12月
09
慌ただしく

なってきたな。

大概演奏会前ってのはあたふたする物だけれど、現場にいないですべてをオーガナイズするのは大変難しい。

現在はインターネットとかメールとか携帯電話とか便利なツールがたくさんあるから何とかなりそうなものだけれど、それでも苦労することが多い。
実際には、ネットやメールだけだと微妙なニュアンス伝わらなくて、どうしても会って話してみなければ判らないこと多い。作業するにはその場にいないと出来ないし。
今現在のネット社会の限界かな。全員でTV会議でもしたらまた違うんだろうか。

以前、大きなプロジェクトを、全国(北海道、東京、鎌倉、名古屋、岐阜、大阪、兵庫などなど)に散らばる実行委員で準備したことがある。すべては事務局長の私と、ごく数名のメンバーが現場で動き回り、あとはことごとくメール、FAXでのやりとり。ほんのたまに電話。それぞれが会うことはあっても、全員が一堂に会したのはその本番の日一日だけ。元々全く知らない人じゃなかったからかな。少なくとも委員メンバーと私はすべて以前から繋がっていた。
準備2ヶ月間で取り交わしたメールは1400通を越える。しかも1通を原稿用紙に書いたら何十枚という量だったろう。一日仕事から帰ってくると、その大量なメールを読んで文字に溺れないように流れに乗るまでが大変だ。何時間もかかる。
それでも、みんなの思いが強いので、なんとか粘り強く困難な仕事をやり遂げた。私自身は、下手舞台の袖で声を殺して沢山の涙を流した。遠方からの人が多く、終了後も打ち上げをする暇もなく普段の生活に戻っていった。
どこに出しても恥ずかしくない、それぞれが感銘深い我が師の音楽葬だった。
余談だが業者に一切頼まなかったからか、(葬儀屋)専門業界紙で話題になったらしい。取材依頼も来たっけな。

方法は色々あるが、実現するためには条件が整わなければならない。
しかし、出来る!と見込んだら後は最後まで走りきる。
もちろん簡単ではない。自分の見込みと勘と気力だ。
そうしたら終わった後、必ず、振り返って「凄いことをしたんだ」と判るときが来る。

私は今までそうやってきた。
そして今回も。

12月
04
託す

出来ることはすべてしたと思う。
やり残したことがあるとしたら、皆への謝意の表明だ。どれだけしても足りない。
 

何が出てくるか皆目見当がつかないが、出てきたものに出来うる限り応えようと思う。

しかし、出来うる限り…。

どんどん条件は厳しくなっているということも、頭の片隅に置いておいて。
なんせ時間は無い。

裏を返せば、
出来ないことはどうやっても出来ない…。

両肩同時に襲っている壮絶なる50肩と、最近の穴掘り肉体労働で体はぼろぼろ。
無理は全く利かない。

肩代わりして荷物を担いてくれる人がいて、ようやく少し。
それでも今までのようにはいかない。

担いでくれる人がいなかったら…。

託すしかない。

11月
24
事後処理

は、ほぼ完了したと思う。

立場上しておくことは全てこなした。
様々な穴が空かないための手当、手配。
必要な情報の提示。
こちらの意図。
それらを全て受け取ってもらえたかどうかは不明だが。

感情的な部分でも概ね整理済み。
もちろん一粒一粒への想いは数限りなくあるけれど、それはそれ。別のことで考えていけば、と。

そろそろ2本線(必ずしも片方が太い必要はないだろう…)を引く時期かと。だらだらとCodaを引き延ばしても冗長で退屈だ。我々のやっていることは、有線放送のように延々と勝手に音楽が流れ続けるのとは違う。

そして、改めて次が始まるのならそれも良し。そうでなければそれもあり。
馴れ合いだけはご勘弁を。
 

年末ジャンボも発売開始したし。
熊野詣でに行こう。三山フルコースで。

11月
23
日誌の

コメントの裏側。

11月21日のレッスン時に少し詳しい話をしようと思っていた。しかし、練習の内容はそれどころではなく、時間延長してもなお3楽章を一通りレッスンしていくことで精一杯だった。だから、するつもりだった話はしないままレッスンは終わった。

最近は誰もが便利に使うインターネット。特にケータイを巻き込んでブログなるものが発達してる。勘違いが多いが通常これは全世界に向けて公開が前提だ。いつどんな人が覗きに来ても良い。希に自分のブログを知らない人が覗きに来た、と怒る人がいるが、それはファミレスで大声で会話して、見ず知らずの隣の人に聞かれ笑われた、と怒るのと同じだ。怒るような内容を公衆の面前で喋るほうが悪い、と思っている。

出来なかった話をいつ伝えようか、と考えたとき、次は1ヶ月ほど先なんだよな。また同じように話をする時間はないかも知れないなぁ。じゃぁ、その次は?いつ?
みんな何かと忙しいから、なかなか上手くいかないかもね。

手遅れにならなければいいのだけれど、と強く思う。
(私の思っている優先順位と違う場合もあるだろうから「何が手遅れか」は、人によって違うかも。)

何の事やらさっぱり判らないかもね。
でも、今までにたくさんの事例を示してきた。着目点のヒントも、具体的な策も提示した。実際ギリギリのところでなんとか解決できたことも一つや二つではない。
もちろんその1つ1つの事例そのものを見直しても判らないだろう。それは個々の問題だから。
そこで行われた思考の方法やパターンの数々が何かの力にはなるかも知れない。

当たり前だと思っていること、出来たと思っていることは如何なる場合でももろく崩れ去るかもしれない、という想定はしておくべきだ。そして、そんなことにしたくないのならば打てる手は打ち続けるべきだ。
逆に、それで構わないのなら、ここで書いている事は無意味で全く必要はない。
 

このところ続けて書いているWIND MESSAGEの内容は、実は連続している。
そして主語が省略されている場合がある。
対象を明言していない事も多い。
(公衆の面前だからね。)
しかし、風任せとはいえそれなりに重要な発信はしているつもり。
(わかる人が判れば良い、というスタンス。)
 

ということで、誰もが一読して判るようには書いていないのでした。
(自分でも十分承知なんだよ、読んでも良く解らないからアクセス少ないんだって。)
 

譜読みって大切だよな。

11月
22
おあずけ

を喰らった2年の日誌。残念だったね。

判るかな、そういったことの1つ1つが緩んだネジなんだ、ってこと。

 

最後二つを舞台裏で聴いた。(本当はもう一つ前に興味があったんだけど間に合わなかった。少し残念。)
その二つを聴きながら、昨日の練習も思い出しながら、何が出来て何が出来なかったか、どんな要求は妥協できなくて、容認できるのはどんなミスか、少し整理してみた。

そして、舞台裏に座り、素晴らしいサウンドを聴きながら、自分がこだわってどうしても譲れない部分について、見事にスルーしていく演奏なんだと思った。二つとも。

それで、自分は何をしようとしているのか見えてきたような気がした。
そして、「やはり間違っていない」と思った。何故かは判らない。何か、もはっきりしない。
しかし、それは「思った」というより「確信した」に近い。もしかしたら「降りてきた」のかもしれない。

その数時間前、自分達TSWの演奏は自分の中に何かしらハマルものはあったからだろうとは思う。
何度か肩と腕に激痛が走り棒を落としそうになりながらの演奏だったが、落第にはならずに済んだように思う。

ま、いずれにしても信じてきた道をさらに信じて前に進み続けよう、と再確認した。
そして、かけがえのない一粒一粒の宝石たちへ、で締めくくった日誌のコメントを思い返したのだ。
 

−−あっと。2年はおあずけだったね。緩んだネジを締め直したら、またそのうちに。

11月
21
ネジ

今日のTSWレッスンのはじめに、指揮者イスの高さ調整ネジが1つはずれた。
背の高いイスだが、5本足だから1つはずれてもすぐにはこけることなく大事には至らずに済んだ。

先日も、リビングで寝っ転がっていてテーブルの脚と天板を留めるボルトが全く外れているのを発見した。
少しゆるんでいる、ではなく、全く締まっていない。

元々はドライバーやスパナで硬く締めていたはずなのに。

長い時間、少しずつの振動や衝撃が加わり、いつの間にかネジの意味が無いほどまで緩んでしまう。
取れてしまってから気が付く。
ひどい場合は取れたことすら気が付かないまま、もあるだろう。

そういえば、準備室に「修理中」の紙が張ったまま分解バラバラになったイスが放置してあったな。あれはボルトがきちんと締まらないまま使い続け、ついには決定的に壊れたのだろう。
 

だから日頃の点検と手入れは大切なのだ。
緩んだネジがないか。
外れてしまったネジはないか。
大惨事になってからでは遅い。

そのためにはまず、正常な状態がどうなっているのか知っていなければならない。
−−正常な状態がどんなのか、どれくらいの人が知っているのだろう。知ろうとしているのだろう。
  あなたは知ってる?

今現在、正常な状態かどうか常に点検し続けなればならない。
−−点検もなく闇雲になっていないか。人任せになっていないか。
  気合いや気迫だけで解決するような簡単なことではない。正確に見抜く目と頭が要る。

明日も正常な状態が維持できるように手入れをしなければならない。
−−その後に省みることはしているか。やりっ放しになっていないか。
  ダメ出しは辛いから聞く耳持たない?
 

こんな事々を日常的にきちんとやっていないから、ネジは少しずつ緩んでいく。
知らないうちに。
気が付いたときには、元に戻れないくらいあちこちが緩んでいる。
いったん始まると急激に加速し不可逆になった時点で崩壊は決定的だ。
その時期は予想に反してすぐ来る。

困るのは、緩むことに自分は関係ないと思っていること。
さらに困るのは、気が付いても締め直さない人が出てくること。

ま、いいや、めんどくさいし。
こんなもんで大丈夫っしょ。
みんな、そんなもんよ。
とりあえず凌いだし。
まさに alla TOYOK…。

でした、今日の練習。
落ち込むのもキレるのも全く同じ、緩んでいくネジ。

ネジを締めよ!今すぐに!
イスや机は壊れても代替えがきくが、人の場合はそうは簡単にいかない。

11月
18
情けない人達

は相変わらず情けないままのようだ。
1つ1つ事例を挙げるまでもなく。

あんたらこの先々大丈夫かよ!と余計な心配もしたが、これからはそういったこと全てしないと決めた。
そのエネルギーがもったいない。

以前ピュアな関わり方と書いたが、ようやくはっきりとその状態になったと思うので、今までそれを阻害していたところへの遠慮は一切しないことにする。

しかし、その報告は途中経過を含めて、いまだに全くされていないらしい。昨日知った。
なんのこっちゃ。
それが一番ダメでしょ!
私自身がそこに関わるつもりはもう既にないけれど、呆れてモノも言えないとはこのこと。これでは情けない人が増えてしまうよ。

であるからには、本筋に戻り、もう少し体勢を立て直す事をしようか、どうしようか…?
回数と物理的距離はどうしようもないからな。

少なくとも、忘れたり、やらなかったり、落としたり、出さなかったり、のような、より良い物にする執着心の薄れや、他への責任転嫁は何とかした方が良いと思うのだが…。

11月
18
感情移入

ってのはイメージの再構築なんだよな。
知り得た情報を元に、自分の持っている知識知覚(想像も含めて)を総動員しながらなりきること。

本を読んでその状況に入り込む。
映画を見て主人公になりきる。
話を聞いて自分もそこで実体験したような気になる。

如何に、今までの自分の中に無かったものや、未経験のことを、イマジネーションするか。
その力が足りなければ、人の痛みは到底理解できない。だって、自分は痛くないんだもの。

私の50肩の痛みの強烈さは、イマジネーション力の無い50肩未経験の人には絶対理解できないんじゃないかと思う。(厳密に言えば、イマジネーション出来たとしても本当の痛さは判るかどうか疑問だ。自分には痛みはないからね。)

だからへらへら笑って気軽に「頼みますわ」みたいな態度しか出来ないのだとすると、それ以降どうやっても痛みはわかってもらえないのだ、と諦めるしかない。能力の限界かもね。バカの壁というヤツだ。
しかし、それでも意義は大きい。「頼みますわ」と認めたのだから。

イマジネーション無しの音楽は音楽ではない。ただの音だ。

創る側は如何にイマジネーションを誘引するか。
音出す者は楽譜からどれだけのイマジネーションを引き出せるか、そして聴く人に伝えるか。
聴く人は、その一連の流れの中でどこまでイマジネーションを遡れるか。

音はただの物理的振動だ。そこに音楽という付加価値があるのならそれは人のイマジネーションしかない。

大切なモノは、音、そのものだけではないし、また、その瞬間に見て聞いて解って次の瞬間には忘れてしまうような軽薄短小なものでもない。
それらを、きちんと受け手自身が収めるためにはある程度の力量も要求されるから、いくらこちらが頑張っても見逃されてしまうことだってあり得る。しかし、そんなことにめげず目指し続けるしかない。
厳しいのだ。

11月
16
KYU

自分の書いた楽譜が、自分が関わらないところで演奏され、その結果だけを聞く。

たいていの場合、いくつかの場面で「え、そんなこと書いてないはずなのに…」と思うところが出てくる。
また、演奏団体によっては、私自身のイメージとかけ離れた音が出てくる場合もある。

先日数曲の演奏を聴いたのだが、やはりどうも思ったような音は出てこない事が多かったな。
それを聴きながら、まず、「えっ?」と思い、次第に「どうしてかなあ…」と考え、「そうか、楽譜の書き方が悪いんだ」と強く思うことにしたのだ。
とても上手いとされるバンドだから腕はあるはずだもんね。

もともと、ある特殊な場合のために書かれた楽譜の流用なので、ある程度楽譜と演奏のギャップはある事は承知なのだけれど、その音楽的内容を汲み取り「実際に演奏する場合に合わせて解釈し直すことも必要だよな」「でも元譜の音すら出ていない場合もあるしなぁ…」な感じで。
ま、演奏しにくい、とか、意図を読み取りにくいとか、楽譜が悪い事に起因するんだと、自分の勉強にすることにしたんだ。そのおかげで書き直そうと意欲が増えたからそれでOKだ。

もう一つ感じたこと。
自分の指向する音や音楽が、昨日聞いたバンドとは随分違っていることも再確認した。
以前より知ってはいたけれど、よりその傾向が強くなっている。
いや、逆だ。どんどん「普通」のバンドが自分と離れていってしまっているんだ、ということだな。
 

そんな中で、KYUの踊りを見ている人がたまたま近くにいた私に「なんでこの人達はこんなにはじけてるの?楽しそうなの?」って聞いてきた。一番下手側の人達見て。へへ。それどこのバンドだっけ?
「うちの子達もやってたけどさ、どうやってもこんな風に踊れない!」ってさ。

あるバンドはごっそり一列分ほど本番欠席だったみたいだ…!

大変な一日(一部は二日間)だったろうけれど、それぞれ得る物はあったかな。

11月
07
トレーニング

の効果ってのは絶大なんだな。
逃げ出さず自分に負けないトレーニング。
妥協を許さずやり続けるトレーニング。
気の遠くなるような反復練習を繰り返し、ダメ出しにへこたれず延々続けて、いつしか自分の身についた物は決して自分を裏切らない。

いや、気が付いていないかな。考えもつかないだろうと思う。
個人の技量はともかく、アンサンブルの精度は随分高い。「いつの間に?」って感じ。
応えようとしてくれたご褒美だろう。

足りない個人もいるし、技量もおぼつかない事多いけどね。
やらなければならないことは、まだまだ山積している。

何もトレーニングされていなければ到底出来る事ではない。
トレーニングされていたとしても単なる反復だけでは到達しない。
頭で理解できても体が反応しなければ音にあらわれない。

結局、どれだけ頭と体を動かしたか、という結果なのだろう。
そしてきちんと体で覚えたことは、ちょっとやそっとじゃ崩れないんだ、ということがわかった。

夏以降積み上がってきた、というより、夏までに貯めた資産だな、きっと。

今日、久しぶりにTSWのレッスンで音を聴いて感じたこと。
24人であの音を出せるのは、なかなかどうして立派なものだ。
倍の人数いたらもっと…(凄いことになるのに)…。

残念ながらスターはいない。しかし、みんなが1つ1つきちんと輝いて手を取り合っている。
長い年月をかけて積み上げてきた結果だ。

自信を持って。
誇りを持って。
資産を失うな。