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読み手を失ってWIND MESSAGEの体を為さなくなってきているような気もするなぁ、最近は。
ま、いいか。このまま私自身のための覚え書きで進めていくことにしよう。
ポツポツ見に来ていただける方々、私のつまらない独り言に付き合わせてしまって申し訳ありません。
ということで。
大掃除の最中なのだけれど、思いがけないものが出てくる。(欲しいモノが出てこないのは前に書いたとおり)
今度は何かというと、手紙が出てきた。生徒からではなく生徒の父親からのものだ。
読み返して当時を鮮明に思い出した。涙流しながら何度も読み返したものだった。
当時、とっても苦しかったんだ。だからその手紙をもらったときは本当に嬉しくて支えになったんだ…。
昔を振り返って思い出に浸るわけではないのだけれど、なんだか再確認できたような気がして10年以上経った今も嬉しい。
文字通りWIND MESSAGEを生徒に配布し、その反応の手紙だった。時代は中身を読めば判るかなぁ?日付もあるから。
配布したMESSAGEはこれ。
そして、今回見つかった「それに反応して届いた手紙」を全文載せてしまおうと思う。時間がだいぶ経過しているから大丈夫だよね?
「CRASH」 先生の「WIND MESSAGE 9」を拝読させていただき、改めて第35回定期演奏会での演奏をVTRで聴きました。
今日はいつになく早く帰宅しましたので、風呂上がりのビールを飲もうとしますと、娘が「これ!」と言って、私にそのMESSAGEを見せました。タイトルを見た瞬間私は、過日の第4回マーチング・フェスティバルで購入を申し込んだVTRのことを思い出して娘に聞きますと「もう届いている」と言うので、「これは後で読む」と返して、VTRを見ることにしました。当日会場で聴いていた時に、去年とは違ってT邦が一番いいと思っていましたので、もう一回楽しもうと思い、いくつかの演奏団体を飛ばして、T邦のところに行きました。その中でCRASHのPC−DANCEとメドレーのうちチキチキバンバンを楽しませていただきました。先生のPC−DANCEは、緊張感があり、未来を予感させ、心地よく、更に好きになりました。出来ればドリルではなく、腰を落ち着けて存分にぶつけた演奏を聴かせていただければ・・、なんて思いました。チキチキバンバンは速いテンポで流暢に流れ、その中にあってスタッカートの美しさが際だっており、ブラボーと叫びたくなるようなエンディングでした。
テープを巻き戻した後、MESSAGEを読みますと、先生の苦渋を経た告白が述べられており、娘の親として安堵すると同時に、音楽を指導される先生の苦悩や、音楽の創作に熱意をお持ちのNGO様の葛藤を申し訳なくも思いました。音楽の自由。これは曲を作る人、音楽を奏でる人には何物にも代え難い大切なものであり、楽しいものではないかと想像します。そうだとすれば、「指示」というような定型的なものは対極に位置されて、自由とは融和しにくいものとなるでしょう?先生は、「クラブの大転換」を実現するために「方法の転換」をすると述べておられますが、心中穏やかではなくCRASHしたようにお思いではないだろうかと拝察しております。なぜなら、娘の話す断片的な事柄から先生は常に質の高い音楽をつくろうとされていると感じていましたし、MESSAGEでも「音楽をする心」を強調しておられるからです。私は、そんな音楽指向を持っておられるNGO先生に娘が指導していただけて良かったと思っています。しかし、娘は先生を時には「誤解」したり、反発したり、場合によっては不審がったりもしていました。でも、今回のMESSAGEで先生の「決意表明」を読んで、不審が解けたようです。不審が無くなれば、娘なりの受け止め方や反応をしていくのではないかと思います。先生は「反発だったらまだ救われます」と謙虚に述べておられますが、部活で何を経験していくかは、生徒の、いや娘の感受性やそれまでの生活体験、親の関わりの問題であると思います。
このMESSAGEは、娘にとっても大きな意味を感じているようですし、父親である私にとってもTWEがより近いものになったような気がしております。また読後の感想とCRASHを改めて聴いて、先生の音楽観や心をストレートに娘たち生徒にぶつけていただければと思います。
極めて独断と推測により、かつ、僭越で失礼なことを書きまして、申し訳ありません。また、生徒に発せられたMESSAGEを勝手に読んで、勝手に筆をとったことをお許し下さい。
「音楽する心」や楽しさを娘たちに実感させていただければ幸いです。よろしくご指導の程お願い申し上げます。平成8年6月19日
NGO先生
[ご本人署名]
その後もなかなかうまく行かなくて苦しいことが続いた。
でも、心の支えになっていたんだな。
必ず解っていただける、という支え。
昨日、久しぶりに街に出た。しかも車ではなく公共交通機関で。
リニモの駅まで歩き、藤が丘で地下鉄に乗る。しかし始発にもかかわらず座れない。
腰が痛いなぁ、と思いつつドアの近くに立ち、目の前の路線図を眺めていたら自分が全く浦島太郎であることに気が付いた。
知らない路線がたくさんあるのだ。金山へ行くのにその方法が複数有ることに気が付く。早速本山で降り、名城線に乗り換える。
地下鉄だから風景は何も見えず新鮮味はないが。しかし、とにかく座りたかったのでありがたい。多少時間はかかるのかも知れないけれど工夫の余地があるということは助かる。
本日の目的は名古屋マーチングフェスティバル。
なじみの方々にお会いしてお話伺いながら、また気が付いた。
様々な合同バンドがある。名古屋ハイスクールバンド、地区別に分けたバンド、中学校選抜、1校単独も、おなじみ同士のグループバンドも。当然マーチングバンドとしての出演もあり得る。場合によっては掛け持ちもあり得る。
どれも、それぞれの特色が出ていて面白い。
だいたいは学校毎で参加のしかたを決めるのだろう。
もちろん出演する団体は名古屋全体のごく一部。「出演しない」という選択肢だってあるのだ。それでも出演者の延べ人数は7〜800人にはなる。充分イベントとして成り立つ。
多様であることの豊かさを改めて感じた。
一方で、自分たちの出番が終わったら、そそくさと引き上げていく人達も少なくなく、せっかくの多様性が損なわれてしまっているようでもあるな、と感じたことも事実。
しかし、それらを含めても選択肢が多いということは素晴らしい。
そしてそれが当たり前で動いていることの豊かさ。
他ではなかなかそんなこと出来ないよ、と、一度外に出たから思うのだろうか。
が痛いことは前に書いた。
不思議なことに、時間をかけて痛い部分が少しずつ移動していく。
なんとなく、末端に向けて進行していくのかな、と。
今は、首周りは大丈夫。ぐるぐる首回しても痛くない。
首に近い肩も案外大丈夫。背骨周りも。こってはいるけど。肩を回すことも以前に比べて大丈夫。
まだまっすぐ横に、上に、とは上がらないけれど、痛くてダメではなく、堅くなって止まってしまう感じ。少しずつ動かしていくことが大切なんだろう。
今、一番痛いのは、腕の付け根。しかも体の前。何故こんなところが?って。
困るの常に痛みがあるのではなく、急激に差し込むように痛みが走る。ひどい場合はけいれんのようにびくっ!っと来る。瞬間力が抜ける。
次は二の腕。少し力を入れると痛くなる。そして脱力感だ。
だから、棚の高いところにある重量物の上げ下げのような動作は困難。
運動不足は確実なので、様々工夫して体中を動かしているつもりだけど、痛いからどうしても億劫になって良くない。
集中力も散漫でじっくりと物を考えるのも上手くいかない。
そんなこんなで大掃除を始めたのだけれど、すぐ休憩となる。
ま、ゆっくりやりましょうか。
とは面白いもので、躍起になって探してもどうしても見つからないことが多い。
DENONのDAT、DTR-80Pという機械の電源アダプターが見つからない。
つい最近、そこらに転がっていて「邪魔だなぁ」と思った記憶があるのに。
この機械、DATのポータブルで当時案外みんなが持っていた。TEACの大型が調子悪くなったのに、こいつは全然平気でずっと動いている。
しかし電源がなかったら動かないんだよなぁ。
あれ、そういえばポータブルMDプレーヤーのバッテリーパックも無いぞ。
一方で、ずっと探していたのに見つからなくて諦めていたものが、ひょんな場所から出てきたりする。
さきほど、今までどうしても見つからなかった楽譜が出てきた。
2001年に書いた「熱烈日本的叙情」という曲のスコアだ。
この楽譜、Macで、しかもLOGICというアプリケーションで楽譜を作成したから、Macが手元にない今となってはデータがあっても開けない。だから印刷され製本されたものをずっと探していたのだ。
最後の数小節を本番直前に書き替えたハズだ。どうやって書き替えたか、詳細な記憶はない。MIDIデータはかろうじて残っていてWinマシンでも再生可能なのだが、書き替え以前のものなのだ。
それが出てきた。
最後の差し替えページも出てきた。
やった。FINALE化出来る。
他にどうしても見つからないものはまだ有る。いろいろと。
大掃除の最中なのだが、そのうち出てくるだろう、と放っておくことにした。
(求めすぎると逃げていくからな。)
一応音楽が生業の人間なのであるが、最近あまりにも貧弱なオーディオ環境だったので少してこ入れしてみようと思いたった。
どれくらい貧弱だったかというと、例えばCDだったら、DELLの安いPCにそのままCD突っ込んでWindows Media Playerで再生し100円均一のイヤホンで聴く、といった具合だ。笑っちゃうね。
実は機械を持っていないわけではないのだ。一時期はずいぶんこだわったから。
でも、だんだんめんどくさくなって、仕事や勉強で聴くだけだから、実際の生音をいつも聞いているから、所詮機械の音質なんかどうでもいいや、と思って適当になっていたのだった。
まずは、棚の奥に鎮座していたMISSION761という小型スピーカーを引っ張り出しきちんと机の上に置いた。ずいぶん昔になるが、あるひなびたオーディオ専門店で試聴し歌の生々しさにびっくりしながら手に入れたものだ。高価なものではなかったが英国製ではある。とても奥行きのある立体的な音がする。定位感がすごい。
これを鳴らすために珍しいNakamichiのアンプを持っているのだが、入力数が少ないので今回はあきらめた。
ソースはカセット、CD、MD、DAT、それからRolandのR-09(カセットなどはこれに録音してデジタル化しようかと)、さらにPC。
YAMAHAのセパレートオーディオ群がほとんど使わずにあったので総動員し机の横に整列させた。おぉ、カセットもCDのようにトレイが出てきて乗せると吸い込まれていく。DATのトレイのようだ。
今回の目的は、ただ聴くためだけではなく、ソースをできる限りデータ化しておこう、というひそかな狙いもあるので外付けのHDひとつ綺麗にフォーマットしてデータ倉庫にすることに。
手持ちの、大切ではあるが前時代的カセットやMDやDATや、それからCDもすべてHDに入れよう。
そういえば、一番最初のころの定期演奏会は2トラ38で回したオープンに録音していたんだ。その音は少し前にCDに落としてもらったからそれもHDに入れよう。(そうやっておけばもし必要なときが来たらすぐCDに焼けるし。)
さらに、i-Tuneの最新版をDELLに再インストールし準備は大体出来上がってきた。
ついでに部屋の掃除を始めたので、i-TuneによるWEBのストリーミングラジオをBGMで流してみた。
へへへ。案外いけるんだな。
少しは腰を落ち着けて音楽を聴いてみようか。
寒い。
風も強い。
特に我が家は風の通り道らしく季節により正面から、あるいは裏手から風が吹き抜ける。
それでもメダカは卵を抱え始めた。
今年は少し勉強して、勝手に水草に付けるのを待つのではなく、1つ1つ採取しようと思っている。
何故かというと、最近同居し始めたカワバタモロコがメダカの卵を気に入ったらしく探して食べているようだから。
卵を持ったメダカを追いかけているようにも見える。
出来るだけメダカを増やして複数ある睡蓮鉢に入れたいから、孵化効率も高めたい。
作業を急ぐことにして孵化用の水槽を設置、水作りを始めよう。
水温が低いと孵化に時間がかかるようだからヒーターも入れた方が良いだろうか。
別に珍しいメダカではなくごく普通のヒメダカ。クロメダカでもない。
もちろん交配して品種改良して…、なんてことを考えているのではない。
一足早く、睡蓮鉢に移住したスジシマドジョウは、底のドロの中に入ったきり一度も姿を見せない。
寒いからかな?
それとも広い世界を夢見て水のない外界にダイブしてしまったかな?
って何だろう、って考えた。
今、普通である事の価値は随分高いらしい。
しかし、人ってそれぞれ唯一無二だろうが。それぞれが特別な存在ではないのか?
「普通」が大切でないとは決して思わない。
しかし、「普通」というレベルを目指すべき目標にしてしまって良いのだろうか?
そういえば、人と意見が違うことに関して極めて敏感で恐れている、と感じることが良くあった。
「人と違って当然」という、ごく当たり前と思っていることがなかなか伝わらなくて歯がゆい思いを何度もしたな。
「人と同じでなければならない」という強迫観念に支配されているようにしか思えなかった。
ずっと昔、ルーズソックス全盛の頃、
「何故、みんなそんな格好するの?」と聞いたら、
「これは個性の現れです」と答えた人がいた。
「みんな同じ格好してるから、どうしても個性的とは思えないんだけど?」
「いえ、それぞれの履き方に個性があるんです!」
なんだかとってもささやかな個性の感覚にびっくりした覚えがある。
(ルーズでないソックスを履く人に対しては、その個性を認めるのではなく仲間はずれにされてしまうんだけどね。)最大公約数の中にいる安心感なのか。
私は人と違う新しい価値を見いだすことが大切だ、という道を歩いてきた(つもり)。
例えば、ものすごい努力をしモーツァルトそっくりの曲が出来るようになった(…それはそれでものすごいことだと思う…私には出来ない…)としても意味はない。なぜならもう既にモーツァルトは存在してしまっているから。クローンは要らない。目指すべきはモーツァルトを超えること、もしくはモーツァルトとは全く違う価値の創造だろう。
例えば、名演といわれるCDそっくりそのまま演奏が出来たとして、それは「勉強」としてとても大切なことだけれど、自分の表現としてはあまり価値はない。その演奏は敢えて自分である必要がないからね。他の誰でも構わない。(上海では盗作騒ぎが起きてるね。)
だから、個とか個性とかの受け止めがどうやら少し違うのかも、という気がしてくる。
確かに、コストがかかるし、そもそもリスキーだからなぁ。
一方、オンリーワンで在ることの大切さを強調したら、ナンバーワンを目指すことからの逃げだ、と強烈に非難されたこともある。(いや、確かにそれも判るけれど、そういった意味じゃなくて…)と思ったものの、その時はきちんと説明できなかった。
そんな私でも、「普通が目標」という意識はやはり「逃げ」に感じる。
百歩譲って、「『せめて』普通でありたい」、なら理解できると思った。
昨日、TV番組を見ながら考えたこと。