5月
10
3D

3Dアート(Three dimension Art)というモノがある。
なんだか訳の判らない絵が描いてあるのだけれど、平行視やら交差視やらという方法で見ると今まで見えなかった物が立体的にくっきり見えてくる不思議なアレ。

やったことがある人はすぐに分かると思う。
一度見えてしまうと、なーるほど、そういうことね、と、さっきまで見えなかったことが嘘なくらいくっきり見えてくるのだが、見えない人はどうやっても見えないのだよね。

一見、たいしたことではないのだけれど、この差は決定的。

見えたか、見えなかったか。
あるいは。
見たか、見なかったか。

次の言葉達に置き換えてみる。

知ったか、知らないか。
理解したか、理解できないままか。
出来たか、出来なかったか。
続けたか、やめたか。
聞いたか、聞かなかったか。
やったか、やらなかったか。
到達したか、到達できなかったか。
合格したか、不合格か。

いくら「つまらないモノだから見えなくたって全然構わないし、そもそも見える意味が判らない」と見ることできない人が言ったとしても、見ることの出来る人にとってその言葉は単なる「空々しい言葉」や「見る事が出来ない可哀想さ」はたまた「見ようとすることを放棄している虚しさ」を感じるだけである。決して見えないことを肯定する気持にはなれないだろうと思う。

それは、見えている人が見えていない人より確実に上位に位置することを意味する。
さらに言えば、見えない人は見えることの意味や意義、見えた結果の推移(言い換えるならば、見える人の気持ち)は決して実感として理解できないのであろう。
一度「見えなくても良い」と考えた人が、見えるようになるのはほとんど不可能だ。偶然何かの拍子に見えることがあったりして、再度「見たい!」と思えば別だが。

最悪なのは本当は見えていないのに「見えた!」と思い込んでいる場合。
勘違いがさらなる勘違いを引き起こし訂正不可能なスパイラルに落ち込んでいく。
本人は気が付いていなくても、見える人からすれば見えたか見えていないかは一目瞭然なのだから、その姿は滑稽で哀れでしかない。
「おいおい、嘘付くのもいい加減にしとけや」になってしまう。

見えたか、見えなかったか。

安心してね。見えないことが即ダメなことでは決してない。
見えないことを、謙虚に認め、「悔しい!」と思い「必ず見たい!」と思うならば、いずれは見えて世界が開けるだろう。
また、1つ見えても、当然次の課題が押し寄せ、再度レベルアップした「見えない」にぶち当たるのだ。
結局はその繰り返し。
そして、見えるようになったことはそれ以降、全てあなたの血となり肉となるのだ。自分のスキルとなってあなた自身に幸せをもたらしてくるのだ。

スウィングガールズ風に言ってみる。
世の中は2種類の人間に分けられる。見えた人見えていない人だ。
 

さて、あなたは音楽の幸せについて、見えているか?見えていないか?

TSW-NGOな人は見えていて欲しいな。
もしくは、絶対見たい!と思って欲しいな。
…私はそれを信じているからこそ、それでも今ここにいる。

4月
29
編成

Fl−3
Ob−1
Fg−1
Cl−7
Sax−5
Trp−4
Hrn−3
Trb−3
Euph−2
Tuba−1
Perc−5

実稼働数35名。
少ないながら、数の上ではようやく普通な編成になった。
ここが出発点。
大切に育てよう。
必ず出来る。
投げない。
めげない。
諦めない。

信じることは、裏切ることよりも辛いかも知れない。
しかし、無条件に信じること。
物事の始まりは信じることから始めたい。
TSW−2009始動する。

4月
28
NMF

名古屋マーチングフェスティバル。
新入生のデビュー。
初々しくて良かったなぁ。
難しいのをよく頑張ったぜ。
舞台の上でライト浴びることってとっても緊張するけど楽しいでしょ?

上級生のステップも良かった。
キレがあって、揃えることの喜びや、高い完成度を求める楽しさが伝わってきた。
言われて、やらされて動くのではなく、自らの意志でステップの一歩を出し、それがみんなと揃う、というTSWの理想が垣間見えた本番だったと思う。
いくつかのアクシデントはあったけど。(それは本番にはつきものだし…。)

さらに、一日中、安心してみんなの行動を見ていられた。
いや「見ていなくても大丈夫、という確信がある」のほうが表現は近いかな。
その安心感は一見何気ないけれど、実はそんなに簡単なことではないんだ。
苦労して積み上げてやっとここまで来たんだから。
私の中で「この状態は他のどこにも劣らない」という自負はある。
みんなはどうかな?

TSWは自立(自律)した集団になってきたと思う。
そろそろ漲る誇りと自信を全面に打ち出そう!

4月
28
13年

も経っている、ということに少なからずショックを受けた。
ついこの間のことだと思っていたのに。
私は永遠の23歳。計算が合わないじゃないか…。

同窓会があったのです。
13年とは、彼ら彼女たちが卒業してから重ねた年数。

にわかには信じられない。
何故かっていうと、会って数分も経たないうちに私の感覚が、みんなが高校生だった当時にタイムスリップするんだ。
話が弾んでくると、まったくその13年前のままな気がしてくる。だからみんな若い若い。

今実際に目の前にいるTSWの現役の人たちと何ら変わらない。

決して、立派になっていないという意味では無く。
私の中のみんなは、新鮮な高校3年間に固定されているかのよう。
 

楽しかった。
そして当時がむしゃらにバンドやっていた私の手法が間違っていなかったんだな、ということを改めて感じることが出来て嬉しかった。
みんな音楽やっていた仲間なんだよ。
音楽が生業になっている人たちが複数いる。
全く音楽と関係ない仕事をしながら、子育てしながら、でも「やっぱり音楽やりたい」って思ってくれているみたい。

それぞれ、きちんと自分の足で自分の道を一歩一歩、歩いていると思った。
それが心の豊かさだと思う。
そして3年間の苦楽を共にした仲間はいつまでたっても色あせない。
あの3年間はやり遂げた者にしか分からない奇蹟なんだな。
限りなく純粋な時間と空間。

いつまでも大切にしたい。

4月
24
14人

の新入部員。
26日の本番に向けて、慣れない踊りを一生懸命に。
随分難しいことやってると思うよ。
しかも、だいぶこなしてると思うよ。

自信を持って!!
その一生懸命さは誰にも負けない!
少々のミスは気にするな!
その一生懸命さと初々しさは正真正銘本物だから。

もし、あと1つ何かを望むとすれば、それは「笑顔」だ。
心から楽しんでいることを表す「笑顔」だ。

必ず出来る。あなた達は出来る。
なぜならあなた達は既にTSWだから。
まだ、その意味に全然気が付いていないだろうけれど。
あなた達は間違いなく既にTSWなのです。

4月
21
先日

廊下で、メンバー同士激しくやり合っているのが聞こえてきた。
漏れ聞こえてくる感じでは、係にお願いをする人と、しかし、そのお願いは筋が違うんじゃないか?という係のやりとりのように見受けられた。雰囲気的には圧倒的に係り優勢で、一人のメンバーが「係に激しく怒られている」状況と言った方が正確なのかもしれない。しばらくの時間続いていた。
私は内心「ニヤニヤ」していたのだが、「もう少し静かにしてください」と注意し、気を利かせてくれた他のメンバーもいた。

必要だからこそ激しいやりとりが日常的に出来て、しかもその状況を冷静に見守る別の人もいる。やっとそこまで進化してきたんだなぁ、と「ニヤニヤ」していたのだ。

その後、日誌にこんな記述があった。

「逃げてばかりじゃ何も進まない」事を教えてもらいました。ありがとうです。

先の激しいやりとりの当人達だと思われる。しかも立場は真逆。
あれだけ激しいやりとりの様子から、この言葉が出てくることは普通結びつかない。

もちろん、この言葉が出てくる背景があるはずで、それを想像すると感動的ですらある。
全体的な流れの中で強く感じたのは、お互いを認めていなければ出来ないこと。そしてさらに重要なのは極めて自然であること。
決して、無理して物を言うのではなく、使命感で行動するのではなく、それぞれが感じ考えたそのものをぶつけ合って関わり合っている。
猜疑心で探り合うこともなく、無意味な気を遣うこともなく、それぞれが思ったまま感じたまま自然体で物を言い、お互いに感じ取り、怒り合い、同感し、さらに感化しあう。

それはビンゴ!なのだよ。

だからあなたたちの表情はとても自然で美しい。真剣な顔、笑う顔、喜ぶ顔、怒りの顔、不思議そうな顔、落ち込んでいる顔でさえ。
なによりアンサンブルとして出てくる音が何もしなくても一つに寄ろうとする。

ここまで来たんだ。
真っ只中にいると、そんなの当たり前と思うだろうが。
実は奇跡に近い。
=ちょっとした言葉の行き違いで感情むき出しの攻撃をするのとは全くの別世界。

大切にしたい。
ほんの少しのことで崩してしまわないように。一生の宝だ。

4月
21
おかえり!

一年近くの旅から戻ってきたね。

本当に待ち遠しかったよ。
「おやっ?」って見上げた瞬間、なみだが込み上げた。

旅に出なければならなかった時は本当に辛かっただろうに。
しかし、状況ができれば必ず戻ってくると、ずっと信じて疑わなかった。
違った状況もできちゃったから、少しだけめげてたけれど。(私が、ね。)
それでも戻ってきてくれた。上っ面じゃない。
信じることの凄さ。

おかえり!
やっぱり今のここはあなたの居場所だよ。
ちゃんと仲間もいる。
音楽やろうね。

おかえり!
今日のA-EでCisがよりはっきり聴こえてきたのはあなたが戻ったから。
音たちが祝福したのですよ。

おかえり!
心の底から!!

4月
10
もう一度

書いてみる。

2009/03/29付け記事をそのまま抜き出して転載

ある意味頭脳戦。
ある意味消耗戦。
みんなが想像するほど私はタフではないし不屈の精神力があるわけでもない。
しかし私のスキルと体が持ちこたえる限り、それが出来る状況がある限り、挑戦は続く。

なにより最高の音楽(音楽の存在とその実現の手法)を皆に伝えたいから。
そして「伝えることが出来た」という自分自身への証明をしたいから。

4月
10
スクールバンド

の指導方針について最近二つの話を聞いた。

その一。

現在ある程度の人数が揃って、地域での演奏活動や演奏以外でも盛んに頑張っている中学校バンドがある。きわだって達者な演奏が出来る訳ではないが、それでも音楽を好きになって経験を豊かにして欲しいという願いを充分感じられるバンドである。スクールバンドとしての役割は十分に果たしていると思う。
しかし、訳あって指導者が代替わりしていく必要があるらしいのだが、その代替わりの条件を少しお聞きした。
・人数を半減させること。
・コンクールまでの時期ですべての出番をキャンセルさせること。
・一つの部屋でひたすら揃って基礎練習をさせること。
等々。

 絶句した。たぶん音楽(管楽器)を専門に勉強してきた人だと思うのだけれど。
それぞれ、
・(下手は要らない!という)人材の切り捨て!
・(余計なことやって悪影響受けたくない!という)喜びの切り捨て!
・(すべて指示通りやれよ!という)個性の切り捨て!
だと思うぞ?
大会の成績はもしかしたら上がるかもしれないけれど、確実に音楽は嫌いになるんじゃないか?
じゃ、誰のための大会の成績なんだろう?
 

その二。

ある中学校バンドはコンクールに出てこない。
ま、色んな考え方があるから、コンクールにこだわるのを嫌う、事もあろうかなとは思う。
しかし、出ない理由を聞いて驚愕した。
・そのメンバーだと決して良い演奏が出来ない(良い成績にならない)から、自分(指導者)のプライドが傷つく。
ことらしい。では、良い演奏が出来るようになるために日ごろ鍛錬するかというと、
・資質がないから教えても無駄。
と思っていらっしゃるらしい。

こちらも音楽を専門に勉強した方と聞いた。
音楽教育って何だろう?
スクールバンドって何だろう?

もちろん、伝え聞いた話なので話半分としたい。
だとしても、あまりにもショックだよ。
音楽やりたいな、と思ってそこに集まってきた生徒達があまりにも不憫だ。しかし、それしか知らない生徒達は音楽とはそういう物だと思うようになり、そしていつの間にか世代が変わり、気がつかないうちに同じ事を繰り返すのだろう。
それが「風土」というものになっていくのだな。

これでは決して文化は育たない。不毛だ。
どれだけ水をまいてもまいても、乾いた大地に即座に吸い込まれて蒸発してしまう。
文化の温暖化は思ったより酷いようだ。
しかもこのあたりはきっとオゾンホールだぞ。

4月
07
貧しさ

私は「音楽」を生業としている。
だから、と言うわけでもないが、まずは自分が「豊か」であるべきだと思っている。
しかも、豊かさとは物質的な意味合いではなく、「気持の有りよう」だと。

また、「豊かさ」の対義として「惨め」や「哀れ」にはなりたくないとも思っている。
何が「惨め」で何が「哀れ」なのかは説明が難しいが、「心の貧しさ」から来る、「優しさ・愛おしさ」「思いやり」「敬う気持」「賢さ」などの欠如した状態、と言えば一番近いか。
だから心の貧しさほど醜いものはないと。

さらに、人の尊厳は決して忘れたくない。
私自身がそれを失った「貧しいもの」と同類にはなりたくない。

「貧しいもの」は「弱いもの」と読み替えて差し支えないかと…。

少なくともその心構えを忘れてはならない。

なぜなら、私は「音楽」を生業としているが、それ以前に「人」でありたいから。