11月
05
ゼロって何?

ある集まりの時。
私の隣の女性(母親)が、食べている夕食の味噌汁をのぞき込んで、就学前くらいの男の子と話をしてる。
「この中にお豆腐いくつある?」
「2つ! (…だったかは定かではない…)」
「じゃ、全部食べちゃうよ。 ほら、いまは幾つある?」
「もうな〜い」
「そうね、それがゼロだよ。」
「ふーん。」
「今日、ここに来るときにゼロってなーに?って聞いてたでしょ?」
「…」その子はもう違うことに気を取られお母さんの話を聞いているのかどうだか…。
 

私の小学生の時の記憶。
小さな子が「0」を問うことにびっくりしたんだろうが、今でもなんだか良く覚えている。
しかし、最近ふと「凄いのは子供ではなく、このお母さんなんだ」と思うようになった。

そのお母さんは、たぶん、ある大きな会社の偉い人の奥さんで、ということは、今はその子供、その会社の偉い人なんだろう、と気が付いたのはずっとずっと後のこと。

子供はいつもそんな疑問を持っている。そして次の瞬間忘れてる。
だから、そのちっぽけなことをちゃんと覚えていて、答えを導き出してやることは簡単ではない。

子供は、きっと疑問を持った瞬間にスイッチが入るんだ。そしてスイッチが入った回路にタイミング良く刺激があるとそれは活き、そうでないとすぐ枯れていくんだ。言うまでもなく、活きた回路が多くできるとその後さらに複雑な回路は出来やすい。
そんなことを身近な者が周りで手助けしているのだから、その多さや偏りによって様々な風土が形作られるのかもね。

11月
02
レントゲン

写真を4枚ほど撮られた。
肩と腰と。

いわゆる50肩といわれるらしいのだけれど、肩(から二の腕にかけて)激痛が走る。両手とも。

50という数字の根拠は何だろう?40肩とも言うらしい。

どうって事もないときもあるけれど、ぐるぐる回す、ねじる、真上にあげる、後ろに回す、などの動作は決してしてはいけない。一瞬爆発したようなとてつもない激痛が走り数分間息が出来ないくらいの痛みに耐えなければならない。寝返り打つのさえ細心の注意がいる。服(特にジャケットのようなはおるもの)を着るのは一大事。

症状から予想はついていたしネットでそれなりの研究もしたので、整形外科医から正式に「はい。50肩です」と告知されてもびっくりはしなかったけれど、「しっかし綺麗な骨ですね、骨そのものは頑丈そうでしかも綺麗で、肩も腰も何の問題もありません」と言われて少々驚いた。
−骨そのものは大丈夫なんだな。−

しかし。
実際、棒を振って、無意識に腕が安全圏を越えて動いてしまい、トンデモもない目に遭うことがちょくちょく出てきて「ちょっとまずいなぁ」と思ってたところにだから、
−出来れば毎日電気当てに来てください。
と言われて、どうするべきか…。

しばらくの間この痛みと付き合わなければならないことは確かなようだ。

追記

こんな事書いていて、さらに。
先ほど階段降りるときに落ちた。靴下が滑った。
ま、最後の2段くらいだったので、落ちたことそのものはどうって事はない。足も腰も、打っても捻ってもない。擦り傷すらない。
しかし体を支えるために両手を後ろ手についた(らしい)。うをぉぉ!両手が抜けたかと思うほど肩に激痛。
そのまま床に転げ回って数分息が出来なかった。

ふー。しばらくしたら何事もなかったかのように今まで通りになった。(こうやってキーボード普通に打てる)
なんだか厄介だなぁ。

10月
30
日中に

テレビを見ることが多くなった。当たり前か。でも実につまらない。特にワイドショー。
(国会中継は面白いよ。)

世の中色んな事件がある。
だからそれを報道する。
専門家がそれを解説する。

報道は中立性を大切にしているだろうし、レポーターは一生懸命取材し専門家は報道よりさら詳しく論理的裏付けを元に掘り下げる。
必要だし当然だと思う。

しかし、その先は疑問だ。コメンテーターという人が出てくる。色々「感想」を述べ「意見」を言う。したがって根拠のない無責任な感情論が出てくる場合だってある。
そこそこ見識ある方がそれをするならある程度容認するけれど、ほとんど井戸端会議のような内容を聞かされると少々不快になる。自分が不快になる分にはスイッチを切ったりチャンネルを変えれば良いので構わないのだが。

世の中に人はその根拠のない下世話な話を、テレビ番組というお墨付きをもらった正しい意見と取りかねないんだよね。「昨日テレビで〜〜がこんなこと言ってたよ!」って。

今日、放送倫理・番組向上機構(BPO)放送人権委員会は、ある番組で不正確で不公平な報道があったとして重大な放送倫理違反を指摘したけれど、そんなチェック機構だって世間が染まった後では取り返しがつかないこと多いだろうに。

テレビ番組の話題が二つ続いてしまった。

10月
30
わたしのきもち

というのは番組名です。

人付き合いのスキルを奪って仲たがいさせ世界征服をたくらむモラッチャ王。
スキルファミリー三好一家はその野望を阻止するために立ち上がる。

今回奪おうとした物は「ツタエル」。
子犬を抱いて「可愛い〜」と盛り上がっているなかで「犬は苦手なんだ」と言えずひとりぼっちに。なぜならモラッチャ王に「ツタエルスキル」を取り上げられたから。それに気付いたスキルファミリー三好一家はモラッチャ王を懲らしめそのスキルを取り戻す。「ボク、犬が苦手なんだ」と伝えて誤解が解け、メデタシメデタシ。

うーん。これが番組になるって事はそれだけ問題視されてるって事で…。
そうでもしなければいけない現状を憂いてみたり…。
しかしそれでも伝えなければ始まらないので、大切なことだな、と思ったり…。
受け手側としては「これ見せとけばいいや」と安易になってしまわないか、とか…。
「伝えられない人」本当に多いからなぁ、そういう自分もちゃんと言いたいこと伝えられないこと多いよなぁ…。

色々考え込んでしまってWEBの番組紹介を見た。そして、当たり前だけど幼児用教育番組は凄くよく考えられているんだなと改めて感心した。
例えば最近自分の中ではまっている「アルゴリズム行進」は体操のカノンだけど、それを小さいうちに体感しておくっていうのはとても意味があるだろうし。
「お話でてこい」は自分が小さい頃、わくわくしてお話を聞いていたのを思い出した。自分の「本を読む事の原点」はここにあったんだ、と再認識したし。

ただ、これらはきっかけに過ぎないんだと思う。
そういったちょっとしたきっかけから、その意図を汲み、日常レベルで活かしていけるようにするのは、子供本人ではなくごく近くにいる周りのオトナなんだろう。
本人の自発性を大切に、なんて言ってる場合じゃない。というより、そんな番組見て「きゃきゃきゃ」と喜んだ瞬間が自発性を発揮した時で、それを持続・発展させていく為には周りの手助けがいるんだよ、きっと。
「じゅげむじゅげむ…」と覚えたい、と思った瞬間はたぶんみんなあるわけで、しかし子供は飽きっぽいしすぐ忘れちゃうから、その気持ちを見つけ持続させ激励し最後の「長久命の長助(だっけか?)」まで覚えさせ、全てをさらさらと言えるようになったら賞賛するのは周りオトナなんだと。

ちいさいときのそんな繰り返しが何十年後に大きく影響するような気がする。

10月
25
忍び寄る?

昨日気が付いた。
いつの間にか忍び寄ってきている!
Googleストリートビュー。

自宅近所を詳細に検証してみた。
様々な角度から見てみたけれどストリートビューの視野に中に我が家はない。
全ての道を網羅できていないようで、偶然にもどの道からも見えない。
(道はどうやって選択するんだろう?一本道なのに通っているところとそうでないところがあったりする。運転手に任されるのかなぁ?)

10月
20
今朝の朝刊から

いくつか言葉を見つけた。

「自然は人権の源である。しかし、自然は権利を持たない。 テツオ・ナジタ」
大江健三郎の一文にあった。
私は無償の愛に思いを馳せた。

もう一つ。
「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり。されど、財なくんば事業保ち難く、事業なくんば人育ち難し。」
楽天・野村監督のぼやきにあったそうだ。「あと一年あったらもっと育てられたのに。」
 

ゆっくり朝刊を読む時間があるのはやっぱりいいなぁ。

10月
14
バリアアリー

と言う言葉を聞いた。ん?なるほど!

あるデイサービスセンターのお話。
日常生活では至る所にバリアーがある。避けて通れない事が多い。だから敢えて館内はバリアフリーにしておかない。箱が積み上げられ、通路はギリギリ。
食事はセルフサービスのバイキング。食器もカウンターにそれぞれ箱入りで並べられていて自分で取り出す。
食べ終わったらもちろん自分で食器をカウンターに返す。
車いすの人も歩行器の人も、誰もがそうする。もしこぼしてしまったら自分で片付ける。

「この方針に変えた当時は随分反発されましたよ。たくさんお辞めになりました。でも、誰のために、って考えたらこうなりました。」

そこにいる人達はとても生き生きとしていた。笑顔が絶えない。声が大きい。賑やかだ。
90過ぎのおばあちゃんが「こんなの何ともないよ。自分のことだもの。」

施設内通貨があり、作業をするといくらか手に入る。自分自身の作業でももらえるが、名前札をつくったり暖簾をつくったりと施設内の作業の場合もある。
その通貨でパソコンを利用しネットでアイドルを調べて「ウィッシュ!」と喜んでいるおばあちゃん。「ばくちやるんだ」と花札で遊んでいるグループもある。中国語を勉強している。足湯も通貨が要る。

ご飯が食べたいから自分で準備する。遊びたいから奉仕する。以前のように奥様と旅行に行けるよう歩きたいからリハビリする。
そこには全く悲壮感は見られない。みんな素晴らしい笑顔だ。
帰り際「明日も来るよ、楽しいもん。」
ここの人達は、少しずつ要介護度が軽くなるらしい。立てなかった人が一人で階段の上り下りが出来るようになるのだもの。
 

「昔は全然活気がなかったんです。ある時、ある人が『桜を見たい、だから歩きたい』と言った。それで、ここの人達は〜したい、が無かったんだと気が付いた。」(普通は「桜が見たい」と言われたら”親切に車いすに乗っけて連れて行ってあげる”のだろう)
桜を見たいから、毎日の歩行訓練を”したい”。”来年の桜は自分の足で見に行く”という目標を持って。
「やらされる」のでも「やらなければならない」のでもなく。「やりたい」のだ。

全部自分達にやらせれば、職員はさぞかし楽だろう、と思ってはいけないと思う。本当は「やってあげた方が楽」なくらい陰で大変なんだと思う。

後で気が付いたがその番組は「逆転の発想」というテーマだった。
そうか、やはりこの発想は普通じゃないんだ。
「介護してあげている」という美しく見える行為が、一歩間違えると実は自発性を根こそぎ奪っているという部分に着目するのは一般的には難しいのかも知れない。
 

ずっと思っている「不親切の重要さ」を証明していて、嬉しかった。
しかし同時に、
「でも、もともと『〜したい』の想いが少ない最近の人達はどうするんだろう?」
と不安になったことも事実。

10月
12
平穏な

日々を過ごす。とても良い感じ。

50肩で腕が肩から回らなく激痛をこらえながらの生活ではあるけれど、稲刈り後の田んぼで騒ぎまくる小鳥たちの声で目覚め、最近腰を痛めたせろりをかばいながら階段をだっこして上り下りし、きちんと決まった時間で3度の食事が出来る、しかも夕食はほとんど日没直後、そんな毎日に感謝する。

政権交代後の世の中の動きに注目しつつ、老野球監督の解任とその波紋に思いを馳せ、真剣に生きる人の苦悩を慮り、何も出来ない人達の哀れを考える。
 

先日、森の中でメジロの大群を見た。実りの秋だ。様々な木の実を目指して小鳥が群がる。
双眼鏡で目をこらしていたら、少し大きな鳥が視界に入った。1分ほどだったか。双眼鏡の揺れる視界の中で、くちばしは…、体の色は…、尾の形は…、何とか特徴を出来るだけ多く覚えて、飛び去った後ハンディ図鑑で調べた。これじゃない、これでもない…。
最後のページで「あ、これ!」覚えていた特徴がすべて一致する。これだ! 「カケス」だった。
なんてことはないひとときだが、見たものの正体を自分の力で探し当てる幸せ。そして、そうやって覚えた特徴と名前は忘れないだろうな。

うん。心の豊かさは決して忘れてはいけない。
芸術とか教育とか、どうやっても割り切れない物事に携わる者として、だからこそ正確に見聞する力とそれを為し得るための人としての豊かさを磨こう。
今は、そのために時間を使おう。

10月
07
肩を

叩かれ線が引かれる。
否定され、おかしいことに気付くが既に引いた線は消せず。
苦肉の策が出されるがあまりにも世間知らずで成立せず。

何やってんだか…。
お粗末様でした。
私もみんなも利用されたんでしょうな。
(他にも似た事例はあるのかしらね。)

ま、ピュアな関わり方を確保したので別段どうということではないのだけれど。

でもどうしても解らないことが1つ。
「何のために?」

9月
27

のむくみが随分改善してきた。

ひと頃は朝から晩まで、特に膝下から足首までパンパンに張っていてしゃがむことすらままならなかった。
同じ格好をしばらく続けていると次に動かすことがとんでもなく痛く辛い事が多かった。
指で押すとティースプーンぐらいへこんだままで、触られた感覚も鈍かった。
医者に訴えたら「尿検査大丈夫だし、単に塩分の取りすぎですね、。塩の摂取控えてください。」だけ。

2、3日前に気が付いた。「あれ、しゃがんでも痛くないぞ。」
しかし、別段特に何かしている訳ではない。むしろ特別何かしていないことが良いのかもね。
このところ食事は3食とも人並みにまともな時間にすることができて、睡眠も充分だから、体が休まってきたのだろうか、と思う。
夕食時間が早くなり、就寝するまでたっぷりゆとりの時間があることが良いのかな。
A1cも正常値付近で安定してきたみたい。

今のうちに悪くなったところを修復しないと。
歯の治療も順調だし。