10月
29
今までの中で

一番苦しい時期だと感じている。
メンバーみんなも苦しい思いをしていることだろう。渦中まっただ中にいるのでとにかくそこから逃げ出したい一心に違いない。

しかし、決してただ苦しいだけは無い。
目には見えないが、少しずつ何かが変化し、少しずつ何かが準備されている。「僅かに」でも書いたけど。

きっと新しい局面への陣痛だ。今までもそうやって1つずつステップを登ってきた。歯を食いしばりながら、満身創痍になって登ってきた。

実は私もここ数日めげそうだった。奮い起こす勇気と気力がどうしても見つからなかった。

が、これを書いている今は気持ちに変化がある。変な言い方だが、変化を感じている自分の感覚を信じよう、と思い直している。

みんな、前に進もうとしているのだ。必ず出来るのだ。信じる。

日誌より

〜前略
ここの部活は、たくさんの考え方があると思います。でも、それはただ「あるだけ」です。その考え方が良いとか悪いとかじゃなくて、「あるだけ」。自分の考えを固定しているから、「あるだけ」。いろんな理由がありますが、まだ、誰もたくさんの中の1つの考え方も取りに行けてないな、と思いました。とくに私の場合は、よくがんこって言われます。それは、やっぱり自分の考え方が固定されているからじゃないですか?だから何か他の考えにぶち当たって、嫌だと思うと、絶対逃げてしまっています。でもそれでは他の誰かの考えはいつまでも、ずーーっと取りに行けないままだと思います。
 音楽だって同じだと思います。誰か他の人の音楽を取りに行かないと、1つにはならないんじゃないかと思います。
後略〜

10月
28
相談

悩んだり行き詰まったり、人の毎日は一筋縄では進んでいかない。

そんなときは身近な人に意見を求めたり、ネットを検索しまくったり、本や新聞読んでみたり、何か参考になること無いかな、と藁をもすがる気持ちでさまよう。

しかし、本当に未知の「何か」を探していることは少ないような。
大概の場合、(はっきり自己認識があるかどうかは別にして)あらかじめ自分の中に何かしらの回答があり、自分の回答を裏付けてくれる「何か」探している場合が多いような。

そして、誰かに相談しても自分に「しっくり」くる回答が得られなかった場合、「参考にならなかった」とせっかくの意見を打ち捨ててしまうことがある?
もしかしたら、そこに解決の鍵があるのかもしれないのに、自分の予想していた回答と違うと「私のことを真剣に考えてくれない」「その話意味ないね」と全く耳を貸さない事がある?

もし相談された側だったら、一生懸命悩んで考えた事をこともなげにスルーされたら、悲しくなるどころか腹立たしくなるだろう。
「だったらはじめから相談するなよ!」と。
「お前のために真剣に考えたのに!」と。

自分が持っていない価値観や方策を得るために、他人の知恵に頼っているはずなのにね。
自分の殻を破り、枠を外すことは、エネルギーが要る。そのエネルギーが不足しているからこそ他の力が必要なのだけれど、他を受け入れるエネルギーも必要だと言うことかな。

10月
25
僅かに

動き出したか?

ほんの少しずつ。

形が見えるようになるまで育つにはまだまだ紆余曲折があるだろうが。
勘違いしなければいいが。
少々のことで諦めなければいいが。

じっと見守ろう。

10月
24
見切る

何処で?
何を基準に?

「見切る」の対義語は「粘る」かな?
「粘り」過ぎると「折れる」か?
だとしたら見切らないのもまずいかも?

何処で?
何を基準に?

「見切る」は「諦める」ではないよな?
発展的解決にするためには…?

何処で?
何を基準に?

具合の良い着地点を見つけること。

10月
24
言葉

が通じていないと思う事例が最近多い。
いや以前からそうだったかもしれないが、特に言葉について今まで以上に神経質に考えるようになったのかも。

「通じていない」ことはコミュニケーションがとれないことを意味する。
だいたいのことが通じても、肝心なこと、大切なことが伝わらなかったり、間違って伝わったり、理解できなかったりすれば人の相互理解はとても困難だ。

それでも話が通じないと思われる相手と「たぶんそういうことなのだろう」などと推測しながら話をしなければならないことが良くある。
正確に伝わったか、誤解したか、を常に確認しつつ、もし誤解だろうと思われるのだったら、何処まで遡ってその訂正作業をしなければならないか、どうやったら正確に伝わるか、余計なことまで組み立て無ければならないのでとても苦労する。

たった1つの指示をするだけなのに端的に正確に伝えることが出来ないのは、伝える側のより的確な指示語が発せられないからなのだろうとは思うが、それとは別に受け手側も能力開発も必要だよな。
それは、どこで、誰がやるのかな?日常の中でその都度気がついた人がやるのに違いないのだけれど。

考え過ぎかな。

10月
22
10月25日

この日、bjリーグ(プロバスケットリーグ)の試合前アトラクションの本番が入った。中間試験中というのに練習が続いている。
(タイトルの日にちが違っていた!)

しかし、本来はそれではない本番に出たかった。

マーチングコンテストの東海大会だ。
県大会と同じ名古屋笠寺の日本ガイシホールで行われる。何とか今年は、と欲張っていた。なんと言っても3年計画第3章だったから。普通に考えれば最終章だもの。

でも、次に託す。そして25日に出場する他の団体に託す。
素晴らしいマーチングの活動がもっともっと広がってたくさんのファンを増やし演奏演技がもっと洗練され発展することを。

====

マーチングコンテストは夏のコンクールと比べると出場校数は少ない。
吹奏楽連盟のマーチング趣旨は、それまでのDCIを頂点とするマーチングのスタイルと異なっているから、マーチング専門団体は出場を敬遠する。さらに、音楽ホールの中でしか演奏したくない多くの吹奏楽団体はマーチング全体を「音が荒れるから」「練習場所がないから」などといって取り組みたくない。

それでも愛知県は他県に比べると随分盛り上がっていると思われる。
 
 
N-O高校の演技を見てマーチングの可能性に惹かれた私。
教育素材として、団体行動の訓練として、そしてパフォーマンス・エンターテイメントとして、最高の素材だと思った。
私自身がマーチングの勉強をしっかりやったわけではない。
おもしろそうだから「ちゃんとやれよ」と当時の生徒に指示したら、いつの間にかそいつがマーチングにはまってしまった。ただ、けしかけていただけなのに、いつの間にか他では絶対真似できないスタイルが出来上がっていった。
密かに私の誇りなんだ、あれは。

そんな折、Y先生がいる中学校のバンドの指導にいった。賑やかで明るいバンドだった。しかし音はどちらかというとはちゃめちゃ。それでもみんなで楽しんでいる雰囲気は良く伝わってきた。
いつの間にかマーチングを始めていて、あれよあれよと言う間に全国大会に出ちゃった。部員数は100人を越えすさまじい勢いで他を圧倒した。

今その中学校はこのあたりの吹連マーチングでは最強だ。素晴らしい。

あの頃のマーチング楽しかったな。一緒にいろんなイベントに出た。わいわい合同やった。懐かしい。
でも、やっぱり自分のバンドは苦しかったぜ。こちらの思うようなイメージで動けない。「演技」だけではなく日頃の活動そのものが危なっかしかった。

よく考えると今も昔も苦労していることは変わらない。同じような事で悩み、似た事で苦しんでいる。
目の前にいる生徒達は入れ替わるけれど本質的な事は何も変わらない。

私(我々)がやるべき事は今も昔も同じなんだな、きっと。

信じる事をやり続ける事、信じる道を歩き続ける事、それしかないんだよ、きっと。

やり続ける、歩き続ける、が出来てるってことがその証明なんだよ、きっと。

だから今年の10月25日は、出場する他の団体に私の思いを託す。
次は必ず私たちも仲間に入れてもらえるように頑張るから。

10月
22
日誌より

最近の日誌5連発!全部同じ学年。
 

〜前略

中学の時に使っていた教本「NEMU BAND MEETHOD」の和音のページには「-13.7」と「+2」と「0」という数字が書き込んでありました。
あと、同教本のディリー・トレーニングにアルペッジョという文字を発見。
初めて聞いた数字でもなければ、初めて見た文字でもない。なんて記憶が無くて、なんて教本に対する意識、音楽に対する意識が低いんだろう、と感じました。

後略〜

== 次。

〜前略

SEVENTEEN COME SUNDAY「日曜で17歳」という文字を私は甘く見ていました。
自分がこう吹くというイメージも今日、がらっと変わりました。
家に帰ってたくさん考えました。日曜で17歳になる主人公は、どんな想いをしているのか。
前向きな気持ちと後ろ向きな気持ちが、主人公の表面にでてるのか心の隅にひそんでいるものなのか…。
いろんなイメージがわいてきて音1つ1つがいろんなことを語れると思いました。
明日の本番で私は主人公のたくさんの想いを音に出したいです。
みんながそうだったら、合奏やっていて、「あ、あの子はこういうイメージかっ!!」「私といっしょのイメージか?」そういう疑問がうまれたら、音楽やるって楽しくて最高だと思いました。これが土俵に上がる?

後略〜

== その次。

今日はほーほう音楽祭でした。
私は12時から舞台袖でいろんな準備の手伝いをしました。
でも何をやればいいのか分からなくて全然動けませんでした。
 
〜中略〜
 
今日、できなかったことを、次できるように、今日の事を忘れず、積み上げていかないといけないと思います。
もっともっと、いろんな事に気づけて、行動できる自分になろうと思います。

== も一つ。

〜前略
 
その人のことを考えずに…。
その場、その場で人の気持ちを理解せずに…。
いろいろな人を悲しくする。
最悪な生き物。煩わしい生き物。
 
そんな生き物なのにTSWのメンバーとして扱ってくれてありがとう。

== さらに次。

〜前略
 
私たちは準備不足が多いと思います。
どうしたらいろいんな”準備”ができるのだろうか?
考えが足りない?うーん、それもありそう。
わかってても行動に移せない?そういう人もいそうだね。
なぜわかっているのに行動できないのだろう?自信がないから?
自分がやってもどうせ無駄だと思うから?うーん…。まだまだあるよね。
みんなで考えればたぶん良いやり方あるはず…!
頭フル回転で考えようっっ!!

 
 
ちゃんといろいろ感じ、想い、考えているんだな。今まで見過ごしていたことに気がつく事も大きな変化だ。
何一つ無駄になることはなく1つ1つが自分の糧になっていく。
さらに日誌に書くだけじゃなく、それが何かの具体的な動きとなって表に現れてくると良いなぁ。

もう少し待ってみるかね。

10月
20
ロミオとジュリエット

レオナルド・ディカプリオのロミオとジュリエットを見ている。
日本語吹き替えで見てるし、原作もきちんと読んだこと無いから確信はないが、全編シェイクスピアの原作どおりの(あるいは原作に近い?)台詞なのではないか?

何度か繰り返して見ているうちに、言葉の持つ計り知れない力を再認識し、改めて言葉について考えている。
映画の中で後から後からこれでもかこれでもか、と実にたくさんの言葉が紡ぎ出されてくる。しかも役に関係なく誰の言葉も美しい。シェイクスピアなのだから当たり前か。
実生活で話すには少し現実離れしているかもしれないがとにかく美しいと思う。一つ一つ暗唱して、もし日常で使える場面があったら使ってみたい衝動に駆られる。

言葉の豊かさ、大切だ。

決して流行言葉の是非ではない。語彙の豊富さのことを豊かさ、と言っているつもり。

みんなは、今まで感じたことの無いような気持ちになったとき、今まで見たことの無いような景色を見て感動したとき、うれしいことも楽しいことも悲しいことも悩めることも、自分気持ちに変化が起きたときにそれをあらわし人に伝える言葉が見つからないことが多すぎないか?
「なんだか良く説明できなくて判らないんですが…」
「こころには何かあるんですが言葉に出来ません…」
「もやもやしてイライラします…」
そのものずばり当てはまる言葉はなかなか見つからない。

そりゃそうだ。それが出来たらみんなコピーライターになれるゾ。

それでも、少しでも近い表現になるように言葉を考え、紡ぎ、話してみる。上手く伝わらなかったりニュアンスが違うならまた工夫し違う言い回しを考える。
また、会話はリアルタイムだから、タイミングを逃すと話題から遅れてしまうこともあり、出来るだけちょうど良いタイミングで適切な言葉を選ぶ必要もある。

いまTSWでは、適切に動き適切に声を出すことが出来ない人が多いように感じる。
言葉が見つからないのか、見つけても言葉が適切かどうか判断できないのか、と言うようなことも原因かも?

ディカプリオのロミオとジュッリエットを、この台詞「次自分で使ってやろう」「この言い回し覚えたいな」と思い覚えながら見てみると良い。具体的な言葉や言い回しが自分の糧になっていく。

もちろんこの映画だけでなく身近にあるいろいろなことが全てお手本だ。言葉だけでなく、考え方や、行動や、もしかしたら生き方も。

そうやって自分の五感全て使って自分の中に宝物を取り込んでいく。
良い景色を見、良い香りをかぎ、素晴らしい音を聞き、旨いものを食い、手触りの良いものを触る。良い本を読み、良い絵や映画を見、世の中の音に耳を澄ます。
たまには嫌なものにも触れ(好んで触れることもないだろうが)、「良いもの」にあらためて感謝する。

そうやって言葉の型や動きの型をどんどん自分の引き出しに取り込み整理していく、そして活用する、でいきたい。
シェイクスピアの台詞がおもしろ半分でも良いから日常の友達同士の会話に出てくるようになると少し楽しい気がする。

10月
19
ほーほう

音楽祭だった。

「ほーほう」とは「宝豊」(宝飯豊川)か。

この本番に来るまでも苦しかったな。
こんなに苦しい思いをするなら、1人1人レッスンして有無を言わさずこちらの言うとおりに演奏させる方がよっぽど楽だと思う。
いつか「よく我慢できますねぇ」と感心されたこともある。
そう言えば「じっと待つ忍耐力はどうやっても真似できません」と言われたこともあるのを思い出した。

自分にとっては当たり前のつもり。自分の力で這い上がってこなければ感動も薄いでしょ。お手軽に手伝ってもらって何となく上手く行っても大切なことは解らないよ。

本番はどうだったか?全体としては?自分のパートとしては?自分としては?それぞれの立場でそれぞれのレベルで感じることや考えるべき事は違うだろう。色んな立場から様々な思いをぶつけ合って欲しい。

周りから聞こえてくる声は、さほど悪い物ではなかった。
「少しずつ上手くなってるじゃん」
「仕事や動きも素早くなってるし」
「案外今日の演奏は良かったんじゃ?」
などなど。

だが。
やはり動けないことが多い。行動を起こす前にすくんでしまう感じ。思考が止まっているんだろうか?
後から聞くと頭の中ではそこそこ問題を感じてはいるみたい。だったら条件反射的にピキピキ体を動かせばいいだけだと思うのだが。

そこが全ての課題解決の根源だ。
どうやって乗り越えていこうか。

10月
17
土俵

少し前に、ここ「音楽祭」という記事で、
「土俵に上がらなければ相撲は取れない。早く上がってこい。」
と書いた。  
 
もしかしたら、何とかして土俵に上がっても上がったとたんこてんぱんにやっつけられてしまいそうなイメージを持ってしまったか?
もしそうだとしたら、土俵に上がることはとっても恐ろしい事に感じてしまうだろうよ。誰だって打ちのめされる為だけにそんな所に上りたくない。
そう思えば、気持ちが沈み、足がすくむ。全ての物が自分を攻撃してくるように感じ、ただ逃げたくなる。

私が言っているのは全く反対なんだがな。
土俵の上は別世界。上がればそこに別天地があるんだ。想像力が豊かであれば、その土俵がどれだけすばらしい場所か判ってもらえるのだが。

そこを目指せないのだとしたら、理由は大きく二つだと思う。
一つめは、見たことも無いその場所を「素晴らしい場所」だと信じられないこと。
二つはめ、「素晴らしい場所である事は判っているけれどそこに行くまでが大変」だから、おっくうで出来ない、面倒くさい、やる気が起こらない、と思ってしまう事。

どうだろう?心当たりある?

土俵に上ると言うことは、対等にゲームが出来ると言うことだ。
もちろん、気を抜いたら即負けるだろうよ。そりゃ、いい加減なことをしていたら叩きのめされるだろうよ。しかし「土俵に上がれた」のなら、その段階でいい加減なことはしないと思うんだ。いい加減ではないから土俵に上がれると思うんだ。
であるならば、逆にあなたたちが勝ち誇る可能性だって充分ある。プレイヤーとして、音楽の上で対等になれるんだから。

だからこそこちらもいつでも真剣勝負。
あなたたちがどんなに頑張ったとしても、まだまだ負けてなんかいられないからね。

あなたたちと叡智を尽くして全力で音楽したい。
もう一度書く。

「土俵に上がらなければ相撲は取れない。早く上がってこい。」