当事者になるの?
何故、さも、あなた達のせい、のような発言をする?
立場が真逆だろ?

信じられないね。
本当にしかるべきところへ訴えて良いことだと思う。
やってみる?手助けするよ。

こういうのを内部告発というのかぁ…。