2月
01
最近の

新聞より。

「何でも時代のせいにしてりゃあ、そりゃあ楽だわな」。 〜中略〜 「時代」を「他人」あるいは「世の中」にしても、その意味はほぼ変わらない▼何でも自分以外の「せい」にしたがる甘えと未熟が、凝縮し、暴走したのがこの事件だっただろうか。

あんな大きな重大事件(秋葉原でおきた無差別殺傷事件)でなくても、この事に起因するトラブルは日常頻発する。しかし1つ1つはほんのちっぽけな事件だから、当事者はその重要性を認知できないまま見過ごしていってしまい、いつの間にかさらにトラップの奥深くまではまり、結果取り返しのつかない所まで発展する。
なんといっても「〜そりゃあ楽だわな」だからね。大概、人は楽な方へ流れる。

もひとつ。

「倹約に努める美徳的な行動が、まとまれば結果として人々の生活をさらに脅かす。浪費や美食など、多少の悪徳を許して刺激しないと、経済は生きていけません」

うーむ。多少の悪徳か。有る意味、文化はそれだな。
決して直接的ではないけれど、文化が豊かになることによって脅かされる生活から逃れることが出来る。即ち、人の生活が(心が)安定していくのだろうから。

1月
27
着信音

携帯電話の着信音を鳴らす設定はずっとしていなかった。
マナーモードでバイブ、しかも短い時間で。

しかし、そろそろ変えようかと思い少し手間をかけてみた。
何が素敵か、いろいろ考えて思いついた。鳥の歌にしよう。

沢山のデータをWEBから手に入れた。着信音に使うにはご自由に、というところからダウンロード。
自分の鳥知識のためにも何度も聞き比べてみた。よく知っている鳥から何度聞いても違いがわからない鳥たちのものまで。

キャンプ場の夜に聞こえてくる不思議な鳴き声はトラツグミなんだな。

以前、自分の曲を着信にするのにmidiデータをそのまま携帯で使えることに驚いたが、音データは着信音として使うには随分手を加えなければならい事を知った。
まず手に入れたデータ(mp3だったりした)をwavに変換してからサイズやゲインの変更、エフェクト加工をして、docomo・iモーション用のファイルに変換し、さらに一度WEBサーバーに上げ、再度携帯でダウンロード、保存する。

電話やメールの着信音として様々登録して、携帯が鳴り分けるのを、何となく、いや、密かに、待ち遠しい自分がいる。

うっしっし…。

1月
22
少しずつ

バーダーっぽいことが出来るようになってきた。

家の近所でツグミを見た。
メジロの群れが街路樹を行ったり来たりしながら木の実をついばんでいる。
セキレイとセグロセキレイはあまり警戒心なしに地面をちょこちょこと移動している。キセキレイはまだ見てない。
シジュウカラが団体で賑やかにやってくるのを見つける。
ジョウビタキはだいたい単独行動だ。
コゲラが木の幹に止まり、あちこち突きながら動き回るのを見る。
少し遠出してカワセミの出現ポイントを見つけた。ダイブして魚を咥えてくるのを観察できる。鳴き声も聞いた。

実はもっともっと色々見ているのだが、まだ種類を確認できない。
ちらっと双眼鏡をかすめた像の記憶を頼りに、図鑑を開き「これかな?いや、こっちかな?」と悩む。

こんな人が多い場所なのに意外に鳥の種類は多いようだ。
よく知っているヤツだって書き出せばそこそこの数になる。
スズメ、ハト、カラス、モズ、ムクドリ、コサギ、アオサギ、ケリ、ヒバリ、ウグイス、トビ、ヨシキリ、カルガモ、カイツブリ、…。

その豊かさを忘れないでいたいと思う。
鳥だけじゃない。虫も。植物も。生きているのだもの。

1月
18
4つの

自分。

自分だけが知っている自分。
自分も他人も知っている自分。
自分は知らないが他人が知っている自分。
自分も他人も知らない自分。

自分が自分をより知るためには、既に知っている自分の事以外を知ろうとしなければなかなか難しい。自分のことなのに。

では、自分のことをよく知ろうとしない人は、他人をどれくらい知る事出来るか?

主体を入れ替える。
「自分」を「特定の誰か」に、「他人」を「自分」に読み替えて、上記の4つを考える。
「特定の誰か」に対して一体どれだけの事を自分は知っているのだろう?
よく知ってるよ!、と言えるのだったら凄いなぁ、と思うけれど、いや、ちょっと待って。
本当に知ってる?その「特定の誰か」しか知り得ない全ての事までも知ってる?勝手に知ったことにしていない?

誰も他人が知るはずのない自分を持っているだろうと思うけれど、であるならば、当たり前だけど他人の事を全て知る事は出来ないことになる。

いや場合によっては知る必要もないと言っていいのかも知れない。

ではどうするか?

「知る」事から一歩進み「信じる」事になればいいのかも?

1月
10
自分の力

大学の推薦入試などの場合、あらかじめ書いた自己推薦文を提出することがある。当然内容の優劣により入試の合否に影響する。
しかし、その内容を本人が書いたかどうかななんてどうやったら判る?
同様に絵画や写真等のコンクールで作者の本人確認はどうするんだろう?

小論文指導と称して、結局教員が全て書いてしまう場合があることを知っている。
高校生弁論大会の原稿を本人ではなく教員が全て書いて優勝した例を知っている。
教員が書いた「書」(書道作品)を、現役高校生として出品し全国コンテストで入賞した例を知っている。

確かに、誰かが肩代わりして上手く事が進んでいけば、首尾上々な気がしてくる。
実績という目に見える成果ができあがる。
助けてもらった者はとりあえず欲しかったモノが手に入る。
助けた者はなんだか優越感に浸れる。

でもね。私はそれでは「生きる力」を育てたことにはならないと考えるのだが。
助けてくれる人がいなくなったらどうする?
助けてもらい簡単に「欲しいモノが手に入る」事に慣れてしまった後に、ハシゴを外されるように助けてくれなくなったらどうする?
 

その点、バンド指導は誤魔化し(本来やるべき人がやらず指導者が肩代わりすること)は効かない。
効かないどころではない。コンクール等では指導者自身が評価の対象になり採点もされる。(このことは本当に特異だ。スポーツでも監督としての評価はあるだろうが、パフォーマー・プレイヤーとしての評価は有り得ない。ましてやその事が勝敗の直接原因にはなりづらい。)
だから常に真剣勝負だ。
内容に対しても。
人に対しても。
特に人に関しては生身の人間同士がぶつかるんだから美しいはずがない。
端から見ているととてもエグイだろうな、と思う。
いたたまれなくなるのかも知れない。

そうすると、困ったことが起こる。特に最近著しい。
自称正義の味方が現れ介入を開始する。
さらに、自称正義の味方は感情に訴えやすいから、世の中が味方につきやすい場合が多い。
味方についてもらい(多くの人に)賛同してもらったと力を得た気になり、自称正義の味方は人助けをしたと大きな優越感に浸る。
双方何らかの結果を得て、首尾上々、と相成るわけだ。

ま、その時はそれで良いのかも知れない。
しかし、結果、手足をもがれたように「生きる力」を得るチャンスを失い、助け無しでは生きていけない自立不能な人をつくることになってしまうと思う。
さらに、最大の問題は、本人がそこに気が付かない、そこに行き着けない事だと思う。

あっ、知らぬが仏、という言葉もあるなぁ。

いつかそれに気が付けば救われるかもしれないが、その時では手遅れの場合も多いだろう。

かくしてまた一つチャンスを失うが、誰かがコントロールできることでもない。そういう定めなのだよ、きっと。神様仏様の思し召し。

1月
09
散歩

少し前まで犬の散歩は夜中だった。

毎日毎日土日も祝日も全く休み無く必死に音楽を成り立たせようとしてもがき、片道65kmの高速道路通勤を渋滞でへろへろになり、ようやく家に帰って随分遅い夕食を取っていると、
「さぁ、今度は私の番だよ!」
と、しっぽを振りながら横に来る犬。上手にお座りをしてじっとこちらを見る。
鼻つんつん攻撃。
アゴ乗せ攻撃。
握手攻撃。

「そだよな」
とリードを付け外に出る。もう日付も変わっているが自分の健康のためにも歩かなきゃ、と。
しかし、その後はほとんど盲導犬状態。
歩きながら寝る。どこを歩いたか記憶はない。
家に帰ってきた意識はなくそのまま朝まで寝ている。

少し前まではほとんど毎日がそうだった。
そんなにしてまで何を守ろうとしていたのか。

今日、久しぶりに夜の散歩してその事を思い出した。
もう遠い昔のようだ。
守ろうとした意味はあったのか。

1月
03
デフレスパイラル

定価の3割引きだな。いや、半額でも良いのかも知れない。

クオリティの本質は求められていないように思う。
だいたい。
そんな感じで。
それっぽければそれで良し。
それで、良いんじゃない?
無理すると、誰も見向きしてくれなくなる。
だから、とりあえず今回はそれで行こうと思う。

みんながみんなそうではないと思うけれど。
無理して高額な商品買って、それを生かせず結局は無駄遣いになるのなら、激安なもので充分なんだよ、きっと。
そして、デフレスパイラルは加速する。
気がついたときには人の心にとって大切な何かを失ってしまうんだろう。

大切なものは割引では買えないし、なによりその価値を見いだすことすら出来なくなって、いっそう、忘れられていくようだ。
でもこれからもずっとそうだとは思わない。なぜならその価値は人類の歴史とともにずっと有り続けているから。見失う場所があり見失った人がいて見失った時代であっても必ず再評価される。それは人には必要だからだ。

大切なものとは、たとえば「心の贅沢」とでも言おうか。
しかし、魯山人を万人が受け入れるわけではないだろう。そんな価値観必要のない人もいるんだ、きっと。

1月
01
新年

明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。

2010年が始まる。
外は雪。
既につもっている。
明日、日が昇るとすぐに融けるだろうが。

しかし、寒い。
寒い中、新年早々しばらく行方不明になろう。

12月
29
暮れる

1年が暮れていく。

今年も色んな事があったな。
面白い一年だった。
そして、どんな事も自分に帰ってくる。

ある人に「激しい生き方だなぁ」と言われた。
自分では全くそんなこと思っていなかったから、言われて意外だった。

だったら「穏やかな生き方」ってなんだ?

最近ますます肩や腕が痛い。痛さで夜中目が覚める。ちょっとした動作の中で激痛が走る。
いつかその痛みから逃れることが出来るのかどうか知らないけれど、少しずつ判ってきたことがある。
この痛みを抱えて日々過ごすしかないんだな、と。激痛が走る度に「痛い!痛い!」と叫んでも痛みが和らぐことはないのだから。
いつか痛みが無くなる事と、今痛みに耐える事は、全く別物なんだと考えることにした。
であるなら、今痛い事を不幸に思うのではなく当たり前に受け入れてしまって、痛みを含めた日常を工夫したほうがはるかに気分が良い。

私は私だ。
それ以上でも以下でもない。
未熟である事は確かだが、しかし激しいのか穏やかなのか大差はない。

来る年がどう展開するか、さまざまな関係の中で自分がどう考えどう感じるか楽しみだ。
その前にあと二日。もう少し自分の中で今年のまとめをしようと思う。

12月
03
オルゴール

北極星を背に南を向く。
地平線上の真南から真上の空にずーっと線を引き、天頂を超え、北極星を目指す。そうやって出来た線は子午線という。

北極星を背に南を向く。
星は、向かって左側から右に向かって流れていく。当然一日かけて地球を一周する。(本当は反対方向へ地球が自転しているんだけどね。)
だから、流れていく星は一日に必ず一度、その子午線を越える。

それぞれの星が子午線を越えるときに、星の明るさや高度の違いによってそれぞれの音を出す。
オルゴールのように。
 
そんな仕組みを旧知の友が創り、その作品展示を山の中で手伝っていた。

あいちアートの森の一環。
東栄町会場は12月5日から翌年1月24日まで。
その作品は森林体験交流センター「スターフォーレスト御園」に今日なんとか設置完了。

期間中ずっと24時間音を出す予定だそうだ。

北極星に背を向けて南の空を仰ぐ。
一直線に存在しているはずの子午線をイメージする。
星空見ながら「もうすぐあの星が通過するぞ…」と密かに期待し、じっと神秘的な雰囲気に浸る。
山を渡る風の音。
遠鳴きする鹿の声。
大気が冷え込んでくる耳では聞こえない音。
それらと共に星の通過音が鳴る。

昼も良いが、是非、夜の帳が降りてから。
寒さ対策と行き帰りに気を付けて。
 

これを機会にスターウォッチも復活させるかな…。