4月
20
小さな小さな

一歩を踏み出した。
小さいけれどとても意義のある重要な一歩だ。

椅子に座った足が床につかずぶらぶらさせながら、それでもたくさんの小さな真剣な瞳が私を射抜く。
反応の早さはこれまでの経験をはるかに超える。
何の躊躇もなく間髪を入れず問いかけに応えてくれる。
小気味よいことこの上ない。
楽しい一時間半はあっという間に過ぎた。

みんなにとっては有意義な時間になっただろうか。
きちんと何か伝わっただろうか。

やり残しや言えずじまいは限りなく。
アレもやりたい。コレもやりたい。
とはいっても限られた時間の中でどれだけのことが出来るのか。
もっと時間が欲しい。毎日でも。
 

この先、この小さな一歩を僅かずつでも重ねていく。
苦難を乗り越え継続すること。
いずれ、たくさんの人が同じ一歩を重ねるようになり、当たり前な大きな道になっていくために。

今日はその始めの一歩が踏み出された記念すべき日。
Nシステマ始動。

1月
31
たくさんの笑顔

たくさんの発見。
たくさんの頑張り。
たくさんの繋がり。
たくさんのふれあい。
たくさんの助け合い。

雪の降る寒い一日の午後。
220人を超える人数の30分の大合奏と、そこに向かった何日間。

なにか大切な意味を持つことは出来たかな、と思う。
関わった一人一人が暖かい思いを持つことが出来たかな、と思う。
そして、できればそこにあったたくさんの事が「特別な一日」ではなく「普通の毎日」にあるようになると良いな、と思う。
もしくは「特別な一日」を「目指し続ける普通の毎日」だと良いな、と思う。

みなさん、心からありがとう。

1月
29
明日

いよいよ本番。第7回 吹奏楽フェスティバル in NAGAKUTE。
直前の練習で何処まで粘るか。何を粘るか。
いつも悩む。

アマチュアの青少年が目指すべき音楽の喜び。
自分なりに考えることあって、やることある、と思いなんとか実現しようとしているけれど、果たして本当に皆はそれを欲しているのか。
いつも不安になる。

特に今回はいつも以上に悩む。
選曲の難易度と練習時間の足り無さと、もっとこれをしたいあれをしたい何とか伝えたい、という自分自身の気持のせめぎ合い。
両者のバランスは取れているのだろうか。
 

もちろん、みんなとても真剣で一生懸命だ。
難しいことでも何とか応えようとしてくれる。
痛いほど良く分かる。
だからこそ、私自身の役割がきちんと果たせているかどうか、無性に不安になる。
もっと私に力があったら、もっと簡単にもっと楽に伝え、もっとすんなり実現できるのではないか。
ここに集まった全ての一人一人の中に何か一つでも「やって良かった!」と心から思うことのできるものを残せるか。
そして、聴きに来てくださった方々にそれを伝えることが出来るか。

ふぅーっ…。
さらにもう一度。作戦を練ってみる。

1月
23
合同練習

1回目が昨日終了した。

とっても嬉しい誤算で、参加者皆さん練習精度が想像以上に高い。
手強い選曲だったので各団体単独指導も取り入れたりしてみたが、その甲斐あってか目処はつきそうな予感だ。

合奏一発目、毎度の「海を越えた握手」。
随分すっきりとした音が出る。

230人の合奏だよ!
その多さの例は、コンサートバスドラムが5台、スネアが5台、…というと想像できる?

いくつか毎度のポイントを上げながら練習を進めていくと「今年はさらに進化したな」と実感する。
反応が早いのだ。
説明したことがすぐ音で返ってくる。
…曲が慣れているからかも知れないけれど。

「禿げ山」一発目、音が出た瞬間で(といっても数十秒の間)、「こりゃいけそうだ!」と感じる。
ま、さすがに、部分部分でそこそこ苦労するところはあるけれど。(それはまた次の一週間で解決してくれるだろう。)
説明し指示するときちんと音で返ってくる。みんな力は充分にある。
だからついもっともっとと、欲張ってしまう。一つ一つ丁寧にやりたくなる。
みんなには力があるのに充分に引き出せないのであれば、それは全く私の力不足、ということだからな。
でも、圧倒的に時間が足りないと感じる。
限られた時間の中で何処で線を引くか、という苦しい判断を強いられるだろう。
次の練習は半日。
そこで何処まで突き詰められるか。
さらに入念な準備をしなければ。

そして来週の日曜が本番
長久手町文化の家・森のホール。
無料だけど入場整理券は全て出きってしまったよう。
当日券が出るかどうかその場になってみないと判らないそうです。
でも、是非たくさんの方に演奏を聴いていただきたいと思ってます。

1月
17
吹フェス

以前お知らせしたように2週間後の1月30日(日)に第7回 吹奏楽フェスティバル in NAGAKUTEが開催される。

例年ならば、一週前の一日、前日の半日、そして本番直前、と3回だけの練習で200人を超える大合奏をするのだが、今回は規模の大きな難曲にチャレンジすることになったこともあり、それぞれ各団体へ事前個別レッスン実施を企画、先週の土曜日まで1回ずつ完了した。
目標や課題を提示しつつ、雰囲気をつかんでもらう練習を心がけた。合同練習までのおさらいを少しでも有意義にしてもらうために。
ただでさえ冬時間で学校の部活動は時間を確保するのが難しい中、単独演奏の練習時間も削って合同演奏のため一生懸命頑張ってくれた。
やはり、一人一人の表情をきちんと見ながら練習を進められるのが良い。大人数だと大雑把にざっくりとしかできないからね。

今週の土曜日には全員が揃った練習。
それまでにさらに頑張ってくれるだろう。どんな練習になるかとても楽しみだ。
そしてすぐその一週間後に本番。

「今回はせっかくだから少し規模の大きい難曲にチャレンジしてみましょうか」という現場サイドからの提案があった。
そのこと自体既に嬉しいし、本番に向けて皆さん一生懸命なのがさらに嬉しい。

皆さんの気持ちに応え、参加した一人一人が音楽の喜びに身を委ね、どっぷりと浸かり、幸せを実感できる演奏にしていきたい。

12月
20
先日の

コンサート、開演前から行われていた中高生の金管アンサンブルクリニックと彼らの公開リハーサルも全て見させていただいていた。

クリニックは、高校生のバリテューバ4重奏と中学生の金管8重奏。
SBBQの5人は楽器を待たず、言葉や動作で通訳を交えながら、基本的な呼吸の練習方法、演奏者相互のコンタクトの取り方、もちろんバランスやフレージングなど、様々な示唆に富むアドバイスがあった。

その後休憩を挟み、彼ら自身の公開リハーサル。
どんなリハーサルをするのか興味津々だったのだが、実際には曲はほとんど合わせず、小一時間ほど5人揃ってバズィングから始め、基本的なウォームアップに終始した。
それは、自分達のため、というよりは、聴講している中高生のために、「トレーニングとはこうやってするんだよ」と、身をもって示しているようだった。

後々考えて、すごい、と思ったことがある。
その後の本番も含めて、無駄な音を一切聞かなかったことだ。
単純なミストーンはもちろん皆無だが、それ以外でも、例えば、一つのパターンが終わったあとに口をほぐすために出しがちな音や、唾を抜く時に出しがちな音も含めて、試し吹きなど不用意な音は一切無い。
ウォームアップ一番最初のバズィングからアンコールの最後の音まで、発音された音全てが必要だから出された音で、しかも全ての音が間違いなく的確なのだ。

このことはある意味テクニカルな事項かも知れない。
ウォームアップはアメリカンスタイルで、パターンとパターンの間の音を出さずにいる時間ですらきちっとコントロールするとてもシステマチックなもののようだ。
しかし、その裏には、やはりそれだけではない何かの存在はあると確信する。
例えば「発音する音に対する責任感」とか「音への惜しみない愛しみ」とか。
いやいや、そんなお硬いモノではなくもっともっと暖かく深いものなんだ。うーん、私の拙い言葉にすると途端に色あせてしまうのが悔しい。

「完璧な技術を身につけたからそれらが可能になった」のではなく「何かを求めていった結果完璧な技術が身についた」というと伝わるかな。
要は、目指しているものが、「言葉では表せない何か。理屈では説明できない何か。」だからなのだろう。そのためのテクニックは必要だが、しかしテクニックは言葉で表せるし理屈で説明できる。先の言葉からすれば目指すべきはそこではない。
彼らの、テクニックのさらにその先にある「説明できない何か」を求める、という揺るぎない基本姿勢が、エル・システマ数々の奇蹟を生んだのだろう。

そこまで考えてようやく、私のアンコール時の涙の不意打ち、という個人的経験は、そのうちのほんの微かな奇蹟の一つに過ぎないのだろうと考えついた。

12月
19
黒いオルフェ

昨晩のコンサートでのアンコール1曲目。
不覚にもいきなり涙が滲んだ。
内輪ではない演奏会では何十年ぶりだろうか。

終演後、理由を考えた。
「演奏」や「音」とか、「アンコール演奏する前の挨拶」の言葉などを通してそう感じたのでもないように思う。
自分の心の真芯を「何か」によって直撃されたようだった。
敢えて言葉にするなら「優しさ」「愛おしさ」「思いやり」「感謝」のようなものがホールいっぱいに満ち溢れたような感覚、ということなのか。
その感覚は、特に各プレイヤーが各々ソロを取っている間中、続いたように思う。

今も考えているが、やはりいくら考えてもその答えは良く分からないままだ。

一つだけうっすら判るのは、私がパンフレットのコラムにも書いたアヴレウ博士の言葉、
「(音楽は)言葉では表せない何かを示される。理屈では説明できない何かを示される。」
なのだろうということ。

であるならば、感じるしかない、のだな。
上手く説明できないが、核心はここにある。

11月
02
言葉その三

私は、バンド指導で「アンサンブル」という言葉を象徴に様々説明する。
それは、意識して「寄り合う」ことだと強調してきた。
チューナーやメトロノームという測定器が示す機械的な数字に、あるいは指揮者を絶対的な存在として、盲目的に合わせるのではなく、お互いを理解した上、自身の意志で歩み寄り、その結果折り合いが付くのだ、と。
言葉では説明したこと無いけれどそれは「撚り合う」でも良いな、と思っていた。

音楽の本性で根本的なのはグループの形成を可能にする点です
つまりオーケストラや合唱…そのなかで子供たちは
集団におけるふるまい方を学び協調性とチームワークを学びます
これが音楽の特性なのです

アブレウ氏の言葉

またしても、そのものではないか。

とにかくタテヨコ揃えること、が始めにありきなのではなく、そこでの人の在り方、振る舞い方を身につけると、その結果、音楽が揃い一つになっていく。
即ち、「素晴らしい本物の音楽」を目指すことによって「集団におけるふるまい方を学び協調性とチームワークを学びます」なのだ。

だからこそ、その先には「人としての生きる喜び」という大きな目標があるのだと思う。
喜びに満ち溢れた演奏に繋がるのだと思う。

11月
01
言葉その二

少し長いが先回も紹介した
 NHK BS-2
 クラッシックドキュメンタリー
 オーケストラは人をつくる
 〜ベネズエラのユース・オーケストラ〜
から引用する。

リズムは音楽的な現象ではなく精神的な現象です
魂の鼓動なのです
その鼓動を 音楽が昇華し調和の中に表します
ほのかに…
目には見えない形で…
言葉を使うことなく人々に広がっていく
芸術は 意志と魂と精神を一つに融合させます
その結果 意味と価値が生じるのです
オーケストラに参加している子供たちは
これが生じる過程の中で心底から変わっていきます
啓示を受けたように感じるのです
神は 言葉では表せない何かを示される
理屈では説明できない何かを示されるのです
それは感覚的に受け止めるしかありません
子供たちは音楽に心を貫かれその鼓動とオーケストラでの役割を担い変わり始めます
魂の鼓動は音楽 彫刻 文学 映画の姿を借りて私たちを結びつけます
人々は芸術を通し自分の本質を見るでしょう
芸術の世界でのみ私たちは自らの存在の根幹を知ることができます
善良で 偽りなく 美を備えた私たち本来の姿を

映像の中でアブレウ氏と少年の言葉がオーバーラップする。
言葉そのものも素晴らしいが、その言葉を小さな少年がそらんじていてさらに素晴らしい。
 

目に見えない物を信じること
説明しきれないことを感じること
見失ってしまった大切なものがここにはある、と思う。

10月
30
言葉

長いバンド指導経験の中で、私がずっと考え思い伝え続けていたことがらをとても見事に表した言葉を見つけた。

オーケストラとは何か
それは共同体です
オーケストラが持つ不可欠にして ただ唯一の特徴は
「合意すること」を前提に集まった共同体だということです
団員が学ぶのは
協調の中で生きる方法です

アブレウ氏の言葉

他にも宝物のような言葉が次から次へと見つかる。

少しずつここに書き留める。
是非伝えていきたいと思う。