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その他
有名だった師匠。
「怖くてしょうがない」という人をたくさん見たし、その反動で聞く耳を持たない人も多く見てきた。誤解されることは多々。
でも、一度懐の中に入ってしまうと決して「怖い」や「身勝手」ではないことが良く判ってくる。
「単純に言いたいこと言っているだけじゃないんだぞ。チャンとその解決方法を教えられないときは決して言わないんだ。」と、密かに私に教えてくれたことがある。
知ってからその線引きを厳格に守っていることは良く分かった。
「判っているのに言ってやらなければむしろ失礼じゃないか」と。
そして「どうしたら良いのか判らないのに軽々しく言っちゃダメだ。それは無責任だ。」
それをなかなか理解してもらえないリスクは百も承知だったようだ。
言えば「出る杭は叩かれた」と思われ、言わなかったら「相手にもしてくれなかった」とかなんとか。
実はとっても繊細な人で、こんな事もあった。
ある有名なプロバンドの委嘱曲(5作品あるシリーズ作品のうちの一つ)の録音(超有名な棒振氏と超有名なプロのバンドの演奏)が上がってきて「おぉ、録音来たぞ、聴くか?」と一緒に聴いていたのだが、聴きながらどんどん顔が曇っていき「なぁ、俺の曲が悪いのか?譜面の書き方が悪いのか?」と私に何度も尋ねるのだ。
その後も何度も聴き直して、その都度黙って考え込み何人にも同じ事を尋ねたようだ。見るのが辛かった。
私たちが「いや、これは演奏が悪いんです。」といっても「いやいや、この棒でこのバンドだぞ?」とうなだれるのだった。
ケーブルテレビに釣りチャンネルがあって、その中の番組の一つに四国の奇才と言われる釣り名人の番組がある。
初めて番組を見てその人の言葉を耳にした時は「何言っているのか良く分からない??」「こんな乱暴なこと言って良いのか?」とはらはらどきどきした。文句も多いし身勝手だし。言いたいこと言い放題だし。
しかし何度もシリーズで番組を見てその世界に慣れてくると、細やかな気配りが随所に溢れてとても暖かい人であることが判ってくる。
磯の名人のようだが、鮎も渓流も筏も何でもやる。いつも同じメンバーでチームを組んで本当に楽しそうに釣っている。
なかなか語法を理解するのに骨が折れるが、雰囲気だけでも案外伝わってくるのが面白い。
言葉尻からだけでは真意は分からないのだな。
以前からもそうなのだが最近特に言葉の深さに対して慎重になろうと思っている。
自分が発する言葉は特に。
しかし、それがとても難しい。
ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンの戯曲「ペール・ギュント 」の劇音楽。グリーグ作曲。
冬も春も、そして次の夏も過ぎ、一年がまた流れ去る。
でもわたしにはわかっている、あなたはいつか戻ると。
だからわたしは待っていよう、あなたに約束したとおり。
放浪の旅に出たままのペール・ギュントを待ち続けたソルヴェイグ。
何十年もたった後に戻ってきた彼に、既に白髪の老女となったソルヴェイグが歌った子守歌。
ソルヴェイグの腕の中でペール・ギュントは本当の安らぎを見つける。
なんと苦しくはかない歌だと、ずっと思っていた。
「私の時間を返せ!」って思わないのかなぁ、と。
しかし最近なんだか思いが変わってきた気がする。
案外苦しくはないのではないか、と。
まだはっきり説明出来ないけれど。
啓蟄の今日、春を待つ事をつらつら考えていたら、こんなところに行き着いた。
行った。
本当は熊野三山に行こうと思った。
ある時をきっかけにコンスタントに訪ねている。
昨年は正月に行ったが今年はまだ行っていなかったのでずっと気になっていたのだ。
最近カラスの鳴き声が妙に気になることが多っかたし。
しかし悩んで悩んで今回はやめにした。やっぱり少々遠いからね。
とはいっても気持がお出かけモードになってしまったので、とりあえず車に乗って家を出た。
琵琶湖に行って鳥でも眺めるか、良く分からないけれど珍しい猛禽類も見れるかも知れない、などと妙にテキトーなことを考え高速道路を西進した。
実は猛禽類の識別は難しく、ほとんど素人の私にはさっぱり判らない。空高く飛んでるし早いし。何が珍鳥かすら判らない!?
なんとなく米原で北陸道に入りそびれ、だったら「ひこにゃん」でも見るか、と名神彦根で降りた。
ICを出たすぐの所に「多賀神社」の看板があって、当初のお詣り気分が再度沸き起こり「ならば!」と行ってみた。
立派な神社だった。
門前が鄙びていてまた良い。開けている何軒かのおみやげ屋の前に人がたまっている。
4〜5台が入る駐車場に車を止める。
「駐車料金はお気持ちをお入れ下さい」とかいた札が下がっている。その素朴さが良い。
料金箱になっている郵便箱にチャラリンとコインを入れる。
大きな石の太鼓橋をよじ登って渡り本殿にお詣りする。
よく見ると左右の脇に幾つも小さなほこらがあって、そのうちの一つは「熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社」と札が立っている。
ありゃ、こんなトコに熊野三山あるぜ。これはちょうどよい!とお詣り。
もちろん他の(木花咲耶姫とか恵比寿とか)も全部きちんとお詣り。
そういえば神社の入り口に「おいせのふだ あります」って張り紙があったっけ。
便利な世の中になったもんだ(…って昔からだったんだな)。
書籍やらコミックやらを探す事が最近多くなった。
今までコミックを読む機会は決して多くなかったのだが、古本屋の棚にずらっと並んでいるのを見て今さらながら気が付いた。
映画やTVドラマ(実写もアニメも!)の原作はなんとコミック漫画が多いことか。
色々読んでみて「なるほどね」と納得したことはたくさんある。
まず、話が面白い。
ジャンルも作画も本当に様々だが、話が良くできているものが多い。もちろん素材そのものも話の展開も。
漫画だから当たり前だけれど既に画面のカット割りがしてある。良い作品であればあるほどその構成が素晴らしい。
だから、映像作品に翻案するのは案外簡単かも知れない。活字だけの本をビジュアル化するのと違い映像イメージは既に具体化されているから。セリフもほとんどそのままで大丈夫そうだし。(イメージが固定がされてむしろ難しい場合もあるだろうか。逆に活字だけの場合はそこの自由度がとても高い。)
コミック漫画作家の仕事内容って締め切りに追われ、構想を錬る事と絵を描く作業時間との戦いでとても壮絶そうな感じがするけれど、だからこそ、作品が作者の手を離れ様々な展開をしていくときに、そこに携わる人たちは楽が出来るんだな、と思ってしまうなぁ。
脚本も演出もキャスティングも、もう既にビジュアルとして具体化されたお手本がそこにあるのだから。
率直に言うと、いまのご時世、映画もTVドラマもコミック漫画原作がなかったら何も出来ないんじゃないの、と。
であるならば、今の世の中の風潮や流れを作っているのはコミック作家ということになるゾ。
実は、一番すごいのはその人達かも。一番の始まりを作っているのだから。
漫画家志望の人たちは、そもそも絵を描くことが入り口だったのだろうか?それともたまたま表現手段が絵を描くことだったのだろうか?
絵が上手い能力と、話の構想能力は必ずしもイコールではないと思うのだが。
修行していくうちにどこかでそれが一致する、あるいは、漫画界にはドラマを描く能力に長けた人が集まる仕組みでもあるのだろうか。
を探す。
これがなかなか無いんだな。
自分の姿で、演奏中だったりレッスン中だったりするやつ。
普段、写真撮る準備して練習することはまず無い。
ホールなどで練習するときは、スタッフが撮ることもあるけれど舞台上の演奏者と同じ目線でカメラを構えることは少なく、客席からの場合が多いかな。
特に本番の写真はない。正面から撮ることはまず不可能だから、あったとしても後ろ姿。せいぜい舞台の袖からの横顔が精一杯。
演奏中でなくても。
よく本番後など舞台裏で「記念に一緒に写真撮ってください」になることがあるが、その写真がこちらの手元に届くことはまず無い。
いままでたくさん撮ったと思うんだけどなぁ。
特に、カメラがデジタル化してからは皆無に近い。
せいぜい「ほら、これ!」といって携帯やPCの画面を見せてもらってお終い。
それぞれが記念に持ったままなのだろうか。(それとも速攻で削除されてるか?)
探してみて、あらためて無いことに気が付いたのでした。
この世の中では様々なことが起きる。至極当然。
起きたことを知りたいと思い、知らせたいと思う。これも当然。(もちろん知らせたくないという場合もあるだろう。容易に想像できる。)
しかし、なかなかうまくいかない。
…マスコミの話ね。
問題の一つは知りたい側。「何を」知りたいのか。
知るべき事を見極める力が足りないと感じる。
これは永遠の課題かもね。いつでも人は無責任な野次馬になりたいから。
もう一つは知らせたい側。「何を」知らせるべきか。
難解だから避ける、とか、食いつきが良いから大げさにするとか。
その段階で既に事実を知らせる意図を逸脱してしまうことが増えてきたと感じる。
さらには、解説やコメントと称して客観的な事実ではないことも同時に知らされる。
玉石混ざっていることが無条件にダメなのではなく、区別がしづらく恣意的に誘導されていく危険があることが問題だ。
CMだったら必ず「これは個人の意見・感想です。」という但し書きがテロップになるよ。
「報道」と「ワイドショー」。
送り手側は、その区別を自分の都合で曖昧にし、もとより受け手側は野次馬根性で自分にとって特に興味を持った(解説委員とかコメンテーターの)私見を客観報道と勘違いし、混沌としていく。
例えばこんな事。
少なくともNHK夜7時のニュースのトップは、大相撲の不祥事ではなく、エジプトの状勢であって欲しい。
(大相撲不祥事報道は必要ない、のではなく、限られた時間の中なのだから優先順位よく考えて欲しい、ということだ。)
余談ではあるが、そもそも「大相撲はスポーツなのか?」という疑問もある。
国技?伝統芸能?
いつだったか女性知事が表彰式の土俵に上がれなくて問題になったが、スポーツの世界でそんなことあって良いの?「聖域だから女人禁制」って。
スポーツではなく伝統文化と考えると、それもありか、と。いろいろと。