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最近FBの投稿で月旅行の話題が出ていた。
その時、懐かしいなぁと以前の投稿を探したが、ついでに「なぜ月旅行を思い立ったか」を思い出した。
本当は月旅行ではなく金星旅行をしたかったのだった。たぶん何かで金星に行ける事を知って、でも金星は少し遠くて無理だったから他に行けそうなところを探し、月旅行なら案外簡単に行けると知ったのだ。
そこまで記憶が戻ったところで、にわかに頭の中で結びついたことがあった。
そうだ。2−3はやはり金星人だったのだ。
????だろうな…。
荒川アンダーザブリッジのこと。
まず映画版『荒川アンダー ザ ブリッジ THE MOVIE』を観て、アニメ版・第1期『荒川アンダー ザ ブリッジ』(第1話〜第108話)、第2期『荒川アンダー ザ ブリッジ×ブリッジ』(第109話〜第200話)を観て、TVドラマ版『荒川アンダー ザ ブリッジ』(全10話)を観た。
原作コミックはまだ読んでない。
「かっぱ」の村長とか体操服少女の金星人「ニノ」とかミュージシャンの「星」とか訳の判らないキャラクターがぞろぞろ出てきて、なんじゃこりゃ、と思っているうち、いつの間にかその世界に入り込んでいる自分に気付く。
実に面白い。実写版では小栗旬がどうしても村長役をやりたい!と立候補(本当らしい)してくるくらいの面白さ。
でも村長はかっぱ姿の特殊メイクだから誰も小栗旬だと気が付かないかも…
ストーリーの背景にはそこそこメッセージが込められていて、ただ面白いだけじゃない。
で、「私は金星人だ。もうすぐ金星に帰らなければならない」という2−3(ニノ=にのさん)の言葉が、私の知っていた金星と結びついて、妙に納得したのだった。そうか、「金星に両親がいて帰る事は可能だ」と。
ただ、問題があって、月が一つではなかったように金星も一つではないかも知れない。
あまり世話をしていないのにきちんと芽が出て花が付く。さらに株が増えていく。
自然は凄いなぁ、と毎年思う。
タンチョウソウ。白く小さく咲く花はもう終わってしまったけど、この柔らかい緑の葉っぱが何とも言えない。
ムラサキツユクサ。車を停める脇に自生している。紫に黄色の蘂が何とも可愛い。
イワチドリ。小さな小さな芋(地下茎?)一つからここまで増えた。といっても数はこれでは良くわからないかな。数えていないけど100株はくだらないと思う。それが次々に咲き出す。
ニオイハンゲ。花から上に跳ね上がった髭が良いねぇ。ウラシマソウとかと同じ系列なのかなぁ(ウラシマソウもあるんだけど今年はまだ花が付かない。株は増えたけどな…)。葉も綺麗だ。中央に着いているゴマみたいなのはムカゴ(?)で、これが落ちて発芽する。花は良い匂いがする。
決して派手ではない。だけどやっぱり良いなぁ。
あ、こちらも書き忘れ。
PENTAX K100Ds
レンズ SMC PENTAX-M 50mm F1.7
レッスンに呼んでいただける学校・団体が増えてきた。本当に少しずつなんだけど、でもじわじわと広がっているように感じる。
生来ずぼらな私だから熱心に営業活動を重ねているわけではなく(…それじゃダメなんだろうね…)、幅を利かせている大きな力にすがるわけでもなく(…それはしたくない…)、皆さんの口から口へと何かが伝わってこちらに寄ってくる感じ。本当にありがたいことです。
先日、新たなレッスンに関する打ち合わせをしているときに、生涯かけて成し遂げたいと思っている構想について大いに意気投合した。
その構想は、始めの着想から既に大きな状況変化や方向転換を何度もしているのだが、根底に流れる部分については全く揺らいではいない。それどころか益々確信を持ってパワーアップされている。
その最も大切な部分での意気投合なのだ。これはレッスン増加と相まって、とてつもない力になる。
また熟成がさらに深く進んでいく。
WEBサイトに出会った。久しぶりだ。
ここにも書いたけど、始まりはFB知人のシェア記事。
へぇーと感心して、そのまま「友達」にしていただいた。そしてタイムラインに記事が並ぶようになったのだが、大半はtwitterから流れてくる一見脈絡のないつぶやき。でもその断片の中から時々見つかる興味深い事々。
そしてすぐさま底なし沼のように広がるブログに誘導された。
片っ端から読んでいきたいという衝動に駆られるがなかなかどうして奥が深く、これからじっくりと進んでいくことにする。
いくつかの気になる記事は出先で時間のあるときに読み返そうと最近導入したiPod touchにテキストファイルで取り込む。
その中で、先ほど行き着いた記事。タイトルは「努力する人間になってはいけない」
読みながら、自分が様々な変遷の中で少しずつ変化してきていることに気付く。そして今このタイミングに至って劇的に変わるのではないか、という気がしてきた。いや単に「変わりたい」という希望が明確になっただけなのかも知れないが。
少なくとも、焦げつき固着していたのであろう自分の思考が動き出した感はある。
実は先日、熊野に詣でた。三山フルコース。
帰り道、信号で止まっている私の車の直前を、道路の左の端から右の端へチョンチョンと飛び跳ねながらカラスが横切った。
カラスに呼ばれたような気がして何度も繰り返し熊野に行っているが、今回は10年程前に始めて熊野詣でをしたときのような晴れやかさはなく、なんとなくただこなした感じで帰路についていた。だからカラスを見た時も「おやっ」と思っただけで別段どうって事はなかった。
が、妙に気になっていたみたいで、上述のブログ記事を読んでいたときにパッと何かがはじけた。
なるほど。そういうことか。
と感心していたら一つ仕事が来た。
そうだ。そういうことだ。
…きっと…。あ、決して神がかりって事ではないのですよ。
FB絡みでなかなか興味深い文章に出会うことが多くなった。
しかし、FBへの投稿はアカウントがない(出先でログインするのもメンドクサイ…)と見ることは出来ないし、日にちの経過とともにその投稿はどんどん埋没しすぐ行方不明になっちゃうんだな。
先日見つけたのはこれ。
まえがき 「先生、先生」と言われ続けて何十年にもなる。そうすると「先生」は大体がバカになる。先生がバカになるのにはわかりきった理由がある。自分より少しはバカな人(学生たち)を相手に教え続けるからだ。だから少しはバカな人はどんどん…
芦田 宏直さんの投稿 2013年3月14日木曜日
いきなり
〜
「先生、先生」と言われ続けて何十年にもなる。そうすると「先生」は大体がバカになる。
〜
と始まる。まったくその通り!と自戒を込めて思う。
他も少し見てみたけど、共感する部分が多そうだからもう少し深くさまよってみよう。FB見られないときのために前半部分をここに覚え書きしておく。
芦田 宏直
まえがき
「先生、先生」と言われ続けて何十年にもなる。そうすると「先生」は大体がバカになる。
先生がバカになるのにはわかりきった理由がある。
自分より少しはバカな人(学生たち)を相手に教え続けるからだ。だから少しはバカな人はどんどん賢くなっていくけれど、自分自身はバカなままにとどまる。自分のバカが学生にばれそうなときに、学年が変わり、入学生と卒業生が変わり、学生は消えていく。先生のバカは多くても4年持てばいいわけだ。先生のバカはそうやって二重に守られている。
百歩譲って、“教え方”はどんどん賢くなっていくと言ったところで、知っている内容が変わらない点では一緒のことだ。教え方が変わることによって教える内容も変わるともっともそうなことを言う人もいるが、それは“教え方”という言葉の乱用に過ぎない。
「教育」というのは、“教え方”の研究(文科省は「教育研究」という便利な言葉をよく使うが)でもって教える内容を棚に上げるシステムだと思った方がいい。「先生」と言われる以上は、それくらいの恥を覚悟しないと。
昔、トロツキーは、ロシア共産党はすべてを変えたが唯一変わらなかったものは、そのロシア共産党自身だと言ったことがある(埴谷雄高は何度もこの言葉を紹介していた)。前衛主義や啓蒙主義が破綻するのは、自分が考えていることについていつも「知ったかぶり」をするからである。
前衛主義や啓蒙主義の本性はいつも軽薄で保守的なものにすぎない。映画『ミッドナイト・イン・パリ』に嘲笑的に出てくる大学教授やアメリカ文化もそれと似たところがあるのかもしれない。
ラテン語の格言でDocendo discimus(ドケンドーディスキムス)という言葉がある。「教えることによって学ぶ」という意味だが、これは『学び合い』教育とは何の関係もない。いつでもどこでも最高判断、最高認識が露呈する仕方で学ぶ者に接しなさいということだ。学ぶ者の程度を考えることは教える者自身の堕落に他ならない。留保なく教えることができるときにこそ、〈教育〉と〈研究〉は重なることが可能になる。
「教えることによって学ぶ」とは、教えることによって自分を空っぽにするほどまでに最高判断で語りなさい、学ぶ者自身が一から学び直さなくてはならないまでに教えなさいということだ。
私が大学の最初の教壇に立ったのは400名の受講者のいる階段教室だったが、一コマ目で話すことが尽きてしまったことがある(もちろん目一杯、最高判断=最高認識で話そうと思ったためだが)。そのとき私は、10年以上(たかが10年程度という意味でもあるが)哲学の勉強に集中してきた私のストックの貧弱さに自己嫌悪しきりだった。
トークというのは、研究者にとって通俗の極みのようなところがあるが(そんなものは政治家にでも任せておけというように)、時として書き言葉よりははるかに圧縮率が高いことがある。500枚の論文の内容も90分のトークで語り尽くせることがあるように。書き言葉は、ストックを積み重ねてどんどん観念的、体系的になってしまうが、トークは一言で認識を地べたに引きずり落とすことがあるのだ。若輩者の私にとってストックが足りないということはもちろんことのことだが、トークの解体力というのは、とてつもなく私自身の「学ぶ」姿勢を揺さぶり続けたと言える。
後略
後略の部分(こちらが主体だと…)も、とても興味深い。