12月
01
労働

山奥に行って穴掘りをした。
なんとか日没までには、と精を出したが、結局いくつかのトラブルで予定通り進まなかった。
ここへは再度作業をしにいくかも知れない。

50肩のリハビリとしては少々負担な仕事もあったが。
体を動かしていないことを実感。これじゃダメだな。

しかし、明日は一転、机仕事。一日で完成するかな。
めんどくさいが急ぎとの事。
珍しく早く寝よう。

11月
28
ユートピア

先日悩み相談のようなことになった。

複数のスタッフがよってたかって、ああでもない、こうでもない、と。
誰もが真剣にそれぞれの意見を述べ、しかしはじめから結論ありき、の進行ではない。

長い時間かけていろんな話をした。それが当事者にとって何かの足しになったかどうかは全くわからないけれど、少なくとも「話を聞いてくれる人はいるんだ」ということはわかってくれたかなぁ。

私たちが目指しているものは、まさしくユートピアだし、それを音楽の本番として実現できる可能性を持っているあの3年間では、なぜだか日常でも実感できるのだけれど、だからといっていつもその状態が身近にあるとは限らない。
むしろあの3年間は奇跡で幻なのかもよ。その後一度も再現しないかもしれないから。

その体験が有るか無いかで全くその後が変わってしまうといっても過言ではないと思う。
それほど純度は高いんだな。しかし、たいがいその直中にいるときは気がつかないし、理解したときには時間はとっくの昔に過ぎ去っている。
しかも、外から見てて、わからない人は決定的にわからない。
どうしようもない。
どうしようもないからマイノリティなんだと自嘲し、しかし厳然と誇りを持つ。

彼女は、ユートピアであってほしい場所が、今そうではないことに悩み苦しみ、どうしていいか解らなくなっちゃったみたい。世の中には居心地のよい場所があることを知っているからこそ、今、自分の居場所を見失ってしまった感じかな。

そんなときは旅に出るといいと思う。
旅とはどんなに長い旅でも戻るところがある。寅さんだって必ず戻ってくるだろ?
だから良いんだ。戻るところがあるという保険。

11月
24
すべて終了!

「はい。今日で直すべきところは全て直しました。次は6ヶ月後にまたお越しください。」

やったぁ!
始めてかも知れない。歯医者に終了まで行き続けたこと。
これで虫歯は無くなった。
親知らずは手をつけていないけど「不都合出たら抜きましょう、それまで様子見です。」だそうで。
いずれにしても、しばらくは大丈夫と思う。

1つずつ区切りがついていく。
準備は大切だ。
次のために。

11月
20
漸近線

xy=1という曲線のグラフは双曲線。そして漸近線。
xが限りなく0に近づいていくとyは限りなく増大する。xが0にならない限り決して0にはならない。論理的には無限に増えていく。

しかし実生活で悠長にそれをやっていることは難しい。
どこかで諦めて引き返すか、一歩踏み込みこむか、のどちらかである。

その境界にあるのが「線」だ。

越えるのは簡単だけれど決して越えてはいけない線。
出来れば越えたくない線。
越えたくても決して越えられない線。
必ず越えなければならない線。
科学的に、地理的に、政治的に、感情的に、様々な線があり様々な意味がある。

臨界点…
分水嶺…
38度線…

 
人の屍を踏んで地雷の埋められた国境線を越える。

 そう、国境を越すための手段が1つある。その手段とは自分の前に誰かにそこを通らせることだ。
 手に亜麻布の袋を提げ、真新しい足跡の上を、それから、お父さんのぐったりした体の上を踏んで、ぼくらのうちの一人が、もう一つの国へ去る。(悪童日記 アゴタ・クリストフ/堤茂樹訳−早川書房)

思いきって踏み込むことが出来ずに無限ループに陥る。

 そして、また一切が冒頭から始まり。−−一字一句の変わりもなく、変えようもなく−−また幼ごころの君とさすらい山の古老の出会いで終わると、古老はまたしてもはてしない物語を書き始め語りはじめ…。
(はてしない物語 ミヒャエル・エンデ/上田真而子、佐藤真理子訳−岩波書店)

 

越えるべき線を越えられない人達の塊。
その昔、思いきって地上に降りるか、そのまま木の上に留まるかで、進化は分岐した。

11月
18
感情移入

ってのはイメージの再構築なんだよな。
知り得た情報を元に、自分の持っている知識知覚(想像も含めて)を総動員しながらなりきること。

本を読んでその状況に入り込む。
映画を見て主人公になりきる。
話を聞いて自分もそこで実体験したような気になる。

如何に、今までの自分の中に無かったものや、未経験のことを、イマジネーションするか。
その力が足りなければ、人の痛みは到底理解できない。だって、自分は痛くないんだもの。

私の50肩の痛みの強烈さは、イマジネーション力の無い50肩未経験の人には絶対理解できないんじゃないかと思う。(厳密に言えば、イマジネーション出来たとしても本当の痛さは判るかどうか疑問だ。自分には痛みはないからね。)

だからへらへら笑って気軽に「頼みますわ」みたいな態度しか出来ないのだとすると、それ以降どうやっても痛みはわかってもらえないのだ、と諦めるしかない。能力の限界かもね。バカの壁というヤツだ。
しかし、それでも意義は大きい。「頼みますわ」と認めたのだから。

イマジネーション無しの音楽は音楽ではない。ただの音だ。

創る側は如何にイマジネーションを誘引するか。
音出す者は楽譜からどれだけのイマジネーションを引き出せるか、そして聴く人に伝えるか。
聴く人は、その一連の流れの中でどこまでイマジネーションを遡れるか。

音はただの物理的振動だ。そこに音楽という付加価値があるのならそれは人のイマジネーションしかない。

大切なモノは、音、そのものだけではないし、また、その瞬間に見て聞いて解って次の瞬間には忘れてしまうような軽薄短小なものでもない。
それらを、きちんと受け手自身が収めるためにはある程度の力量も要求されるから、いくらこちらが頑張っても見逃されてしまうことだってあり得る。しかし、そんなことにめげず目指し続けるしかない。
厳しいのだ。

11月
13
サナギ

小学生の頃、近くに牛糞が積み上げられているところがあって、良くカブトムシの幼虫を捕りに行った。

少し掘ると、出てくるわ、出てくるわ、わんさか幼虫が出てくる。

その頃から、街でカブトムシを売るようになったが、そんな環境にいるんだから、お金出して買うなんて信じられなかった。

時期によっては、幼虫ではなくサナギになっている場合もあった。
これは、だいたい直径が十数センチぐらいの牛糞の塊になっていて、上手に割ると表面が綺麗につるつるになった穴の中で茶色のサナギが胴体をひくひく動かしながらただじっとしているのだった。

乱暴にその塊を割ると、ごく希に中のサナギも一緒に割ってしまうことがあった。
もちろんそうすれば息絶えてしまうのだが…。(可哀想なことをした。)
割れてしまった茶色のからのような物からは、乳白色の体液がどろっと流れ出るだけで、内臓のような物は出てこなかった。
成虫になるために分化した器官がそれぞれだんだん発達していくのではなく、濃縮された体液が全てを含んで、混沌と成熟していくのだ、と、勝手に解釈し、大自然の不思議を感じたものだ。

後に、幼虫の時のそれはいったん分解されて成虫になるために再構成されるんだと言うことを知った。

 

それから、自分の中で何らかの発想が生まれ熟成していく様子を考えるとき、いつもこのカブトムシの体液がイメージされる。
1つ1つのパーツが論理的に完成しそれが集合しさらに大きなユニットとなって…、というより、もっと漠然と何かが始まり、それぞれが見えたり隠れたりしながらそれこそどろどろの乳白色の体液のように渾然一体となり、その混沌がさらに攪拌され、完成を目指して長い時間かけて熟成されていく。そして周知されるときは、蝶が羽化するように一気に劇的に殻を脱いで変態(へんたい、metamorphosis)し度肝を抜く、イメージである。

ただ、それではあまりにも感覚的すぎるので、何とか理論武装しようと躍起になっている自分がいる事も確か。

とにかく、今自分の中には、乳白色のどろっとした体液が混沌としてあり、熟成され、完成されるのをじっと待っているんだ、と感じているということ。さらには、出来上がりを確認できる状態にいつ変態するのかは皆目見当がつかないということ。

劇的な瞬間が来ることを信じてじっと待つしかないのだろう、と腹をくくる。

11月
11
守るべきことなど

自分にとって守るべき大切なものとは何だろう。

一番大切なものは目に見えない。耳に聞こえない。匂いも味もない。もちろんさわれない。いつもそう思っている。
一方では、具体的に守るべきものがあって、その事物を必死に守ろうとするほうがはるかに多い、という事も判っている。

その間でいつも迷っている。私は何を守るべきか。

しかし、これまで通りこれからも「生徒中心主義」でいてほしいと思います。
上を見る先生、自分自身を守る先生、波風を立てたくない先生、あきらめた先生、たくさんいる中で純粋に生徒のことを優先にする、先生として当たり前のことを信念を持って実践する数少ない先生だと思います。そんな先生に出会える生徒は自分も含め、幸せ者です。

だからこそ、「先生」でいてほしいと思います。
〜中略〜
まずは「先生」でいることを第一に考えてください。

過去にこんなメールを頂いたことがある。
(少々省略あり。前段は…、ま、いいや。恥ずかしいなぁ。勝手に引用してゴメンね。)
にもかかわらず現在、期待に応えられていない。

その立場がなかったらやるべき事すらできなくなるでしょ?という警鐘だということも重々承知。
でもね、その立場は私にとって一番に守るべき物とは思えない。それを守るために目に見えない大切な物を見失うと思う。
ただし、それは「私にとって」であり「生徒にとって」ではないかもしれない。だとすると先の引用メールの前段と全く矛盾することになる。

そして、その間でいつも迷っている。私は何を守るべきか。
結局、最終的には自分の感性を信じるしかないと思い、決断し、結果、期待に応えられていない現状がある。

すなわち、引用メールの内容は「そうあるべき、そうありたい」と願うことと裏腹に前段も後段も成立しなくなってしまうのだ。

…いつも迷っている。私は何を守るべきか。
…あぁ未熟なり。

11月
11
不思議な

アクセスがある。
常にここのページを覗きに来る。

お気に入りとかブックマークとかがこのページで、ここから入り、例えば最新の記事に行くとか、次のアクションがあれば何も不思議はないけれど。いつも見るのはここだけみたい。なんか裏技があるのかな。

で、そこ改めて見てみた。
うーん。書いた時の状況や思考は明確に覚えている。あるグループの会話を聞いていてとても異常に感じたことなんだ。
読み返してみて、テレビとかの放送がそれと全く同じ状態なんだと気が付いた。もし沈黙が訪れたら放送事故だもんね。
バラエティとかワイドショーとかは、これでもかといわんばかりの情報量(内容はともかく)を途切れなく出し続ける。受け手はその1つ1つをきちんと受け止めるなんて事はせず、気に留まったキーワードを脈絡なくつまみ食いする。
だから会話はいつまでたってもかみ合わない。そんなかんじ。私には耐えられないことが良くあった。それでも理解しようと…。

そして、最近その感覚を忘れていた、ということも気が付いた。
特に感心するような素晴らしい会話も聞いてないけど、違和感を感じるようなことは無くなったなぁ。
コミュニケーションする力だろうけれど、これがあるのはいたって普通のことだと思うよ。

11月
06
キャンプ場で

夕食を終え、星を見ながらくつろいでいた。銀河が素晴らしく、綺麗に夏の星座が見えていた。見えすぎてむしろ大三角形は無数の星々に埋もれてわかりづらいくらい。

隣のサイトでは、親戚の集まりか、親しい友達家族か、あるいは会社の懇親旅行か、複数の家族が一緒に楽しんでいた。
そのうち、小学生くらいの女の子と男の人が、寝ころんで星を見だしたようで、会話が聞こえてくる。全く姿は見えないが声だけ聞こえてくる。想像すると、父娘ではなく、普段は会うはずのない二人のような感じがした。

「わぁ、天の川すごーい!」
「あれは、はくちょう座。わかる?」
「うん。」
「あの明るいのはデネブって名前の星なんだよ。」
「知ってるー。習ったぁー。」
「そのデネブの横に北アメリカ星雲っていう赤い星雲があるんだよ。」
「へぇー。見えるの?」
「ううん、写真に撮るとね…」

特に聞き耳立ててたわけじゃないけど、たまに聞こえてくる単語がどんどん展開していくのが面白い。

「ブラックホールっていうのはね…」
「人工衛星ってのはね、ずっと落ち続けて…」
「ロケットの燃料はね…」
「宇宙はどんどん膨張していてね…」

もう20年近く前の夏休みでの話なので、どんなだったか詳しくは忘れてしまったけれど、難しい専門用語が容赦なくどんどん飛び交う興味深い説明だった。

奥只見のファミリーキャンプ場の一角で寝っ転がって星を見ながら、ほろ酔いのオトナと小学生の女の子がする会話じゃないよな、と思いながら、でも、とても知的でなんだか嬉しかった。
夕まずめにルアーで巨大なマス(と思われる)を掛け損なった感触(ブレットンが弧を描いて空中を20mくらい飛んだ!)を悔しく思い出しながら、その悔しさを溶かしてくれるように微笑ましかった。

その女の子、もしかしたら今、宇宙飛行士目指してるかも知れないぞ。