2月
11
バランス

曖昧だけど深いと思う。バランス。バランス感覚。

音楽をやっているといろいろな感覚の話が出てくる。
リズム感、音感、色彩感、スピード感、…。
様々な音楽表現をするために、具体的に習得すべき事柄からイメージを膨らませる比喩のようなものまで様々有る。

その中でも特に全体をまとめるためにバランス感覚が重要なんだろうと思う。
しかも音楽上だけの話ではない。美意識としてのバランス感覚だけでなく、もっと広義な意味で研ぎ澄まさなければならないと感じる。

「感覚」は生まれ持った物ではなく、磨く物だと思う。
今私はバランス感覚を磨きたい。

2月
08
出来ていないことを

出来ていないぞ、と指摘するといとも簡単に折れてしまう。

決して悪意などあるはずもなく、それを乗り越えてたくましくなって欲しいとひたすら願っているのだが…。
想定外のことが起こるととたんに思考が止まってしまうようだ。

打たれ強くなれば良いのか。
それまでの経験の豊富さが必要なのか。
何かあったとき、必ず受け止めてくれるという安心感か。

いったい何が必要なんだろう?
足りないのは?
有りすぎる物は何だ?

その変化は必然なのか?
食い止めるべきなのか?

もっともっと静かに深く考えよう。

2月
02
やる

何も難しいことではないと思う。
とにかくやれば良い。

泣いたって始まらない。
逆に、泣いてもやっていれば良い。

たくさんありすぎて混乱するが、一度に出来ることはそんなに多くはない。
それを順番にやれば良いだけ。

決意と覚悟を持って。(信じることと一緒だ…)
言い訳は一切無用。
失敗したら自分の責任。
上手くいったら人のおかげ。
みんなの運命を全て任されている。

あなたのニックネームはそういう意味ではないのか?

2月
01
信じる その2

「信じるということは、自分自身が決意し、自分自身が覚悟すること。」
「信じるのは、相手の行為に対してではなく、相手の人そのものに対してである。」

最近、私がある学年の日誌に書いた。(正確には一字一句同じではないです。)
「信じることは辛いか?」の問いかけ(私に対する問いかけではないかもしれないが…)に、思わず反応してしまった。

信じることとは期待値を高めることではないと思うのだ。
仮に期待値が0でも信じる、信じたいときはある。
では、期待値が0だから辛いか、というとそうではないと思う。
 …少なくともそのときはそう思った。

自分自身の為に書き留めておく。

1月
30
最近

毎回の合奏が練習にならない。

大いに反省すべきであると思いつつも、どうしても、何とかして、ほんの少しでも良いから、伝わって欲しい、と思ってしまい、しゃべりすぎる。

なんでだろう、と自分でも思うよ。
何をそんなにかたくなになるんだ、と思うよ。
それが伝わったからって、ただの自己満足じゃねぇのか、と思うよ。

とにかく音出して練習せねばいかんのに!
時間がもったいないのに!

そろそろ合奏で何とか曲を形にする、という図式を壊さなければならないだろう。
個人練習やパート練習が上がっていなかったら、何も出来ないまま、すさまじい本番になってしまうことを体験せねばなるまい。そろそろ自分が何もしなかったら顔から火が出るほど恥ずかしい思いをする、ということを知るべきだ。
とは言っても、実は私自身、その覚悟が出来ないでいるのだ。
T邦を去るときに捨てたはずなんだけど、まだどこかに見栄とか要らぬ誇りとかがあって、たまに顔をのぞかせる。まさに今がそうだ。
私が棒を振っているのにそれなりの演奏が出来ないバンドが許せない。
それは、同じレベルまで目線を下げ泥まみれになってみんなと格闘する勇気をどこかにおいてきてしまったからかも知れない。
だからスタッフに甘え、3年生に甘え、来年度の新入生に甘え、いろんな場面で様々甘えているのが自分でも良く判る。

今日、たまたま第一回定期演奏会のDVDをちらっと見た。
一見「お、そこそこ人数いるじゃん!」「そんなにすさまじい音していないぞ!?」  
だけどよく見るとトラだらけのステージ。私の知らない人たちがいっぱいステージにのっている。(自分も棒を振ったのに!全然見知らぬ人たち。)
なんだか痛くてすぐ見るの止めたが、今も胸にとげが刺さったままだ。
その演奏が「痛かった」のではない。そのステージに音楽ではなく人の業を垣間見てしまったのだ。そしてその業が今の私を直撃したのだ。

自分はいさぎよさを忘れている。これじゃダメだ、と直感した。
人数が少ないから、技術が未熟だから、編成が揃わないから、何とかそれを誤魔化して形にしよう、と思うのはよそう。
カバーして誤魔化してもTSWの音楽レベルは上がらない。後々自分が恥ずかしいだけだ。

正直にきちんと出来ることを少しでも増やそう。そのために時間を費やそう。エネルギーを使おう。
具体的にやるべき事を伝えよう。みんなに説明しよう。手始めに「今後どう打開していけばよいか」部長に少し話をした。

TSWのみんな、申し訳ない。
いま、なかなか上手く事が運んでいかないのは他でもない私の努力が足らないのだ。そう肝に銘じる。

1月
29
一歩進んで二歩戻る

では、前に進まない。
それは今のTSWの現状だな。

せめて三歩進んで二歩戻る、になりたいなぁ。

掃除を見てても、いろんな係の作業を見てても、もちろん練習を見ていても、何を見ていても思うことは全く同じ。
周りが見えない。
状況が読めない。
全体が見えない。
今やっている事と最終的に目指すことが結びついていない。

さらに…。

行動力がない。
仮に気が付いても、それをやろうとしない。
そのそぶりすら見えない。
あとから「やれば良かった」「しなければダメだった」、というような反省は微かに聞こえることもあるが…。

この行動を規制する要因はいったい何だろう。
私は、いつもそのことで頭がいっぱいだ。常に考えている。
何とか改善することは出来るんだろうか?
それとも無理なんだろうか。
覚悟があったら何とかなるのかな。(もしそうだとしたら、どんな覚悟で、どの程度の覚悟かなぁ。)

他校の吹奏楽部顧問の先生は案外無駄な努力をせずに、一つの一発芸で何とかするんだろうな。
でも私には出来ない。音楽をするための前提なしに音並べても無意味だからねぇ。

1月
27
本番

長久手吹奏楽フェスティバルの本番だった。
200名を超える合同バンドで3曲演奏した。

なぜか本番のパワーはすごかった。練習でどうしても上手くいかなかったところもなぜかうまくいった。本番のスイッチが入ったのかな。素晴らしい。
逆に「え、こんなところ!?」で、私は振り間違えた。情けなし。

これで4回目(4年目)だけれど、毎回短い練習でよく出来るよな、と思う。これは一回目の練習以後、それぞれの団体に帰って練習してきたたまものだろうと推測する。でなきゃうまくいかない。
皆さんの頑張りに感謝です。
演奏は楽しかったか?お客さんも楽しんでもらえたか?私がやる意味はちゃんとあったか?いろいろ検証すべきことはあるけれど、それぞれの立場でやって良かったと思える本番にはなったかな。
懐かしい人々にもあった。また少し人の輪が広がった。

TSWのメンバーも8名のった。宿泊ともなって大変だったかもだけど、それに値する成果はあったんじゃないかな?いろいろな物が見えてきたんじゃないかな?
舞台のお仕事ご苦労様でした。助かりました。

ただ残念だったのは今回1年生の参加が皆無だったこと。不参加の理由はいろいろあるだろうけれど、宝物を取り損なったね。また同じようなチャンスがあるとは限らない。その一回一回が大切で唯一なチャンスだよ。いつもとは違う世界を見なければいつまで経っても田舎の井の中の蛙から脱却できない。次は是非取りこぼさないようにしたいものだ。

今回の事でいくつかおもしろい企画案が出てきた。実現できたらホントに楽しそうだ。乞うご期待!

1月
26
仲間

暗くなるまで公園でブランコしたり鬼ごっこしたり、裏道でゴム跳びしたり、山の中を探検したり、田んぼでオタマジャクシ取ったり、のような遊びの経験が少ない今の生徒達。友達が集まってもただ黙々とゲームをやってるだけで、自分のこととか人と関わることとかをあまり知らずに大きくなっちゃった生徒達。
それでも人間は生きているとどうしても自分自身を見つめなければならない時が来たり、人とぶつからなければならない状況が起きたりする。普通の時は何の問題もなく過ごせるけれど、ひとたび何か障害や問題にぶち当たると何をどうして良いか判らなくなる。で、全てを放棄して今までのことを忘れようとしてしまう。ゲームの電源切ってリセットするように。
これを乗り越えるのは理屈じゃないんだよ。経験なんだよ。たくさんの経験をしてそこで考え悩み苦しみ解決していったことの積み重ねが多いか少ないか。いわば経験値の高さだ。

だから、いま経験しないでいつするの?って思う。
麻疹みたいな物かもね。小さいときは誰でも罹る。一度罹れば大丈夫。でも大きくなってからは症状が重くなる。後遺症が残ることもあるらしい。
高校3年間なんてあっという間だよ。症状が重くならないぎりぎりの3年間だと思うな。

日誌より
〜前略
みんな、つらい時は相談してね。弱音だって吐けばいいと思う。「もうだめ。できない」はよくないけど、「こうゆう事があってつらいんだけどどうしたらいいと思う?」って相談したらいいと思う。いやな思いをためて、ためて、ためて…取り返しがつかなくならないように。壁はこえてもこえても永遠にあると思う。つらい事もこれから先、数えきれないくらいある。壁にぶつかって痛くても助けてくれる友達がいるなら、何度でも壁に向かっていけるんじゃないかな。心も体もボロボロになったって、仲間がはげましてくれたなら、また、めいっぱいになるまで出来ないかな。
後略〜

日誌より
〜前略
仲間…。人にぜんぶをさらけだすって、むずかしいよね。
昔何かあったらよけいに。
でも、言わなきゃ伝わらないだよね。
同じ部活の仲間として、人が少ないからこそ、1人1人の気持ちも大切で…。うまく言葉にできないです…。
いろいろのりこえていく仲間だからこそ、辛さもわかると思う。
はらのさぐりあいとかじゃなくて…。全部。
素を出したい。素がよくわからんけれど(自分の)
後略〜

日誌より
〜前略
人の心を動かすって難しいね。相手の立場になって考えたりするうちに、自分の心は苦しくなるし…。いろいろと言葉をかけたり行動したりしても、成果は見えなくて。練習はがんばったらその分上手くなるのになぁ。
もっと素直に感情を出したいよ。本当は泣きたいし、怒りたいし、腹から笑いたい。感情を素直に出せたら、何か伝わる気がする。
後略〜

自分自身のこと、そして人との関わりのこと。
逃げたらそこでおしまい。その先はない。今関わっていることだけでなくあらゆることに影響していく。
でも踏ん張れば必ず次がある。可能性に満ちた次のステージが待っている。世界が開ける。

「あなたの大きさはこれくらいです。だからこれがめいっぱいで限界ですね。この辺でやめときましょう。」
と周りの者が言ってしまったらもう伸びない。言われたらその瞬間は解放されたように思うかも知れないけれど、それは全く逆で永遠にその呪縛から逃れられなくなってしまう。
もっと伸びて欲しいから、苦しむ姿を見てとても不憫に思うけれど心を鬼にして「逃げるな!負けるな!」と言い続ける。支え続ける。それが仲間だと思う。

1月
23
信じる

音楽の正体を掴むのはなかなか難しい。
目に見えないし、手でつかめない。色も形もないし、匂いもない。いつまでもそこに有る事もないし、一度出てしまった音をなかった事にすることも出来ない。

にもかかわらず、「そこに何かがある事」を信じる必要がある。そして、信じる事によって少しずつ音楽が見えてくる。少し見えると、もっと信じたくなる。そうするとさらに奥深くが見えてくる。
そうやって音楽の正体がだんだん見えてくるのかな。

という事は、まずはとにかく信じなければ何も始まらないのではないか。
…さて、手始めに何を信じようか??

1月
22
準備

そろそろ定期演奏会の準備があわただしくなってきた。
チラシやチケットの手配も出来てきた。
パンフレットの原稿も、広告取りの手配も、生徒の実行委員を中心に動いている。
企画の中身も少しずつ形を見せ始めてきた。

やらなければいけないことは山のように有る。
やってもやっても追いつかない。
部員を総動員しても総勢20余名しかいないから、一人一人の負担は尋常ではない。
先日は3部用の中学生との合同バンド練習会があったが、そのための打楽器移動ですら全員で汗だくだ。
会場が満員になるようにチケットをさばくことも大変。
昨年より少しだけ準備が早くなったので、チラシの挟み込みも出来そうだがその手配や作業も決して楽ではない。
自主運営を旨としているから私がお膳立てすることはあまりない。ほとんどの事は生徒達が動かす。そのための実際の作業をするための段取りがさらに大変だ。
もちろんより良い演奏演技のために練習が熾烈を極めるのは当然の帰結だろう。
そこに費やすエネルギーや時間は膨大なものになる。
定期演奏会なんてどう考えても大変なことばかり。なんでこんなしんどい事やらなければならないのか、性懲りもなくまた今年もやってるよ、と自分でもあきれてくる。

だけど心の根っこではちゃんと知っているんだ。
あの定期演奏会の本番が限りなく純粋な喜びに満ちあふれていることを!
唯一無二の一生の宝になり得る奇跡の数時間であることを!
日常からかけ離れた私たちの理想の空間や時間であることを!
いくら準備が大変でも、いや大変だからこそ、その先にあるものがとてつもなく素晴らしいものになるんだな。

まだ知らない人には何が何でも知ってもらいたい。是非経験してもらいたい。
最後まであきらめずに…。
知らないままなのは罪だ、とさえ思う。