9月
09
言葉のイメージ

「原子力発電所」と書くと現代生活にとって必須な感じ。電気無ければ不便だし。
たとえ現在稼働数が0に近くても絶対なくなっては困る、と感じさせるイメージ。せいぜい必要悪というか。
 

例えば新聞記事や報道番組の「原発」をすべて「核」に置き換えてみる。
「福島の原発事故」
「福島の核事故」

「新しい原発開発」
「新しい核開発」

「活断層上の原発」
「活断層上の核」

うーん、だいぶイメージが変わる気がするなぁ。

「宇宙ロケット」と「大陸間弾道ミサイル」も似たようなものか。
(これって、どこか近くの国がよく使うぞ。)
 

つい最近まで、どこかの港に原子力潜水艦が内緒で寄港したり、空母に核ミサイル搭載してるんじゃないかと疑惑が上がるだけで大騒ぎする国だったのにね。放射能汚染水垂れ流していても「(東京から)遠いので大丈夫」と言っちゃうようになったらしい。軍事利用と平和利用では放射能危険度の尺度が違うとでもいうのだろうか。

非核三原則下では「核」の研究理由が薄まっちゃうから原発はどうしても必要だろうし、核技術保有していない国は(平和利用しかしないと言っている)日本から平和利用お墨付き(しかし兵器転用可能な)核技術を輸入したいのだろうし。

だから、そういった事々を日本のみならず世界が認めちゃった感じ、だな。

あ、それを「麻痺」というのか。
イメージを膨らませた後、いつの間にか事実の積み重ね。

9月
08
魚釣りの

番組ばかり見てる。BGTVとしてずっと。
BS釣りビジョン(…我が家はケーブルTV経由…)。釣る事、釣りに関する事、だけを24時間放送し続けている局。

釣りガールがきゃあきゃあ言いながらイカを釣る。
ちゃらい兄ちゃんがゴタク並べてバスを釣る。
おっさんが奇声を発しながら磯でグレを釣る。
金持ち道楽オーラを振りまきながら南太平洋でジャイアントトレバリーを釣る。

ごくたまにネイチャードキュメンタリーとして秀逸な番組もあるが、失礼ながら、どれも番組の仕上がりとして今一歩だと思っていた。構成だったりMCだったり画としての美しさだったりが、どうしても素人臭く感じてしまうのだ。

しかし最近、「そんなことはない、もしかしたら凄い事なんじゃないのか?」と気が付いた。

ほとんどの場合、1本1時間の番組中で必ず魚を釣る。スポンサーメーカーの道具や紹介された船宿を使っているのに全く釣果が無かったら営業的に大変なことだから、なんとしてでも釣り上げて(人が羨むような)魚の画を撮る執念というか。番組は一本まるまるCMみたいなものだから「釣れる」ことは絶対なんだろうか。

魚はいつも調子よく釣れる訳ではない。むしろ釣れないことの方が多いことを知っている。それなのに出演者達はそれなりの釣果を必ず出す。(出すまで収録し続ける、のかも…。)自然相手でどうにもならないことがたくさんあるだろうに。

必ず「釣る」ということまでもっていくには釣り具メーカーや釣り人達の知恵と技の結集が必要でやらせの入り込む余地は一切無さそう。釣れるか、釣れないか、の差は誰が見ても明確で誤魔化しようがないからね。

だから、番組仕上がり的に今一歩だと思っても見続けて飽きないのだろう。もちろん釣りが好きだから、何度も見て一つ一つの技を知っていくことが楽しい、という前提があるが、それでもその技一つ一つが最新の研究結果だろうから、しかも実績付きで情報としての信憑性はすこぶる高いと思う。

一方、目覚まし代わりにonする寝室の地上波TVで報道バラエティが流れ出す。うとうとしてると耳に入ってくるのだが、これがなんとも緊張感がない。とってつけたような企画と、どうって事の無いまとめとコメント。

この差はなんだ!

8月
28
先日の集まりで

「吹奏楽好きじゃないと思ってました。」
「吹奏楽を嫌々やってる感、ありありでした。」
と、複数の人から別々に言われた。
もう20年近く以前の事なんだけど、みんなそんな風に思っていたなんて不覚にも今まで知らなかったなぁ。

吹奏楽という編成の持つダイナミックな表現力や繊細さ、どんな(音楽的)場面にでも対応できる柔軟さは、他に類を見ないと思っている。しかも演奏することへの敷居は低くアマチュア参加の扉は常に広く開かれている。
吹奏楽の可能性はあらゆる方向へ無限だと思う。その思いは今でも増大し続けている。

にもかかわらず、吹奏楽を狭い世界に閉じこめて重箱の隅を突きあっている世界がどうしても苦手なだけなんだ。
しかもとても排他的な事が多いから外から関わろうとする人は少なく、2重にその世界は守られている。
でもね、改めて言うけど吹奏楽そのものはやっぱり大好きなんだよ。
 

特に吹奏楽を一生懸命やっている若い人達を応援したい。
応援したいが、決して「やらされている状態」にはしたくない。ここが私の肝なんだな。

丁寧に説明してその通りにやれさえすればよい世界では結果が出るのは早いだろうが、説明が無くなればいずれ自分ではどうしたらよいか判らなくなる時が来る。自分で考える力を鍛えることが難しいからだと思う。
応援するということは代わりに「してあげること」ではなく自力で考え出来るように「支援」することで、さらに「支援」とは暖かく手をさしのべることだけではないと考えている。

「そんなこと自分で考えろ!」と冷たく言い捨てられた人達は多いと思う。
出来ていないことを「出来ていない!」と不機嫌に言い続けたし。
だから、私が吹奏楽を「好きじゃない…」「嫌々やってる感…」と感じてしまったのもしょうがないのかな。

特に若い世代ではその後どんどん自分の世界を築いて行くのだから、へこたれる事無く歩いていける力を付けて欲しいという思いからの「自分で考えろ!」だったんだけどね…。
 

でも、そんなことは今となってはどうでも良い。
なぜなら、その後の皆と話しをしていて「ちゃんと自分の足で歩いてきてる。凄いなぁ!」と思うからだ。限られた時間の中でそれぞれ充分にお話しできたとは必ずしも言えないけれど、きちんと自分自身を中心に据えて日々過ごしていることがとても良く伝わってくる。もちろん上手くいっていることだけじゃないだろう。画に描いたようなサクセスストーリーだけが生きることではあるまい。苦しいことも悩むことも自分自身の中で消化しようとしてる。それが私には「生きている」「生きようとしている」事を感じて心から嬉しい。

私のなかには「音楽とは生きることだ。生きる喜びだ。死を目前にして判った。」という師匠の言葉がいつもある。

WIND MESSAGE 2013 SUMMER

8月
17
ほ-ッ

このところ毎晩聞こえてくる。
ほ-ッ、ほ-ッ、ほ-ッ、…、ほ-ッ、ほ-ッ、ほ-ッ、ほ-ッ、ほ-ッ、ほ-ッ、ほ-ッ、ほ-ッ、…、ほ-ッ、ほ-ッ、ほ-ッ、ほ-ッ…、
(決して、ほー、ほー、ではなく、ほっ、ほっ、ほっ、でもなく。)
音程はなんとなくEかFくらい。テンポは52程度。

何年か前に聞こえていたのとは少し違う気がする。
正体を調べてみたら「アオバズク」らしい。
これもなんとなくなんだけれど、日によって聞こえてくる方向が違うっぽい。

生き延びることのできる環境がまだ残されている、ってことなのだろうか。

8月
13
入手完了

家捜ししてもどうしても見つからない本をようやく入手完了した。
何軒めの古本屋(例の大手チェーン店ね…)だったろうか。作者別ではなく出版社別の棚にあった。
他の探していた本もたくさん見つけたし、なにより思いがけず素晴らしい本も見つけたので大収穫であった。

その本の中にとても印象に残っていた一文があった。
高校生の頃(大学生だったかも…)読んだままだったのだけれど、先日なぜか突然それを思い出した。
どうしても見つけたかったのは、今さらながら正確に読み取りたい、読み取る必要がある、と思ったから。

以下、その一文の抜萃。

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一見、非ジャズ時のみっともなさを、ジャズ時でカバーできると思いたくなるが、これはだめだ。逆を考えてみればいい。ジャズ時の失敗をどうやってほかのところで取り戻せるだろう。

ピアニストを笑え!
山下洋輔 著
新潮文庫 版
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これは、「飯食っているときも風呂に入っているときもジャズだ」とのジャズ大御所の言葉に触れて「メシブロ・ジャズ」論を展開し、自身が「今のところ、この両方を統一することはおれには出来ない。」と言い切って終わるくだりだ。

もう一回読み返しても、昔読んだ印象の通りだった。読み返せて良かった。

この先、本の断捨離 はしないと思う。

8月
11
問題意識

先日このブログを知った。
紹介されていたのは、その内の8月7日の投稿
前後を読んでいると、その記事のアクセス数が爆発的に多かったらしい事が判る。そりゃそうだ、私だって見に行ったんだもの。

単に情報が欲しいだけだった場合でなければ、その話題になった記事以外の、少なくともその前後いくつかは読んで書いた人が何を感じ何を考えているか知らなければと思う。あればプロフィールも見るし他に参考になりそうな事も探す事にしている。
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ブログって、ちゃんとした会場でやるライブじゃなくて、路上ライブみたいだと思った。
路上だと、だれも知らないすっごい無名の人が勝手になんかやってたりする。
それで、ぜんぜん人が立ち止まらないで前通ってくだけが多いけど、たまに立ち止まってくれる人もいる。
だけど、最後までちゃんと見てるんじゃなくて、ちょっと興味もった間だけ立ち止まって、それで飽きたらすぐ立ち去ってく。
そういう感じにブログって見られる、って思った。
8月9日の投稿より引用
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その通りだ。私もずっとそう思ってる。FBにしても(やってないから解らないけどたぶん)Twitterも、その瞬間話題が流れすぐに埋もれていく。「あのとき誰が何て言ってたっけ?」なんて探すのは難しい。(何か方法はあるのかな?)
正しく理解できたかどうか不明なのにもかかわらず、確かにそう感じたという「印象」だけが積み重なっていく。

話題になっていた記事中いくつかのエピソードは、たぶんリアルな話しだったんだろうな、と思う。仮に創作だとしても実際、あり得る話し、だと思う。その上で、ブログ主の思いは理解できる。まったくその通りだと思う。

問題はその先。
「いいね」するのは簡単。で、どうやってそれを自分の物にするか。自分はどうするか。

追記
これは、FBで流れたこの記事に「いいね」したら自分のtopに流れなくなってしまった(なぜだろう?)ので、その覚え書き。

8月
07
怒りの夢

誰かと何かを差し向かいで話し込んでいる。BAND(吹奏楽)絡みの話しだったと思う。
音楽の扱い方だったか運営のポリシーだったか、内容は詳しく覚えていないのだけれど相手が気に触ることを言ったのだと思う。
真剣に心の底から怒りを感じ、怒りの大きさではっきりと目が覚めた。覚めてからも怒りで震えていた。
昨晩寝入りばなのことだ。

特にこの数年、夏の時期、自分の非力に対して悔しさを刻み、何とかしてそこから抜け出す事に傾注してきたつもり。
今年もやはりその悔しさは感じたのだが、どうやら一つ段階が進んだような気がする。悔しさと同じかそれ以上の怒りに似た感情が生まれてきたのかも知れない。

先の夢の話しは、その直前に考えていた事に由来してたのだろう。つまり吹奏楽コンクールの在り方とその審査に求められる内容について。

それは例えば、数年前トモダチ作戦で希望の光を乗せて東北の空を飛び回ってたヘリが墜ちたことに対する短絡的な感情とか、今でも汚染水が溢れ続けているのに、生活維持するには電気がたくさん要るから動かせ、とか、自分ちの周りでは止めろ、といったりするのと同じレベルのモノとして自分は捉えてるみたいだ。

もちろん全てがおかしな事になっているのではない。誠実に賢明に物事が進んでいることも少なくないはずだ。
しかし、この大きなうねりは止められないのか。加速していくだけなのか。そのうち呑み込まれてしまうのか。

本日は愛知県大会2日目。
私と関わった団体も出演する。ぜひ舞台の上で音楽の愉しみや幸せを感じることのできる演奏をと、願う。

8月
05
珍しいお客さん

2日連続でお出でいただいた。
すだれの内側、網戸の外側。
お友達のヤモリは良く夏の夜に訪れてくれるのだけれど、この方は初めてだ。
日中ずっとこのまま日差しを浴びていたらしい。お家に帰れなくなっちゃったのかな。
日が暮れてきて風がふきだしたら、それまで全く動かなかったのに頭をきょろきょろさせたり羽根広げてみたりあたま掻いてみたり、活発に動き出した。弱っているかも、と心配だったけどいつの間にかいなくなってた。
珍客


身体が透けて綺麗。体長6cmくらい。
調べてみたけれどコウモリは種類が多いらしく種は特定できなかった。

明日も来るかな。

8月
04
Firebird

家捜ししてもどうしても見つからない本を再度手に入れようと古本屋めぐり。
先日から機会を見つけて何件もハシゴしているのだがなかなか見つからない。
焦ることはない、そのうち見つかるさ、とお気楽ではあるのだが。

せっかく巡るのだからついでに他も物色する。
で、見つけた。手塚治虫「火の鳥」朝日ソノラマ版。
火の鳥


6冊。これ、古本屋にはなかなか無かったんだよ。朝日ソノラマ版。
少々やけてるし、破れもありかび臭くもある。1冊105円也。

ネットでは1冊¥1000くらいで売ってるのを見かけたことがある。

既にあるものと合わせて全9冊。
残るはあと3冊。(太陽編 上 太陽編 下 別巻 ギリシャ・ローマ編)

この夏じっくりと読もう。

7月
29
吹奏楽コンクール雑感

怒濤の7月が一区切りついた感じ。大変だったなぁ。(この後はまた別の意味で大変だ。)

嫌いだ嫌いだ、と言いながらも、吹奏楽をやるからにはコンクールを避けて通るわけにはいかなくて結局どっぷり浸かっている。そして見誤る。なんだかなぁ…。

今年は、コンクールに向けての練習や本番で起こりうるアクシデントやトラブルの続出だった。良いことも悪いことも。
一つの団体で色々起こっているわけではないけれど、私と何らか関わりのあるそれぞれの団体で次々と起こるから、自分が疫病神だったのではないか、と思い始めている。

部活動としての崩壊、練習時の内容(これはまさに自分の責任部分)、本番時の大きなミス、タイムオーバー、コンクール規定違反、審査員として得点化することの出来ない評価の悩み、自分達が感じる演奏の出来と実際の評価の乖離、などなど。細かいことを上げればまだまだキリが無く。
どれも現実。だからこそ、その中で一つ一つ出来ることを積み上げていくしかないのだろう。

でもやっぱりどうしても、「金」「銀」「銅」「代表」だけでは計りきれない音楽的充実度があるということは強調したい。いや、百歩譲って「活動的充実度」でも良い。
学校吹奏楽は「人を育てる」ことが第一義で、それを楽器の技術習熟度や音楽の完成度を通して評価していくべきだと私は思っている。巷でよく聞かれる「あそこから来た生徒は確かに上手いけど高校では全然続けられないんだよな。どうやらどこ行っても同じ。」みたいになっちゃうのは成果主義に傾きすぎて大切なことを忘れちゃったかぁ、なんて思うわけ。
とはいっても吹奏楽コンクールは音楽演奏のコンクールだから本番での出来が成績順位に直結するのは当然だし、努力の結果目に見える成果や評価が欲しいのも当然だ。そのバンドの背景を演奏から明確に聴き取って点数化することは難しいから、出てきた「音」が最重要であることには間違いない。

しかし。

例えばこんな例。
審査した大会で、ティンパニ4発を横一列に並べている団体があった。演奏方法はマリンバのようにサイドステップを踏みながら、しかもヘッドの真ん中を叩いていた。それではきっと難しいだろうなぁ。他の楽器も同様な事がたくさん見受けられたが、中にはどうやったらそんなに器用に吹けるの、といったような音も出てくる。が、全体の演奏クオリティは決して良くない。いや、はっきり言って悪い。したがって評価としてはどうしても高い点は付けられない。
でもね。そこで演奏している人達の情熱は感じるのですよ。きわめて演奏しにくい方法でそれだけ出来るようになるには大変だったろうな、と。ただ、正しいとされている演奏の仕方を知らなかっただけ。今の世の中、手を伸ばせば正しい情報なんてすぐ手に入れられるからそれこそ努力不足だ、といってしまうことも簡単だけど、言い捨てて「はい、おしまい」ではあまりにも無責任だと。
何より、どう考えても正しくない情報の元で、一生懸命やっている生徒達がそれに気付いたときの落胆を思うと、いまのその情熱だけでも評価してあげたいなぁ、と思うのだが、結局「講評」という点数化できない曖昧なところでフォローするしかない。

例えばこんな例。
長い時間かけて少しずつバンドの状況が良くなってきた。人数も増えメンバー相互の関係がとても良くなって、それに伴って練習の仕方や運営の仕方など高校生としての自主活動が充分成り立っていく良い流れにあった。楽器の技術はまだまだ発展途上だが、たまにとても良い音がして相互の関係が見える音楽的なアンサンブルが出来るようになった。で、結果は「えー、どうしてそうなっちゃうの?」と言いたくなる低い評価。出てきた音の評価だけだとしても私には妥当だとは決して思えないのだが、コンクールである以上それは致し方ない。色々な考え方がある中での審査なのだから。しかしそうなると生徒達は今までやってきた努力を全面否定されたようなとらえ方をしがちだ。音楽的な思考とその表出方法を学び拙いながら表現という領域にたどり着こうとしていた諸君が「認められなかったのだ」とそのプロセスすら自己否定をし始めたとしたらこれほど残念なことはない。

だからこそ「音」の渦から「音楽」をきちんと嗅ぎ分ける力が必要なのだが、私自身全然力及ばずであった。
それは、次々と出てくる結果でわかるはずなのだろうが、始めは、なぜそうなるのか良く判らなかった。

そんな折、あるJAZZユニットを知る。私の中学時の後輩絡みなのだが『中3の姉と小4の弟による小さなJazzユニット「サファリパークDuo」』のことだ。
ユニットの説明といくつか紹介されている演奏動画を見ているうちに自分の中で何かが弾けた。

「自分は大切なものを忘れていた!」

そう、コンクールの魔物に振り回され大切なものを見失ったまま臨んだ当然の帰結としてコンクールの結果が返ってきたのだ。
偉そうなこと言いながら結局「金」「銀」「銅」に振り回されていたんだ。
なんということだ。
もう一度最初からやり直しだな。みんな本当にゴメン。