6月
29
集まり

かつて私が勤務していたスクールバンド指導チームメンバーの集まりがあった。
(それは不定期で年に数度開催される。)

あれから年月を重ね、それぞれみなさん自分の道の歩みを重ねている。

世間で言ういわゆる「勝ち組」の道ではないかもしれない。
道は定規で引いたような直線ではない。
平坦ではないし舗装もされていない。
そもそも道無き道かもしれない。
(失礼な言い方だな、ゴメン。)

しかし、皆、確実に自分の道を歩いている。
なんだか、良いなぁ、としみじみ思う。

そこで出会ったかつての生徒達も同じように自分の道を歩いているのだろう。
時折、風の便りでそれぞれの道を進んでいる事を聞き及ぶことがある。
順調そうな、まだまだ途上のような、苦労して満身創痍のような、打ちひしがれているような、さまざまな様子が耳や目に届くたびに、または音信が全く途切れてしまった人を何かのはずみで思い出したときに、「いや、奴らはきっと大丈夫。必ず自分で歩いていくだろう。」と思う自分がいて、それも、なんだか良いなぁ、と(勝手ながら)しみじみ思う。

たわいもない話、音楽の深い話、子育ての話、教え伝える難しさの話、ちびっ子達の自己主張、などなどがそこここで繰り広げられ、止めどなく続く会話が楽しくうれしい。
時折挟まれるかつての私の悪行の話は耳が痛いが、それもまた楽しい。

会話の背景にあるだろうはずの諸々も感じつつで時間が経つのはとても早かったが、密かに自分の土台を再確認をしていた。
何かある度に苦しくなってふらふらと逃避したくなるが、諦めては駄目だ、と思いとどまる力は増えたように思う。
みんな、ありがとう。

音楽をしたい。

音楽をする。

5月
18
再発見

この数ヶ月で手に入れた吉本隆明の本。
すべて例の古本屋チェーン巡りで手に入れた。

ほんとうの考え・うその考え  賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって  春秋社
フランシス子へ   講談社
吉本隆明「食」を語る  聞き手 宇田川悟  朝日新聞社
共同幻想論  角川ソフィア文庫
真贋  講談社文庫
日本近代文学の名作  新潮文庫
夜と女と毛沢東  光文社文庫
僕ならこう考える 心を癒す5つのヒント  青春文庫
13歳は二度あるか 「現代を生きる自分」を考える  大和書房
カール・マルクス  光文社文庫
詩の力  新潮文庫
悪人正機  聞き手 糸井重里  新潮文庫
音楽機械論 吉本隆明+坂本龍一  ちくま学芸文庫
「すべてを引き受ける」という思想 吉本隆明 茂木健一郎  光文社
ひきこもれ  ひとりの時間をもつということ  だいわ文庫
思想とは何か 吉本隆明 笠原芳光  春秋社
吉本隆明の声と言葉。  HOBONICHI BOOKS
(吉本隆明が語る戦後55年 1 60年安保闘争と『試行』創刊前後 三交社)

それ以外にも 吉本隆明の183講演 – ほぼ日刊イトイ新聞で手に入る講演集が全てipodに収まっている。

だいぶ集めたな。
まだ読んでいないのもあるけれど、大まかな感じは掴めてきた。
晩年のは、だいたい対談を書き起こして本にしてる。
それぞれの本で様々なテーマが繰り出されているが、そのどれもが結局はいくつかの大切なテーマに収斂していく。
しかし、その大切なテーマ達を初めて世に出していった頃の、一番読みたい本がまだ見つからない。

密林でポチれば次の日にでもすぐ来るのだろうが、ここは別の理由もあって古本屋巡りにこだわっている。古本屋巡りは実は楽しいのだ。様々な物や事を発見できるからね。

きっと「表現」ということについて(いや、もしかしたら吉本のすべて)の根っこがその本にあるのだろう。
手に入れた本を読んでいくと、必ずそこに行き着かなくてはならない、と強く思うのだ。
凄まじいパワーを感じる講演記録 芸術言語論――沈黙から芸術まで を聞くとその思いはさらに強まる。
「言語にとって美とは何か」だ。 (「心的現象論序説」も同じかもしれない。)

吉本隆明に出会うことになった最初は「努力する人間になってはいけない(芦田宏直 ロゼッタスト−ン)」という本なのだが、この期に及んでようやくその後段にある〈追悼・吉本隆明〉をきちんと読めた気がする。

「自作品のオリジナリティっていったい何なんだ?」とか、「音聞くとお前の作品て判るのはなぜ?」とか、「個性とは意図するべき物なのか?」とか、等々夜を徹して語り明かす事が常だった学生の頃から未だに決着がついていない「表現」や「表現行為」の意味が、もしかしたら少し明るみに出るかもしれない、と大いに期待する。

そんなこともあってか、最近、純粋に自分がやりたい(やりたかった)音楽を(再)発見してるような感覚がある。
世間の評価とか経済的価値とかからは全く無縁な感覚。不思議だ。

最後に。
本日読んだ「ほんとうの考え・うその考え」の一部分から引用

 ヴェイユが工場体験で得たことで、何が一番重要だったかというと、
 〜中略〜
 もう一つは、手紙の中で「人間は疲れっぱなしで、追いつめられて、ぎゅうぎゅうに抑圧されると、かならず反抗心をもつものだと思ってきたが、そうじゃないんだということがはじめてわかった。つまりかんがえもしなかった一種の奴隷の従順さというものがじぶんのなかに芽生えてくるのがわかった」と言っているところです。これはとても重要な体験だとおもいます。これも手紙で「レーニンとかトロツキーとかは偉そうにしているが、あの人たちは工場の中に入ってみたこともじぶんで働いたこともないのだ。ああいう人たちが労働者の解放といっても、不吉なばか話にすぎない」と書いています。
 ようするに人間の心のメカニズムの複雑さを実感したことになります。人間はぎゅうぎゅうに追いつめられたら、かならず反発すると思っていたがそうじゃなかった。反発するにきまっていると思っているやつはぎゅうぎゅうに追いつめられた体験がない人たちで、実際はぎゅうぎゅうに追いつめられても反抗心をもつどころか、素直にそれをこなしている。そしてこの人たちがなぜおとなしくしているのか、なぜ反抗しないのか、その理由がすこしわかったという意味のことを言っています。これはとても重要な体験だったと思います。

5月
17
この春より

吹奏楽で音楽を勉強する会、始めました。
楽器持って実際に音出しながらやってます。本日はその3回目。
まだ参加人数は少ないのですが、ディスカッションも活発で内容の濃いものになり、とても充実しています。

以下、その内容紹介などを試みます。

音楽をもっと広くもっと深く知ろう!
【音楽の仕組み・音を出す技術・表現する心】  音を出しながら吹奏楽を研究する会

1. 音楽の音とその由来
   【音階の仕組み】
   ◇12個の音 ◇音階の不思議

2. 音と音のつながり
   【オトがつながると線となってメロディーになる。】
   ◇一つ一つの音がつながると意味を持つ

3. オトが同時に鳴るとハモる
   【和音の力はすごい】
   ◇機能和声 トニックとドミナント

4. ハモると動き出す   ←次回はここ
   【和音はどんどん進化する】
   ◇サブドミナント&転調 ◇テンションって何?

5. 音符の付属品
   【音符についている小さな印】
   ◇アーティキュレーションとかディナーミクとか

6. 楽譜の付属品
   【楽譜についているいろいろな印 楽譜に書かれていない様々な指示】
   ◇全体を支配する呪文 ◇連続的に変化させる指示 ◇記号化されていない隠れた指示がある!

7. 音楽の多様性 1
   【まさに十人十色 音楽の色も実に様々】
   ◇音楽のスタイルについて
    例えば…。ライトモチーフ 印象派 セリー ミニマル 微分音 不定量記譜 などなど

8. 音楽の多様性 2
   【タイミングの妙 合うことの気持ちよさ ズレルことのスリル】
   ◇生き生きとしたリズム ◇複雑な拍子 ◇ノリって何?

9〜 ひたすらさらおう!
   ハッピョウカイに向けて練習あるのみ
   テーマを持って選曲。研究するのだよ。◇Tuttiの曲だけじゃなく 個人やアンサンブルの曲も

LAST.【ハッピョウカイ】
     本番!

また、ただ勉強するだけではなく、その成果を元にいろいろなことを目論んでいます。
おもしろいことがたくさん始まりそうです。
わくわくしています。

今からでも参加可能です。
興味のある方、こちらからお問い合わせください。

4月
21
Tempo

〜前略

 オーケストラや吹奏楽など、指揮者を必要とする編成が大きい楽曲の演奏は、指揮者が適切なテンポを演奏者に示すことで始まります。分かり切ったことのようですが、実はこのことは、

 演奏者は、指揮者から与えられたテンポを、演奏者自身のテンポとして置き換えることができる

 ということを前提としているのです。
 さらに、演奏者が共通して感じ取ったこのテンポとは、いわば、その曲を進行させるための「慣性」というべきもので、一旦動き出したら簡単には変えられない強力な力です。この慣性という推進力を共有できるからこそ、大人数の演奏でも緻密なアンサンブルや音楽表現が可能なのです。

後略〜

JBCバンドスタディ スコアブック 指導書(YAMAHA) より

これに気が付いていないバンド青少年諸君は案外多いのかもね。

4月
12
本ではなく

声。

いつもの古書店巡りで見つけた。講演収録の一部を並べたCD&BOOK。
講演のCDが入っている。膨大な講演記録音源があるらしいのだがそのほんの僅かな一部だけを少しずつ「立ち聞きする74分」。

そうか、講演か。
と思ってWEBをさまよってみると、ちゃんと有るんだ。ほぼ日刊イトイ新聞の中。
吉本隆明の183講演

FBでシェアしようかと思ったけどやっぱり止めてここにだけ書いておく。なんだかもったいない気がしたので。

早速データ取り込んでipodの中身になった。
 

そうそう、手に入れたCD&BOOKに載っていた一文。

言葉のいちばんの幹は沈黙です。
言葉となって出たものは幹についている葉のようなもので、いいも悪いもその人とは関係ありません。

きっとこれは〈自己表出〉ということなのではないか、と思ったりするのだが、まだそこにきちんと行き当たっていないので…

うわぁ、キラキラの宝物がわんさか出てくる。

3月
21

歌を書く。

いや、実際にはまだ書いてないのだけれど。
特に具体的な音が思い浮かぶわけでもなく、なんとなく雰囲気というか情景というか、そんなものがふとした瞬間に浮かんでは消えていく。
そうやって何かがどこかに貯まっていくようなのだが、きっとまだもう少し貯める必要があるんだろうな、と感じてる。そしていっぱいになったときに、つーっと自然にしずくがこぼれてくるのを待つ。

いつも大体そうだ。(端から見たら何もせずにサボっているように見えるんだろう。でも、ここで無理をすると上手く行かないことが多い。)
贅沢な時間の使い方であることに違いない。

3月
18
朧気ながら

朧気ながら、今まで考えたりやったりしたことの意味がようやく見えてきたような気がする。
あらためてそこから見渡してみると随分回り道をしてきたんだな、と感慨深いが、大切なのは「今自分がそこにいる」ことだと思う。

そろそろ、24歳になってもよいかも。(長い間23歳のままだったし…。)
そのためにも、もっと書かなきゃ。

9月
16
マーチングコンテスト

を聴きに(観に)行った。

沢山の見知った団体が出場しているけれど、マーチングのレッスンをがっつりしてるわけではないので、とても気楽なお客としてである。

一昔前まで、この中にどっぷり浸かって、演奏演技の出来に一喜一憂しながら熱くなっていた自分が懐かしかった。
(再確認するまでもなくアマノジャクな)私には、表情に乏しい顔、無理に笑顔をつくっている顔、「とりあえず声出しとけや」に聞こえる執拗な挨拶、などなど、他にも沢山の気になることがあった。
そして以前と違い何だか少し冷めた自分であることに気が付いた。

マーチングというカテゴリーの有用性は改めて言うまでもない。素晴らしい。老若男女だれもが見て聴いて楽しい。そして一生懸命さが伝わりやすい。
にもかかわらず、何でそんなこと感じたんだろう。もしかしたら、本番の演奏演技を観てというより、それ以外の部分で感じた興ざめが影響しているのかも知れない。
とにかく、私の感覚と何か少しずつずれてきているようだったのは事実。

自分の中に変化が起きてきているのだろうか。
それともただ鈍感になっただけなのだろうか。

もちろん全てがそうなのではなく、等身大な演奏演技がとても爽やかで気持ちの良い団体があったことも記憶に留めたい。

9月
09
ひとつの演奏会が終わり

ひとつの演奏会が終わり、その後FBの上で、こんなやり取りがあった。
内容は、ある打ち上げ時の様子と感想。
 (ひとつ抜けていたのを補完 9/15)

七川(仮名)
仕事に行く前に今日の作業内容をまとめようと思っても、昨日のことばかり考えて手につかない。
昨日、シンバルの話をしていた時私の目の前にいたあの子達に、とてもとても大事なことを伝えるのを忘れてしまった。
それは第一組曲をやった今回だから伝えやすかったのに、それを、あの時に気づかなかったことが演奏会での色々よりダメージが大きい。

NGO
なんだろ?気になる。

七川
空気感と身体とシンバルが1つになってって話したじゃないですか。その空気感は会場の響きだったり私以外の音だったりするわけです。私の音が変化するのは、常にあなたの音が影響してるからだよってことです。高校時代に第一組曲の私のシンバルで自然に涙が出たとある先輩に言われたことがあるのですが、それは、私が上手かったからではないんだよって。もちろんそうゆうことに気が付いて、表現できる技術が必要かもしれないけど、みんながエネルギーを貯めて貯めて貯めて、それを開放するのが役割なので、その感動は私以外の音があってのことなんだよって。私は、一人じゃシンバルを叩けませんから。バスドラムがあってのシンバル、バンドあってのシンバルなので。第一組曲のあの部分だけではなく、「マーチの強弱」以外の全ての音は他の楽器の影響で音が変化してます。今回のゲネプロと本番で、私の叩きかたも音色も全くちがいました。それは、本番だからというより何かしらの変化があったからなんだと思うのです。それをあの時彼らから感じました。とても嬉しく、この先も変化を見てみたいと思いました。

七川
↑笑っちゃうくらい長文でした(笑)しかも、結局は昨日の話やずっと合奏の時に先生が話していたことと同じなんですけどね。

NGO
ありがとう!
ふふふ、何だか嬉しいな。

七川
あんなに真剣に先生の話を聴いている彼らを見ながら懐かしい気持ちにもなり、「あ、大丈夫だ」と思いました。その『気付き』は彼らにとってとても大きなことでしょうし、私にとってもとてもとても大きなことでした。

確実に意義はあったのだ、と感じる。
やって良かった。
少なくとも、ここに至る事が出来たのだから。

9月
07
音の向こう側

以下は、本日の ENSEMBLE SPIRITUS というバンドの演奏会で、パンフレットに載せた一文。

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音の向こう側

 
「三角形な感じの音にしてみてよ。」
「お湯入れてから30分も経ってしまったカップラーメンのように手を叩いてみましょう。準備はいい?ではそれを食べる時の気持ちで、さん、はい!」
我が師、兼田敏先生のレッスンや講演、バンド指導ではこの類の話は連発した。単に「〜のように」という指示にとどまらず、面白おかしいエピソードを混ぜながら話しが進んで行くのでいつに間にかその独特な世界観に引きずりこまれて行く。私はそれが大好きだった。
傑作だったのはこれ。
「こんどは色を白くしてみよう」
「あ、はい。しろですね。少し待ってください…。うーん…。」
「…。さあ、やってみて。」
の後、シンバルを一発叩き、しかし即座に止めて、
「すいません!間違えましたっ!ごめんなさいっ!」
と彼女は叫んだのだった。誰も「間違えた」なんて判らないのに。公開レッスン会場は一気に笑いの渦。自分の想いと全く違った音が出ちゃったんだろうな。

そんな訳だから、私もついつい長々とそのような話をしてしまうのだが、最近、初顔合わせのバンドレッスンでそれをやると違和感を感じるようになってきた。
「で、それが何なの?」「結局どうすればいいんですか?」な、ぽかんとした顔に出くわすことが増えたように思うのだ。

先日、バンド絡みの若い人たちと「波間の昆布」(…バンド指導で度々話す内容…。残念ながら詳細は割愛…。)が話題になった。そして「あの話は意外に敷居が高いです」と言われた。
愕然とした。音楽におけるそれぞれの役割とその感じ方について上手く言い当てていると自分でお気に入りの話だったし、「とっても良くわかります」「何だか妙に全てが納得出来るようです」などの感想も多く聞いているので、ショックは大きい。
私の、「音」や「音楽」とイメージとの関係が、突拍子もなくあまりにもかけ離れていて、かえってイメージが湧きにくいのだろうか。
音楽によるイメージの深さが、少なくとも私と、「波間の昆布」の話を敷居が高いと感じる人たちとは、かなり異なっているのだと急激に不安になったりした。

「テンポ60、一点イの全音符二つと二分音符のタイ、ダイナミクスはmp、発想記号としてespressivoと書かれている」ような楽譜について「440Hzの音が50dbの音圧でしかし多少の音程や音色や音圧の変化を伴いながら10秒間発生すること(その楽器の「良いとされる音色」で)」のようであるのなら、それはただの「音」に過ぎないのだと思う。(並外れて優れた「音」ならば、それだけで心が動く事も有るだろうが…。)

その音に「蛇に呑み込まれかけた蛙がまだ飲まれていない足をぴくつかせながらもがいている様子」だったり「今まさに夕日が水平線に隠れ、真っ赤だった空と海が急激に群青色に染まり変わっていく情景」だったり「強く挟むと潰れてしまうのでそうっと、しかし早くその美味しさに感動したい一心でゴマ豆腐を落とさないよう箸で口に運ぶ期待感」だったり、こんな私の陳腐な表現ではなく、本来言葉で表せないもっと様々なイマジネーションを潜ませたり膨らませたりする事が音楽なのではないのか。そのイマジネーション活動こそが音楽の神髄ではないのか。
「良い音色だなぁ」「美しい音の並びだなぁ」にとどまらず、その発せられた音を仲介として演奏する人と聴く人が様々な想いを馳せ合う。
重要なことは、その想いには全く実体が無い、ということだ。微振動すらない。全てがそれぞれの人の頭の中だ。自分以外の誰も覗き見することが出来ない唯一無二なイマジネーション。それを脳科学の世界では「クオリア」と呼ぶらしい…。すなわち「心」。
今、私は、「音楽」とはその「心」を「音」によって顕在化させ豊かにすることなのだ、とようやく実感を持てるようになってきた。

余談ながら、現代科学ではクオリアを、随伴現象として出来れば無いものにしたいらしい。科学の対象は「計量できる経験」に絞られて、「心」が絡むとたちどころに客観的検証から外される。以前「教育の範疇で優しい行為をさせることは出来るが、優しい心の持ち主にすることは不可能である」を読んで途方もない絶望感を感じたのを思い出し、「いや、ちょっと待てよ。音楽では可能なはずだ。私はその実践をずっとしてきたつもりだし、関わってきた多くの人達がその証明をしてくれる。絶対諦めてはいけない!」と密かに誓った事も決して忘れない。

冒頭のエピソードは、出てくる音のイメージを豊富にさせる手段だけではなかったのだ。音の向こう側にあるイマジネーション「クオリア」を育てていたのだ。つまり現代科学では困難な「心を豊かにする」実践がそこにあり、確かに私はそれで育てられていた。
これこそ音楽の意義だ。
音の向こう側にこそ音楽が存在する事をさらに伝えていくことが「音楽とはなぁ、生きることなんだ…。」と遺して逝った我が師への恩返しでもある。
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