1月
17
JAFRAアワード

今日は幸田町文化振興協会(幸田町民会館)の〜JAFRAアワード受賞記念コンサート〜本番だった。

 『JAFRAアワード』(総務大臣賞)
 この賞は、地域における創造的で文化的な表現活動のための環境づくりに特に功績のあった公立文化施設を顕彰し、全国に広く紹介することにより、公立文化施設のさらなる活性化を図り、美しい心豊かなふるさとづくりの推進に寄与することを目的として、平成16年度から創設されたもので、今年度が4回目の表彰となります。

ほとんどアマチュア寄せ集めの吹奏楽団・合唱団で11月から数回の練習で本番まで持ってくるのは、そこそこ大変。練習回数少ないのに毎回の練習がなかなか積み上がっていかない。
ある意味どうしようもないことは知っているけれど、有料コンサートだから「ま、いいさ」では済まされない。
だから色々な方向から攻めてみた。
一生懸命盛り立てて、励まして、メンタルなイメージで全然音が変わることを示し、アマチュアの良さを出す為に僭越だとは思いながら私の想いを語ってもみた。
少数だけれど、管楽器初心者コースの講師をしているような職業音楽家もいらっしゃるから、本番始まるまで「どうかなぁ?解ってくれたかなぁ、嫌気さしてないかなぁ?」と随分不安だった。

本番は、さしたる事故もなく無事そこそこ良い演奏が出来た、ほっとした、と私は思い感じた。
演奏した皆さんは、というと、沢山の方から、「気持ちが良かった!」「本当に楽しかった!」「ありがとうございました!」とお声をかけていただけた。別の展開を期待したいような声もお聞きした。
合唱の小学生お嬢ちゃんたちから「サインください!」と請われてとまどったりした。
私の想像以上に皆さん楽しんでいただけたようだ。私でもお役に立てたのかな、と嬉しかった。

でもそれは、決して私が何かを「してあげた」のではない。私がみんなに「助けられた」のだと思っている。みんなが少しずつ力を出し、それがいつのまにかとてつもなく大きな力になったのだと思う。お手伝いいただいたリズム隊3人にも大きな力を頂いた。
そしてその背景には「JAFRAアワード受賞」するような文化振興協会の地道な努力があってこそ。
こういったことの積み重ねが文化を育てるのだと思う。

文化なんて今日、明日では変化はほとんど見えない。しかし数年、十数年と重ねていくうちにいつの間にか大切な積み上げが出来て人が育ち文化が育ち地域が豊になる。
今日、いっしょに本番をやった小学生・中学生・高校生は、いつの日か必ず立派になって文化の担い手になるだろう。我々はそれを信じ、持てる力を全て使って、今やるべき事をやる。そのことは、実はとても幸せなことなのだ。
そんなことを再確認できた日だった。

みなさん、ありがとう。

1月
16
準備室

なんだかにぎわう。
TSWの活動中は当たり前なんだけれど、そうでない時も人が来る。
「落ち着く」という人もいる。「居場所」になっているのかな。

人にとって自分の居場所は必要だ。いくつもある必要はないかもしれないけれど。
ほっとする空間と時間。特にここでは活動をギリギリまで攻めていくから、そういったスペースはなおさら要るだろうとは思っている。

で準備室。ある意味その意図を持たせているつもり。賑わうのだからその役割を果たせているのかなぁ。
とはいっても本当はそれで良いのかどうか判らない。
特殊なことかもしれないし、緊急避難的なことかもしれない。

ただ、一番大切なのは人と人の繋がりだよな。
心地よい空間や時間はそれを実現させるための条件と考えておくのが良いのかも。

1月
15
1月の半ば

になってしまった。早い。
ついこの間まで正月だった。

七草(セリ、ナズナ、オギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ)を覚えようとしているうちに、いつの間にか七草粥食べずに終わってしまった。
先日、我が家のすぐ前の田んぼで左義長があったらしく(きっと書き初めを燃やし鏡餅を食べたのだろう)気がついたら、黒く焼けた跡が丸く残っているだけだった。そういえば朝早くからポンポン竹の焼けるような音がしてた日が有ったような。
なんだかなぁ。大切なことを見逃してしまったようでもったいない。
 

そうこうしている間にもいろいろなことがあった。
始業式で今までの掟を破り、TSWも発願文を唱えた。思いのほか反響は大きかったようだ。後から色々声をかけていただいた。
調子に乗って定時制でも。
悪くないね。これからも続けよう。
本番も1つ。
ライオンズクラブのチャリティコンサート。
どうしても直前まで苦しいのは何故だ。最後のチューニングの時間でさえ「よし!!」ってな気分になれない。「なんで??」「昨日やったじゃん!」「さっき出来たじゃん!!」「信じられない!!」ってなことばっかり。
だけど、本番はそれなりに。冷や冷やさせずに最初からやってよ。

「必ず出来る!」という大前提を持ちつつ、油断することなく、諦めることなく、目一杯。
私は毎週末のようにあちこちのバンドでゲネやら本番やら。
TSWは2月1日に長久手文化の家デビュー。
私の地元。恥ずかしいこと出来ないゾ。知り合い沢山呼んでおくかな。(本当は2月1日は特別な日。岐阜の渓流(長良川)解禁日だ。随分行ってないなぁ…。郡上に行きたくなってきたぁ。)

その間をぬって定期演奏会の練習会。卒業式関連の練習。
本当に息つく暇無い。
高いテンションのまま気持ちが維持できるように願いたい。

1月
15
リスク

今までも何度か既出の「生涯学習通信風の便り(第94号)から引用。

  これまでも保育所は、多くの育児書が指摘する通り、「基本的生活習慣」の育成に着目して来た筈です。また、「コミュニケーションの能力」にも注目して来た筈です。しかし、佐藤教諭が報告したとおり、『つらい』、『やだ』、『楽しくない』を連発する子どもが育っているのです。『つらい』、『やだ』、『楽しくない』を連発する子どもにどうしたらマナーや片づけやルールを教えることができるでしょうか?「集中と持続」、「我慢と努力」のできない子どもにものを教えることは基本的に不可能なのです。

言い切ってるな。その通りだとは思うけれど…、しかし。
ここでは「不可能なのです」で済ますことはできない。
これから「集中と持続」「我慢と努力」を体得させる、っていう話ではなく、それ無しで育っちゃった人たちをどうするかっていう話。諦めお手上げして「基本的に不可能」で良いのだったらどんなに楽か。

『つらい』、『やだ』、『楽しくない』を連発する人に対して、「集中と持続」「我慢と努力」のできない人に対して、手を尽くして何かをやり遂げさせなければならない。

ここに居続けていれば、居たいと思っていれば、少しずつでも「集中と持続」「我慢と努力」を手に入れ解決の糸口を見つけることは出来る。みんな少なからずそうやって進化し育っているのだもの。

ここに居続ける、ということですら我慢や努力が要るのだから、とっとと逃げ出したい人に対していったいどんな手があるというのだ?
 

やっぱり、だましだまし何とかやんわり3年間居させて無事卒業まで持って行くことで精一杯なのかな?
だましだまし居続けることが出来る程度の活動内容でとどめておくことが賢明なのかな?
少しでも伸び率多く育てようと躍起になると本末転倒になるのかな?弱いバネに強すぎる力を加えると伸びちゃうからな。一度伸びたら決して元には戻らないし。

深いところまで入り込まず、とりあえずストレス少なくして、何となくハッピーで…、だったらこちらもあまり傷つかない。仕事も気楽だし。なにより大きな問題も発生しない。仮に発生しても「不可能です」でばっさり切って捨てれば良いわけだし。

でも、それじゃまずいでしょ。負のスパイラルが加速するだけだよ。
そう思ってしまったらしょうがない。リスク背負うしか無いんだよね。そう思ってしまった人が。

 …あなた、背負えますか?

1月
05
始動

明日から練習再開。

長期休業の後、最大イベント定期演奏会突入まで休む間もない。
しかもそれまでに多くの本番を抱え、曲数も半端ではない。

TSW皆の衆、準備は良いか?

12月
31
大晦日

に考えた事。

この一年、本当に様々なことがあった。

多くの犠牲を払いつつ一生懸命やった。
しかし。
私のスキルで出来ることは全てした、と思うが、全然歯が立たないことが多かった。
範疇を越えていることばかりだった。
なかなか伝えることが出来なかった。
打つ手が無くどうすることも出来ないことが多かった。
数え切れない失敗をした。
それでも前に進まなければならなかった。
それでも体制は維持しなければならなかった。
眠気と戦う帰り道、SAで途方に暮れる毎日だった。
苦しかった。逃げたかった。

でも、私は今も生きている。
焦燥と後悔と懺悔の山に埋もれながらも。

しかし純粋な沢山の心から無尽蔵なエネルギーを頂き続けている。
ありがたいことです。
だから「生きながらえている」とは言わない。
希望と期待と未来を背負って私は今も生きている。

もうすぐ新しい年になる。

12月
30
親切

何度も話をしたので重複するけれど。
「親切な行い」と「親切な心」の違い。

「親切な行い」を教え、実際にさせることは出来る。そして、それが出来たかどうか検証することが出来る。電車に乗ってしんどそうな人がいたら席を譲ることを教えることはできるし、そして実際にその状況で行動できたかどうか、を評価することも出来る。具体的な行為行動だから。これはもちろん教育の守備範疇であるらしい。

しかし、その行為がどのような動機によって行われたか、は検証が難しい。
上記の状況でも、たまたま偶然に席を立っただけかも知れないし、「何で私が貧乏くじ引かねばならんのだ!」と怒りながらもしぶしぶだったかもしれない。
行為と心は必ずしもシンクロしないものだ。
だから席を譲る親切行為が純粋な「親切心」から行動したかどうか真実は大変わかりづらい。
そもそも「親切心」って何?
この定義すらきちんと説明できないかも知れない。
だから教育によって「親切」な心を持った人にすることは極めて難しいということのようだ。
定義や検証が極めて難しいから。出来ないからやらない、に聞こえるけれど…ね。

もしかしたら宗教とか哲学とかの範疇なのか?とは思う。

このことは、最近マスコミを騒がせた学校の問題で、ワイドショーコメンテーターの「学校って所はきちんと勉強教えていりゃ良いんだよ!」との発言に要約されるのかな。
 

私(私たち)は音楽をやっている。音楽とは音の高さや長さや強さや音色や、他様々な要素の順列組み合わせ以外の何者でもない。当然、理屈は定義できるし、理解したかどうか検証することが出来るが、音楽を理屈で説明しようと思うととても高度な理論が必要で大概辟易する。
にもかかわらず、誰でもそこに人の複雑な心情や言葉では表せない感情などを見いだそうとする。演奏するときも聴くときも。「音」を通して目に見えない心に思いを馳せるのだ。
ドレミがわからなくても、4分の3拍子がわからなくても「今の歌は心にしみるなぁ、故郷が懐かしいなぁ」と…。

その心情はどこから来る?
感情のとらえ方をどうやって知る?
誰が教える?
感性とかセンスとか、つかみ所のない物の言い様で片づけて、本人が勝手に身につけるのを待つしかないものなのか?そんな呑気なことで良いのか?

私の口癖「センスは磨く物だ」。それでは、誰が磨く?誰が磨き方教える?
 

「親切な行い」について1つ1つ例を取って説明し教え示唆する。励まし、やらせて、出来るようにしていく。それは教えることによって出来る。しかし単なる行為の修行である。
さらに大切なのはその修行を重ねて「親切な心」を育むことではないのか。(その事を宗教では悟りというのか。)
教育というからには「教える」事と「育てる」事と両方必要であると思う。
今の世、教えることは学校がやるとして、誰が育てるんだろう?
家庭? 地域? 社会? 学校? 
 

音(音だって随分漠然としている!)を通して、目に見えない心を探ろうとする。
そして、閾下にある意識を顕在化させ認識させ次に繋ぐ。
それが教育の範疇であるかどうか知らない。今のご時勢、学校では難しい気がする。
しかし私は音楽(吹奏楽)を通して何とかしてそんなことをやろうとしているのだと思う。それが出来る状況をTSWでつくりたいのだと思う。
なぜなら私と関わった全てのTSWな人に「親切な行為が出来る」だけではなく「親切な心の持ち主になって欲しい」、すなわち「育って欲しい」と思っているのだもの。

12月
30
日誌より

年末総集編ってワケでもないけれど、いくつか並べてみます。

〜前略
この部活にいていい、いちゃいかんじゃなくて
それは自分できめることじゃないの?
私は自分次第だと思うよ。

==

〜前略
何故、いていい?ってきくの?
すごく悲しくなって、あーもう!!ってなったよ。
「いたいんだ」って自分の心にあるのなら、そのままそれでいいんだよ。って、私は思うな。
何でいるのか、理由はわからなくても、今はわからないけど、ここに「いたいんだ」って思うなら、TSWだよ。
後略〜

==

〜前略
「諦めない事」しょっちゅう大切だ、大切だ、と言われると思う。でも「割り切る事」も大切と言われる。矛盾しているようだけれど、そうでもないと思う。「諦めないために割り切る事」これこそが大切だと思う。
後略〜

==

〜前略
人の心を動かす、心って形が無いのにそれを動かすって、すごいし、不思議だなぁと思った。

==

〜前略
今日は一度だけ、いつも、わぁーってなって失敗のところがピッタリとそろって思わず鳥肌がたって、すごいっていってしまいました。よーく考えれば、その時の自分は「ここでみんな出てくる!」というものすごい確信があったんだろうと思いました。音を出した瞬間、心がぴたっとくっついたかんじでした。アンサンブルかな?
後略〜

==

〜前略
人の音を聴くということ。反応するということ。
普段の生活の中で、最近特に、自分のものさしで物事をみてしまっている。”私の普通がみんなの普通”ではないのに。余裕がない。イライラしてしまう。あたってしまう。何でイライラするのか…。結局自分のやっていることを、間違いだとは思いたくないだけなのか。でもどれが正しいかなんて、わからないのがあたり前で、間違いもすればいい。こわがっていたら前に進めないのに。
十人十色、人それぞれの価値観、考え方がある。でもそんな人たちが集まって1つの音楽をつくる。「私」を持ちつつ、相手の話をきき、冷静にみるようにしたい。
後略〜

決して贔屓目ではなく、ぐんぐんと成長している。
心の中は見えないから、1つ1つは全然目立たないけれど。
素晴らしい!!

12月
28
2008年

のTSW活動は本日終了した。

1年色々あったな。

反省会したら、みんな口をそろえて「大変でした」だって。
当たり前だよ。大変なことしてんだから。
いや、違う。「みんなにとっては大変と感じる事してるんだから。」が正解だな。

みんなにも話したけど、大変なことを見過ごさず真正面から受け止めることが出来るようになったから、よりいっそう大変だった、と感じるんだよ、きっと。今までは大変なことを見て見ぬふりしたり、誰かが肩代わりしてくれていたり、黙って避けていたり、見ないようにしていたから、大変だと思わなかっただけでね。
素直に「大変」を受け止めることが出来るようになった「進歩」だと思えば良い。そして今現在まだTSWにいると言うことは、曲がりなりにもそれを突破してきたんだと、自信を持って良い。それがTSWのプライドだ。

私にとってこの大変さは大学出たてで仕事始めてから、ずっと変わらず共にある。もう慣れっこだ。
しかし、自分で言うのもなんだが、狂気の沙汰だと思うよ。常軌を逸脱しているというか。

前任校の時も思っていたけれど、ここでもこの一年は同じ事思っていたな。「学内で一番勤務時間が長いぞ」と。休日無し。一週間7日間朝から晩まで。月月火水木金金。
一体何のためにやっているのか見失いかけた事一度や二度ではない。
学校のため?生徒のため?地域のため?自分のため?名誉のため?
いや、今だって何のためにやっているのか正直解らない。よくTSWメンバーが「自分って何かわからない」と言うが、そんな事は私だっておんなじよ。
ただ、私は音楽が好きだ。吹奏楽が好きだ。みんなと音楽出来る事が幸せだ。
それだけじゃダメかい?

この狂気の沙汰に取り憑かれて○○年。
また今年も暮れていく。

初代機動戦士ガンダムにホワイトベースという戦艦が出てくる。状況が何となく似てるかな、と思うことがある。
また、銀河英雄伝説という話に、ヤン・ウェンリーという人物が出てくる。かつて「似てる」と言われたことがある!?(ほんとかよ!)
だから、どう?な話だけどさ…。

世間では非正規採用切りで非常に冷たい風が吹いている。
人ごとじゃないぜ。

12月
28
アンコン

結果は敢えて書かないよ。

本番、楽しかった?
アンサンブルできた?
自分のこと言えた?
言えずに悔しかった?
人の話聞けた?
聞けたけど応えられなかった?
メンバーとかけがえのない時間を過ごせた?
私もやりたかった?

もし、いくつかでも「YES!」と答えられたら成功だ。
さらに。次、もっと!と思ってくれたら大成功だ。

一段ずつステップアップをしていく。
そのためにも、少しでも時間を見つけてアンサンブルをし続けよう。