3月
22
TSWの

諸君へ。

ありがとう。
この一言に尽きる。

言うまでもなく私は我が儘だ。
私は楽をしたい。
私は良い思いをしたい。
私は幸せでありたい。

しかし、それ以上に強い思いがある。
主体が入れ替わっても全く同等に同じ思いをしたい、ということだ。
すなわち、「私」と「あなた」が入れ替わっても同じでなければならない、と思っている。
なぜなら、皆が同じように楽をし、良い思いをし、幸せになることが自分にとって大切だから。

言い換えるならば、周りみんなが幸せであることが自分の幸せである、と思っている。
個人の幸せを突き詰めていくと全体の幸せを考えなければ成り立たない、と思っている。

1人で生きているのではない。自分以外の全ての人と関わっているのだ。
そう、あのトレジャリーオブスケールの表紙の絵だ。
私の根底をなすアンサンブルの概念。
 

今でも強烈な印象に残っているインタビュー。
20世紀末の頃、毎朝著名な人と対談し、最後に「21世紀に向けてひと言」を語ってもらうシリーズがあった。
大指揮者のインタビューだったある日、同じように「21世紀に向けてひと言」と促されて、にこにこしながらその大指揮者は「個人の幸せを追求できる世界にしたい」と語った。
直後、二人いたアナウンサーが同時に、しかも、ものすごく不審そうに「そんなことになったらみんな好き勝手し放題の無法な世界になりませんか?」と反論した。
大指揮者は不思議そうに「世界中のすべての人が自分は幸せだ、と感じる世界が一番幸せだと思いますが?」とゆっくり応えた。

私はこのとき、ああ、やっぱりこの人は大指揮者だ。音楽の理想の世界をそのまま純粋に語っている、と思うと同時に、一般的にはなかなか理解されない事なのかも知れない、と感じたのだった。

オーケストラの指揮者とは絶対的な存在で、指揮の指示のとおり団員の有無を言わさず従わさせ、それでオーケストラの秩序が保たれていると考えられているのだろう。
実際は、オーケストラの団員は国籍も性別も個性も音楽も違う一人一人の強烈な個であって、誰かに絶対的に従う、なんてことを一番嫌がる人達の集まりだ。だからオーケストラはある意味とても厄介な集団なんだ。
しかし、その個が集まり協働して音楽を創る。しかもその瞬間そこにいる団員全ては究極にそれぞれ自分の幸せ(理想の音楽)を願うのだ。それが集まると全体としてとてつもない幸せの塊である「音楽」を創出することになっていく。

ただし、それには条件が必要だ。
他者の幸せを願う(自分とは異なった価値観を受け入れ寄り添う)気持だ。
自分以外への思いやりに溢れた者のみが、自分の幸せを享受できる
自分が自分の幸せを願って参加し、しかし同時に他者の幸せを受け入れ混じり合い、全体として大きな幸せを作り上げる。
その大指揮者は、そんなことを言いたかったのだろうと思う。

しかし、そのアナウンサーは最後までそれを理解できなかった。
個人の我が儘を抑制しなければ全体は成り立たない、と。

 

私はTSWでそんな音楽を作りたかった。
だから、他者への思いやりに欠ける行動に対しては厳しくした。
また、自分自身のやるべき事をやらなかったり、自暴自棄だったり無責任だったりしたときも厳しくした。自分の幸せを放棄しているように見えたから。
その意味がなかなか理解できない時、みんなは随分苦しんだに違いない。

そして、区切りになった。
自分の足で歩いて自分の幸せを見つける旅に出る準備は整っただろうか。
自分の幸せ(価値観)を受け入れてもらうこと=他人の幸せ(価値観)を受け入れること。
常に立場を入れ替える事が出来ればよい。そして対話だ。ただそれだけだ。

自分の道は一人一人皆違う。しかし前進することが希望であることを知っていれば、その道は苦痛ではない。
さらに、その事を知っている人達がすぐ身近にいるはずだ。何かあったら頼る事も出来る。

そんな事どもをひっくるめたのが、TSW-NGOスピリッツだ。
理解しようとし、引き継ごうとしている諸君。
心の底からありがとう。

そして…。

いつも心に音楽を!

3月
21
長い

1日だった。そして素晴らしい1日だった。

迂闊にも3連休初日だということを失念していた。
「日進JC-岡崎IC 渋滞20km 100分」と表示されているのを見て「うぉ〜、間に合いっこ無い!」
ルートを変え走りながら、もしもの為に次の手を考える。おそらく同様にこの渋滞にはまっている他のスタッフと連絡を取りながら。
結局、到着はマーチングの通しリハが始まった直後だった。なんとかギリギリ間に合ったようだ。

最後のダメ出しをする。さらに舞台転換練習をし、3部、2部、1部と最後の通しをする。
昨日も感じたが、「これだったら本番楽しみだな」という大きな予感がする。

開場、1ベルが鳴り、呼び込みのカゲアナが入り、イタツキし、本ベルが鳴る。
1部の3曲。
決して充分な練習時間を確保できなかった。この本番のためにほんの数回しか合奏できなかった曲もある。その割には難易度の高い曲が並んでいる。

しかし、所々一瞬ではあるが素晴らしい音がする。
そしてなにより大切なこと、音楽はどこも滞っていない。

車にたとえると、オンボロだけど、とりあえず道を走って目的地まで運んでくれる。だから愉快に楽しくドライブを楽しめる。乗っている人はみんなで歌い、踊り、話し、景色を楽しみ、人の繋がりを幸せに思う。そんな演奏になった。

いくら超高級で立派な車でも道を走れなかったらドライブの楽しみは不可能だ。

2部、ドリル、とステージが進むにつれ、それはさらに確実になる。

3部になり中学生の皆さんとの合同ステージ。
「普段の練習はなかなか出てこないのに、この合同ステージは出たいし、練習もフル参加するんですよ、そんな生徒もいるんです。」と終演後中学校の顧問の先生からお聞きした。それだけ喜んでもらえている、ということで、嬉しい限りだ。
みんなとても良い顔で輝いている。笑顔が溢れる。

さらにアンコールになるとあちこちで目を腫らしながら演奏している。
音楽の喜び。人と繋がる喜び。

どうだ!まいったか!いいだろ!
 

そして、撤収。
楽器の戻し。
その後。

私が関わりだしたときから比べものにならない発展をしている。
必ず出来る。出来ると信じることから始まる。

出来るようになろうとし、必死にもがいているときは、端から見たら不憫でたまらないだろうが、そこで手助けをすることは手足をもぎ取ることになるから、じっと我慢し、出来ることを信じ、待ち続けること。
私がしたことはそれだけだ。信じて待つ。

途中で逃げたら絶対に解らない!

その結果、幸せでキラキラ輝く笑顔で溢れる素敵な演奏会になった。
 

様々な立場で応援していただいたすべての皆様、本当に有り難うございました。
何か少しでも大切なものを残せたかな、という実感はあります。
1人1人の中に確実に種を植えたと思っています。
さらにそれぞれ芽を出しどんどん伸びて行くことを期待しています。

3月
17
明日から

3連戦。
激戦が予想される。

最終日後半に向けてMAXに持っていく。

自分の集中力はそれなりの自信がある。
しかし一人だけでやるのではないからな。
かつて「音楽は体力だ」と叩き込まれた。
まさにその通りだと思う。

3月
17
雨が上がり

あちこちでハクモクレンが全開だ。
ソメイヨシノの開花予想も、すぐそこまで来ている。

この時期、何故か吹奏楽の定期演奏会が目白押し。
学校が春休みに入った途端、連日あちこちのホールで開催されていく。
一昔前は、学校の一部活が自前の定期演奏会を音楽ホールでやることなんて様々な制約があってとっても難しく、それでも伝統校は演奏会の回数を重ねていて、「いいなぁ、自分たちもやりたいなぁ」と思っていたものだ。

それが今では多くの人が定期演奏会なんてちょいちょいと簡単にできる事だと思っているらしい。
ところがどっこい、みんながそこらじゅうでやるからといって、一つの演奏会を開催する労力は昔も今も全く変わらない。
1つ1つ積み上げていかなければまともな演奏会は極めて難しい。

演奏会は、よく「開演ベルが鳴ったら、もうほぼ終わったも同然。」といわれる。
それだけ準備が大変ということ。
ベルが鳴ってしまったら、あとは「目一杯演奏するだけ」しかないのだ。

目一杯演奏することだって並大抵のことではないのにね…。

演奏が出来る、その状態にいたるまで地道に積み重ねた途方もない沢山の見えない努力があることを決して忘れないで欲しい。
自分では出来なかった事を、誰かが肩代わりしてやってくれているからこそ、ようやく一つの演奏会が開催できるのだ、と。
本番の舞台はそこに乗っている人のためだけにあるのではない。
関わった沢山の人達の思いが凝縮しているのだ。

だからこそ、舞台上では、じぶんの持てる全ての力を出し尽くす必要がある。そのために誰がなんと言おうと必死に準備する必要がある。
入念に準備された大切な舞台を、無配慮な一音で台無しにしないために。
 

泣いても笑っても、演奏会が終わると新しい春が来る。
あと三日。

3月
09
カウントダウン

あと10日ほど。

長かったな。

1300日程度かな。ということなら10日とは約1%弱だ。

単純な日数ではそれほどでもないのだが、その密度は異常に高かった。
だから感覚的には以前の現場より長い期間だったように錯覚する。

時と空間を私と共有した諸君は、今まで経験したことのないような激しい活動にとまどい溺れそうになり苦しかったに違いない。

良かったのか、そうでなかったのか。

吹奏楽の活動ポイントは大きく分けて3つの観点に分けられると思っている。
トレーニングと表現とコミュニケーションだ。
しかも、どれかが独立しているのではなく、三つ巴のようにそれぞれが影響し合ってバランスを取りながら、大きく発展していかねばならない。
さらにもう一つ重要なことは、それらの充分な活動を可能にする環境だ。

もともと三つの要素が決して潤沢ではなく、だから取り巻く環境も脆弱で、しかし、短期間でなんとかせよ、なのだから無理が無理を呼び、様々苦しいのは当然だ。

人を育てることではなく、使うことに終始すると、いつの間にか大切な物を見失い気が付いたときには手遅れになり悲しい悪循環が始まる。まあ、それも長い歴史の中での知恵なのだろうが、それでは明るい未来はあり得ないのではないかと思う。

なんとか流れの中の棒杭のように、在るべき所に在るべき姿のまま留まり、出来れば激流中のカヌーが流れを遡るように進めたかったのだが…。

良かったのか、そうでなかったのか。

あと10日。
そろそろ時間とエネルギーの期限が見えてきたようだが、それでも、
これだけのことをやったぜ!ざまーみろ!
と言ってみせよう。

2月
18
あと約一ヶ月

早いものだ。
どれだけのことが出来たか。
あと一ヶ月でどれだけのことが出来るか。

全く知らなかった状態から関わり始めて4年と少し。
2年目の途中からこのページを書き出した。
記事ナンバーも466を数える。
今、時間だけは沢山有るから少しずつ手を入れながら順番に読み返している。

もともと部活動通信の趣を持ったWIND MESSAGEとして始めたものだから、それに関する記事が多い。
その時々に考え感じた事、伝えたかった事などが丁寧に記録されている。いや、単なる記録ではなく積極的に伝えようとして書いていたんだという事を、読み返して改めて思う。
もっとも、敢えて解りやすく書いていない事も多いからどれだけ伝えることが出来たのかは解らない。もしかしたらその理解されない文章の積み重ねは無意味だったのかも知れない。

しかし、それでも重ねた月日は確実にそこにあった。私自身にとっても大きな意味のある月日だった。その軌跡の記録だ。

TSWの諸君は、あと一ヶ月の間に此処に綴った大量の拙文を初めから順番に読み返してくれると嬉しい。

ここから一番古い月に行き、カレンダーの日付リンクでたどるのが一番良い方法かな。

ここには私がTSWで目指したかった様々な物事が詰まっている。

1月
10
自分の力

大学の推薦入試などの場合、あらかじめ書いた自己推薦文を提出することがある。当然内容の優劣により入試の合否に影響する。
しかし、その内容を本人が書いたかどうかななんてどうやったら判る?
同様に絵画や写真等のコンクールで作者の本人確認はどうするんだろう?

小論文指導と称して、結局教員が全て書いてしまう場合があることを知っている。
高校生弁論大会の原稿を本人ではなく教員が全て書いて優勝した例を知っている。
教員が書いた「書」(書道作品)を、現役高校生として出品し全国コンテストで入賞した例を知っている。

確かに、誰かが肩代わりして上手く事が進んでいけば、首尾上々な気がしてくる。
実績という目に見える成果ができあがる。
助けてもらった者はとりあえず欲しかったモノが手に入る。
助けた者はなんだか優越感に浸れる。

でもね。私はそれでは「生きる力」を育てたことにはならないと考えるのだが。
助けてくれる人がいなくなったらどうする?
助けてもらい簡単に「欲しいモノが手に入る」事に慣れてしまった後に、ハシゴを外されるように助けてくれなくなったらどうする?
 

その点、バンド指導は誤魔化し(本来やるべき人がやらず指導者が肩代わりすること)は効かない。
効かないどころではない。コンクール等では指導者自身が評価の対象になり採点もされる。(このことは本当に特異だ。スポーツでも監督としての評価はあるだろうが、パフォーマー・プレイヤーとしての評価は有り得ない。ましてやその事が勝敗の直接原因にはなりづらい。)
だから常に真剣勝負だ。
内容に対しても。
人に対しても。
特に人に関しては生身の人間同士がぶつかるんだから美しいはずがない。
端から見ているととてもエグイだろうな、と思う。
いたたまれなくなるのかも知れない。

そうすると、困ったことが起こる。特に最近著しい。
自称正義の味方が現れ介入を開始する。
さらに、自称正義の味方は感情に訴えやすいから、世の中が味方につきやすい場合が多い。
味方についてもらい(多くの人に)賛同してもらったと力を得た気になり、自称正義の味方は人助けをしたと大きな優越感に浸る。
双方何らかの結果を得て、首尾上々、と相成るわけだ。

ま、その時はそれで良いのかも知れない。
しかし、結果、手足をもがれたように「生きる力」を得るチャンスを失い、助け無しでは生きていけない自立不能な人をつくることになってしまうと思う。
さらに、最大の問題は、本人がそこに気が付かない、そこに行き着けない事だと思う。

あっ、知らぬが仏、という言葉もあるなぁ。

いつかそれに気が付けば救われるかもしれないが、その時では手遅れの場合も多いだろう。

かくしてまた一つチャンスを失うが、誰かがコントロールできることでもない。そういう定めなのだよ、きっと。神様仏様の思し召し。

1月
07
さて

どうするつもり?
何事もなく物事が進むとお思いか?

超強力形状記憶合金はほぼもとの形に戻ってしまったよう。
一度覚えてしまった勘違い形状を修復するために、常に加え続けていた力が及ばなくなってしまったから、だろう。

ストレスが無くなって喜んでいる者もいるかもね。

そうなってしまう原因は全く違うけれど、ほぼ1年前と変わらない。
しかし、毎日その場にいて持ち得る全てのエネルギーを注ぎ込んで何とか凌いでいった状況とは根本的に違う。

今はその立場ではないし、何より無駄金らしい。
そうそう、私もバイトが忙しいし。

このWIND MESSAGEもなかなか届かない。風向きが悪いのかな。

1月
03
デフレスパイラル

定価の3割引きだな。いや、半額でも良いのかも知れない。

クオリティの本質は求められていないように思う。
だいたい。
そんな感じで。
それっぽければそれで良し。
それで、良いんじゃない?
無理すると、誰も見向きしてくれなくなる。
だから、とりあえず今回はそれで行こうと思う。

みんながみんなそうではないと思うけれど。
無理して高額な商品買って、それを生かせず結局は無駄遣いになるのなら、激安なもので充分なんだよ、きっと。
そして、デフレスパイラルは加速する。
気がついたときには人の心にとって大切な何かを失ってしまうんだろう。

大切なものは割引では買えないし、なによりその価値を見いだすことすら出来なくなって、いっそう、忘れられていくようだ。
でもこれからもずっとそうだとは思わない。なぜならその価値は人類の歴史とともにずっと有り続けているから。見失う場所があり見失った人がいて見失った時代であっても必ず再評価される。それは人には必要だからだ。

大切なものとは、たとえば「心の贅沢」とでも言おうか。
しかし、魯山人を万人が受け入れるわけではないだろう。そんな価値観必要のない人もいるんだ、きっと。

12月
11
パート譜の向こう

言うまでもなく、パート譜とは楽譜だ。しかし、それぞれのパート譜だけではいきなり曲の全体像を掴むのは難しい。
パート譜に書いている全音符一つの裏側に何があるのか?楽譜には本当にただ一つの全音符しか書いていないのだから。

しかし、熟練たる演奏家達は、一度皆で合わせてみたら瞬時にその意味を見抜いていく。
さらに、音を出す瞬間で様々な音を聞き取り、互いに演奏者の様子をうかがいながら、すべての状況を判断し決断し音を出していかなければならない。作曲家の特徴、時代のスタイル、合わせているメンバーの性格によっても判断基準は変わる。
その結果見事に的確で必要不可欠な一つの全音符が実現する。

その裏付けには、それまでの途方もない努力とため込まれた情報量が必要だ。
 

昨日、頼まれて書いた楽譜の音出しに付き合った。久しぶりのプロフェッショナルな音出しの現場はとても有意義だった。
練習も面白かったが、速いピッチで進んでいく練習を眺めながら、「そうだよ、この状態は音楽家にとって当たり前なんだよ。」と思った。「これが出来なきゃ仕事にならない。」

この状態とは、自分の目の前にあるたった一つの全音符から、その音楽の全体像を正確にしかも瞬時に推測し他のメンバーに音として提示し、万が一違っていたら次には訂正が完了する。相手はそのミスをとても寛容に許容する。
その一連の作業はそれぞれが誰に頼ることなく、一言も発せず水面下で行われるから、音楽に詳しくない人が見たところで何が行われているか皆目検討がつかないだろう。
皆で声に出して確認することは本当に肝心なポイントだけ。
 

アンサンブルの意味を良く問う。
如何に、目の前のパート譜から全体を見極め、参加し、一体になるか。
しかし、いきなりその状態になれない。
必要なのは才能ではなく、目指したいと思うこころざしと、日ごろの努力だろうか。少なくとも試行錯誤は必須だろう。