2月
27
広報誌

郵便受けに毎月入る「広報ながくて」。役場発行のA4版行政広報誌だ。長久手町時代からずっと見てきた。端から端まで読むと案外面白い。
その2013年3月号が本日投函されていた。
広報ながくて表紙


郵便受けから取り出しすぐに表紙を眺めた。最近、我が長久手は町から市になりさらには市長も替わり、なにやら広報誌も変化してきているのでいくつか注目していた部分もあったので。
そして「ほぉー!」と思った。
「写真で見るながくて」という見出しで先日の吹奏楽フェスティバルの文字が大きく並んでいる。

続いて表紙を一枚めくりさらに吃驚。見開き全面2ページにわたって大きな写真が飛び込んでくる。
広報ながくて3月


今年で9回目のフェスティバルだけど8回目まで広報ながくてには数行記事が載る程度だったと思うのだが…。
今回は何だかすごいな。大きく載ったことは携わっているすべての皆さんにとって素晴らしいことだ。

だが、今までとの扱いの違いは何なんだろう。
一方では、次のフェスティバルについて「第10回で節目ですから…」という語尾が微妙に曖昧になる感触があって、良い意味でも悪い意味でも「どうなるのかな?」と思っていたのだが。

このこと以外にも様々少しずつ変化の兆候があるようなので、とりあえず、ずっと温めてきた構想について動き出す時合いかも知れないな、とお気楽に考えることにしてみる。

1月
31
きのこ?

あはは。なんだこれ。
面白い形。
三重県の伊賀上野(上野公園:伊賀上野城)にあったよ。
俳聖殿


そんなに古いものではなく、1942年(昭和17年)築。

「俳聖殿」という松尾芭蕉生誕300年を記念する下層八角形平面、上層円形平面の木造建築。屋根は桧皮葺。
2008年に三重県の有形文化財(建造物)指定、2010年に国の重要文化財に指定。
どうやら、このユニークな屋根は芭蕉の旅姿を模したデザインらしいです。

1月
04
365分の1

12月31日の夜が明け元旦の朝が来る。
そうすると新年だ。

とはいっても年を重ねるにつれ厳かで特別な感じのするお正月感は薄まっているような気がする。
もちろん大切な1年の始まり日なのだから、ある種の線を越えていく緊張感やそこまで来た達成感のようなモノ、さらにはこの先の期待感などは依然としてある。

しかし、数日経った今日1月4日でも元旦と同じようにかけがえのない大切な1日であることには変わりない。
正月という特別な日だけではなく日常にあるほんのちっぽけな一つ一つ幸せの積み重ねが、やがて大きな満足感に繋がっていくはずだと思う。

正月だからこそ出来ることと、正月でも忘れてはいけないことと、両方あるんだなぁと思うが、ことさら日常として大切なことを忘れないでどんな日も365分の1年である1日を大切にしたい。
 

遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。

12月
31
新しい年が

来るまであと少し。24時間を切った。

今までとりあえず何とかつないできた。
つなぎつつ展望を見据え次への力を蓄える。
色々考え、少しずつ実践し、悩みもがき、途方に暮れ、また始めからやり直す。
とはいっても、端から見たらほとんど何も動いていないよう、死んだふりに見えるのだろうな。

苦しくない、と言い切る自信はないが、それでもその中にも大小様々な喜びはある。

今まで気が付かなかったような喜び…。
気が付かなかった、というよりまったく発想出来なかったんだろう。最近特に大きく何かが変化し、思いがけないところでの精神的充足感の感度は飛躍的に高くなった。

来年はどんな年になるのか。
どんな年であろうとも受け止めてその中で精一杯生きたいと思う。さらに多くのことに喜びを感じることの出来る自分になりたいと思う。

そして世の中すべてが幸せになるように心から願う。

皆様にとって良き年となりますように!

12月
26
湯たんぽは

スゴイ。
ただ、お湯を入れて布団の中に潜り込ませる、というシンプルこの上ない代物なのにとても強力である事を体感。
暖をとる様々なアイテムの中でも、この「あったかーい!」と幸せを感じる感覚的な効果はダントツなのではないかなぁ。
朝になってもまだほんのり暖かく感じるのは気のせいか…。

もう手放せないだろうな。
我が家での愛称は「ゆたぽん」に相成りました。

12月
20
師匠と弟子(3)

父性についての考察シリーズの最後(になると思う…)。

「抗うことの出来ないものの代名詞」のうち、今の日本では存在が薄いけど、諸外国では案外大切に重く人々にのしかかっているモノがあると思う。
…といっても推測でしかないのだけれど…。

人々の行動の規範や制約となるもの。探してみたらやっぱり以前に書いていた。ここの前半部分だ。
実体のある具体的な様々な父性の、さらに上の存在。「神」と呼ばれることが多いのかな。

人を越えたところに在る物。それが絶対的な存在として君臨しているところでは、一見父性が不足しているように見える社会においてもなんとかなっているような気がするのだが。

あ、そうそう。
父性のことばかり書いてきたが、もちろんその対極としての母性も大変重要である事は忘れてはいけない。
自身の前に立ちはだかる父性に対し、母性とはすべてを許し受け入れ与える存在と考えたい。

結局はそのバランス。両輪必要と言うこと。

12月
19
師匠と弟子(2)

地震・雷・火事・親父
抗うことの出来ないものの代名詞。
子供の頃よくこうやって恐ろしい物を例えるの聞いた。自分も良く口にした気がする。

大自然とか災害とか自分の親とか。どうやってもその関係を断ち切ることは出来ないのをいいことに自分の前で行く手を阻む物。
だからこそ如何にしてそれを越え、克服し、やり過ごすか、知恵と工夫を巡らす。
あるいは、「従わない」という意志を示すために自暴自棄になったりする。
そして、それら行為について「若さが故の…」という言い訳もある程度通用した。
なぜなら、その中では後に立派に一人前になっていくことを知っているから、厳しいながら暖かく見守っていける寛容さを回りが持ち合わせていたからだろうと想像する。

ここで書いた【「父性」と読み替えて良いのではないか】というのは、その「自分の前で行く手を阻む物」、もしくは「そう感じさせる何か」、それから「厳しいながら暖かく見守っていける寛容さ」が父性なのではないかと思ったのだ。
それは物分かりが良くいつでも自分の味方だと思わせる類の物ではない。いわば逆境の素だ。畏怖を抱きつつもいつかは越えてやるという目標、と言い換えて良いかも知れない。
その環境が人を育てるのだということ。<< 「当人が不安定な状況に耐えられるかどうか」 >>という事(ストレス耐性ですね)ですら、その環境の中で育つのではないかと思う。

それが、今なかなか容認されない。

それは、既に抗うことの出来ないものは克服したのだ、という人間の傲りかも知れないし、単に不快なモノは抹消すべきモノとする勘違いなのかも知れない。
とにかく「オヤジ」はいつの間にか、物分かりの良い友達みたいなおとーさんが理想となって、地震・雷・火事の次には並ばないご時世になった。

で、人が育つはずの<< 放っておいても自発的に学ぶような場 >>が減り、<< 不安定な状況にいるという危機感が、学びの効用を飛躍的に高める >>という認識は少なくなり、<< 自発的な学びとは、与えられるものではなく、自ら問題を見つけることです。何を解くかではなく、何を問うかです。それを習慣とするためには、好奇心や感受性を研ぎ澄まし、今までの自分を壊して、新しいものを受け入れ続け >>ることが難しくなっているのだと思う。

−−念のため。決して現在の「父親像」を論じているのではなく、世の中の「父性」という機能が働くなっているのではないか、と心配している。−−

12月
17
師匠と弟子の

関係についての考察記事をFBから知った。
「Switch Sign」というサイトのこの記事

最近FBが情報源ということが多いな…。

<< だからこそ、師匠は教えない。弟子が苦難の中で悩み考えることこそ、学びを最も充実させるのを師匠は熟知しているのです。 >>

かゆいところに手が届く親切丁寧で居心地の良い学びとはまったく正反対な方向だから、どれくらい世間が評価するのか興味のあるところ。
私自身は、こんなのとかこんなのとかこんなのとか、でずっと考えていることなので、なかなか共感する考察なのだが、読みながら「ああ、そういうことかも…。」と考えが広がっていった。

本文中、<< 師匠と弟子のモデルは、弟子を得体の知れない不安定な状況下に踏み止まらせる場のデザイン >>という文言が出てくるが、これって「父性」と読み替えて良いのではないか、と。

12月
07
昨日見つけた

言葉。

『素晴らしい発明は日々のカイゼンからは生まれない。大胆な発想の転換からのみ生まれる。』

NHK 地球イチバン 「地球でイチバン未来が見える研究所」(MIT マサチューセッツ工科大学)

番組を見ていて、もう一つ感じたこと。
『捨て去る勇気』

何故だか良くわからないけれど、少し元気をもらった。

11月
30
FBで

知人がリンクをシェアしていた動画。
私はここに動画を張り付けようと思う。

あるピアノコンクールでの講評ということだが、大いに共感するお話。一つ一つ「そう!そう!」と頷く。
私が自分なりに言葉を探して様々な場で音楽好きの若い世代に伝えようとしてきた、まさにそのものだと感じる。
言葉の選択のしかたによってこれほど説得力を持つことに感嘆し、少しでもそれに近づけるようにしなければと思う事しきりである。

だが、しかし。
このお話しをする状況というか背景というか、つまり、きっとその場でその内容を話す必要性があったのであろう、ということについて少しとまどうのだ。

くどいが、もちろん内容についてではない。内容はすべて共感できる事であるのは前述の通り。
権威のある「音楽コンクール」という場において、音楽として当然前提になっているはずであろう内容を殊更強調する事にとまどうのだ。

先日ここでこんな記事を書いたが、その思いと実はまったく同種の感想だ。

この2つの事例は何に警鐘を鳴らそうとしているのだろうか。
本当は、自分なりに見えていることなのだが、なかなか他へ伝えることの出来る「言葉」としては浮かび上がってこない。
もう少し心の中で熟成させ当を得た言葉が見つかったらここに書きたいと思う。