6月
02
国民総幸福度

3月11日をきっかけに、人の幸せをもう一度考え直す気運が高まっているそうだ。
日本だけではなく全世界的な動きだそうだ。
やはりブータンでの幸せの尺度を取り上げていた。

「国内総生産(GDP)が必ずしも人の幸せを計る指標ではなくなってきた」というコメントだったが、そもそもGDPが人の幸せの指標だった、という世間の認識が私には少しびっくりだ。

で、国民総幸福度。
その指標をどう作るかが課題らしい。しかし施設の数や人の数など、数が増加しても、どうも幸せ感にはつながっていないようで、幸福度の数値化は一筋縄ではいくまい。
人との繋がりの密度が高い方が人は幸せや安心を感じるらしい、と報じていた(そりゃ当然でしょ、と思う…)けれど、誰かが「日本における人の幸せとはこういうモノだ」と定義したとしても、なんの役にも立たないのではないかな。

幸せ感なんて、人によって全く異なるのだから。

それでも行政とかたくさんの学識者とかが幸せを数値化し可視化することに躍起になるんだろう。
そしてまたその数値に翻弄されていく繰り返しな気もする。

6月
01
雨が

降る。
既に梅雨入りしたのだから当然か。

我が家の前の田んぼは全て今年は耕作しないようだ。
代掻きやら整備やらはされていなく、雑草の中に少しだけ雨水がたまっている。

毎年窓を開けるとうるさくて、電話してると「後ろの雑音何?」といわれるほどの蛙は今年はない。
行き場に困っている様子で、たまに「げげげ」と聞こえるが後が続かない。
ケリもどうするのだろう。子育て中に人が近づくとぐるぐる空を旋回して警戒してうるさかったやつだが。
水の入っていない田んぼにカルガモが降りてついばんでいるらしいが、もちろん泳げない。
数年前までは夏の夜にフクロウの鳴き声すら聞こえてきた場所なのに、万博工事以来、あの「ほー、ほー、」はない。

残念だと思う。
 

とはいっても、これはまったく人間の勝手でそうなった。
蛙もケリもカルガモもフクロウも、そうなってしまう原因が人間だなんてこれっぽっちも思っていないだろう。
ただ「なんだか変だなぁ…」だろうなぁ…。

うん…。
私は蛙でもケリでもカルガモでもフクロウでもない。
かろうじて何でそうなってしまうかの考察は出来る。
 

まだ雨は降る。

5月
21
みるみる

変わっていく子供達。

なぜか。
・今までその状況になかった、というだけのこと。

なぜその状況になかったのか。
・単にオトナの事情。(もちろんやむを得ない場合も…)
 

みんなもともと素晴らしい力を存分に持っている。
発揮させたい。

5月
09
いつの間にか

黄金週間も終わり、とうとう夏日になるような頃合いになった。

そこここでは「カダイキョク」と「ジユウキョク」にまみれ出すんだろうな。
ああ、大変なことで。
…どこでどう間違ったのか。それとも始めから歩む道がまったく違ったのか。

−−
このところ意外な場所で何度も感じていることがある。
「人って誰か(何か)を支配したいんだな」と。
常に誰か(何か)に対して優位に立ちたい気持は、意識無意識関わらずかつて自分が支配された感覚の裏返しなんだ、とも思う。
その事を否定するつもりはさらさら無いのだが、イジメとか虐待とかの方向に作用していくのは避けてほしいと強く願う。
−−

最近よく耳にする「自分達はまだ良い方だ。他ではもっと大変な思いをしている人たちがいるんだから…」という言葉。
大変な思いをしている人を慮っているように聞こえる(いや、もちろんそれ以外の意味合いは皆無だろうと確信はする)けど、裏返すと「あそこまで大変でなくて良かった」という他と比較して優位であるというような閾下の安堵感が見え隠れするのは考え過ぎか。
ある特定の地方のナンバーの車に「地元へ帰れ」と落書きされてしまう悲しい話が現実にあるのならば、それは自分の優位性を確認し誇りたい作業に他ならないのではないか。
果たして、そんなどんぐりのめくそはなくそみたいことで本当に幸せは獲得できるのか。
今まで信じられてきた様々な価値観が液状化でぐらぐらになってきたように感じる今、もう少し支配とか征服とかのような他からの優位性と、人の幸せとの関係について考えを深めたい。

このことは昔からずっと心の中にくすぶり続けている「コンクールだから勝つためにやる事」の疑問についての考察にもつながると思っている。

4月
28
きっかけは

何でも良いと思う。
コンサートに足を運んだりアウトリーチで出逢ったり面白そうな話を聞いたり。
テレビのバラエティで知ったり一日体験をしたり。
「知らない」ところからは何も始まらないからそのとっかかりはとても大事だと思う。
しかしさらに大切なのは、そのきらめきのような一瞬を日々の生活の中で日常化していくこと。

「知らせた」たあとは「育てる」こと。
知らせっぱなしではなく。
それを続け膨らませることは膨大な時間と労力が必要だがそれを惜しんではダメだと思う。

「育つ」のではなく「育てる」こと。

4月
14
テッペンカケタカ

朝まだ寝ぼけているときに微かに聞こえた気がした。

確かにソメイヨシノの花の頃合いは終わりかけ、至る所青葉の季節だ。
うーん。カツオ茶漬け食べたい。

そうそう、カツオの刺身はショウガ?カラシ?わさび?

4月
09
個人の力と

組織の力。

このひと月ほど様々な事象を見て感じていること。

とにかく人の力はすごい。
凄まじい状況の中、老若男女を問わず一人一人がしっかりと生きて他人を思いやり助け合う。
破壊や絶望を乗り越え前に進もうとする。

ようやくがれきが取り除かれた畑だというのに、もう耕してジャガイモの種芋を植え付けている映像。
漁師が魚採りに海に出るのに必ず船とエンジンが必要なんだ、だからこの工場を一刻でも早く再開するんだ、という船舶修理工場主の話。
自分の育った町だからそれを守るために被爆覚悟で現場に行く、という福島原発作業員の話。
 

一方、組織の力はなかなかそうは見えてこない。特に大きくなればなるほど。
一刻を争う状況の中、なかなか方向が定まらない。

−全て流された会社の社員雇用を守るための支援助成を受けたいが…。
  それには社員のデータが必要です。
−流されちゃったんだから有るわけ無いでしょ。
  支援するために書類データは必要な決まりなんです。
−…。

責任者誰や!出てこい!と言いたくなる場面は数限りなく。
確かに大きな責任が伴う決定はそこに至るまでのハードルが高いのは判る。しかしそれでも、まず始めに逃げ場作り、アリバイ作りありきに感じてしまう。どうしても責任逃れに見えてしまう。(もちろん担当者の個人レベルではどうしようもない事だろうとは重々承知なのが。)

一般個人もしくはそれに準ずる小さなコミュニティの範囲ではそのリスクと責任を伴う重大な決定をいとも易々とクリアしているのに。

このようなときの組織の役割っていったい何だろう。 

4月
03
桜祭り

近所の公園は昨日今日と桜祭り。
しかし夜間照明は無し。
肝心の桜はまだ三分咲き程度かなぁ。

一方では今年初のツバメを見た。
椿の花にヒヨドリが来て騒がしい。
そろそろツグミは旅立つか。

4月
01
4月

知らなかった世界。

でも、案外想定内。
違う種類の疲れを知る。心地よい。

それから、ほんの少しだけ世の中に役に立ったかもと思う事があった。