6月
24
毒舌

で有名だった私の師匠。
確かに身も蓋もない言い方で相手を圧倒している場面は数多く見た。
しかし、それはただ罵倒しているのではないということを何となく理解はしていた。後に本人の言葉から「その解決方法を示すことが出来ないときは決して罵倒しない」事を知った。

さらに、圧倒的な態度で辛辣な言葉を吐き出す人なのに、自分が悪いと思ったときにはいとも簡単に「俺が悪かった」と謝っていた。相手が小学生だったとしても。

できの悪い学生時代から、少なくともこの二つだけは必ず真似しよう、と思っている。
でも実際にはなかなか難しいんだ。

カリカリに熱くなった合奏レッスンをしていて「バカヤロウ!」と怒鳴った直後、それが自分の勘違いだと気付いた時、素直に「ゴメン、俺が間違えていた」と言うのはなかなか勇気の要ることなのだよ。でも、それはどんな時でもするべきだと思っている。
−実際には「ゴメン、俺が間違った。悪いのは俺!」と、なんとか言えてるかなぁ?
 

「謝る」というキーワードで検索した。すぐに以下の物に出会った。
 [The Ethics of Apologies (BusinessWeek)より 実際にはこの訳文を見つけたのだけれど。]

【謝るとき】
1. 素早くミスを認め、自分の責任を取る。「私がミスしました」と言うべき時に「私たちがミスしました」とは言わないこと。
2. まず最初に、ミスをした相手に謝ること。その人に最も配慮しなければならない。
3. 心から謝ること。みせかけの謝罪は謝罪しないことと同じぐらい悪い。「僕は演技が上手い」などと思っていても、本気で言っているかどうかは他人の目から見れば明らかだ。
4. 「ごめんなさい」はただの言葉。その言葉に意味を持たせるには、ミスを繰り返さないようにベストを尽くさなければならない。そのための戦略を考え、徹底すること。
5. 意味のある謝罪というのは、弱さではなく誠実さの表れだ。誰でも他人を非難し、自分は悪くないと言い、真実を隠すことができる。強くて冷静な人物だけがミスを認め、本当の尊敬を得ることができる。
6. 助けを求めることを恐れるな。自分だけで出来ないなら、誰かに解決を手伝ってもらうこと。自分の手に負えない事態なら、別の人に引き継ぐこと。
 
(この後に【謝られるとき】と続くのだけれど、省略!)

その通りだな。
今までも「きちんと謝る覚悟ができるならば、ミスすることは怖くなくなる」と言ってきた。
「きちんと謝ること」と「自信を持つこと」は裏表だと思う。

また、きちんと謝るためにはまず「自分の非を認める」ステップがあると思うけれど、その勇気も大切だな。
「自分の非を認める」=「自分にとって不利になる」の発想から抜けられないとどうしてもその勇気は出ないね。とてもちっぽけなままだ。

何らかの事情で、自分の意志とは裏腹に本来するべき事が出来なくなったとき、さらにその事によって事態が悪化していくとき、自分ではどうしようもないもどかしさと、いきり立つ憤りは、どうすればいいのか?

6月
20
根は

深い。とんでもなく。
入力不可能なモンスターは数限りなく。
とても太刀打ちできない。

せめて、大切な宝物を精一杯守り愛しみ育てる。
私のやり方で。
悩みも増すが「正しい道が楽な道だとは限らない」。

本質を見逃さないように。

6月
12
笑う

しかない、という場面に遭遇した。
久しぶりだ。
もちろん、楽しくて、面白くて、笑うのではない。
クスクス、うふふ、なんてものではない。

わはははははっっっっっ!
いっひっひっひっっっっっ!
えへっ!えへっ!えへっ!えへっ!
あ”〜〜〜〜〜くるしい〜〜!
がはははははっっっっっ!
 

悲しい、悔しい、苦しい、どうして!…などが度を超していくと、笑うしかなくなる。
こんな感じの時は、人の感情の安全装置が働いているのだと思っている。

そうなってしまう状況については複雑に考え感じている。悲しい、悔しい、苦しい、どうして!…、な状況がどれだけ心を圧迫しているか、痛くて涙が出る。

しかし、一方できちんと安全装置が働いて笑いこけているのを見ていたら、ほんのちょっぴり安心した。
「壊れていない!」

しばらくの間笑って、だいぶ落ちついた。
いくら笑っても何も解決もしないだろうが、それでも心のバランスはかろうじて保たれたような気はする。

こんな様子を見て「何も解決しないのだから笑うなんて不謹慎だ、とんでもない!けしからん!」という見方をする人も世の中にはいるのだろうな、なんて考えたことも事実。

6月
12
自信

が無いんだな、と思う。

ネットをさまよっていたらこんな言葉を見つけた。

○何事も決断できない人は、何事においても自分を頼ることのできない人のことです。
○自信をつけるためには「相手に依存しないこと」。 これしかないと思っています。
○自信とは、自分で自分を頼ることのできる能力なのです。

などなど。なるほど、そうだよなぁ、と。
こんなのもあった。

初心者だとか経験がないとかは、他の誰かと比較した場合の話であって、自信とはそれこそ「どれだけ自分を信じられるか」という「心の強さ」の問題だと私は考えている。

特殊なパーソナルな問題かと思っていたけれど、どうも「類は友を呼ぶ」のか、そういった個が集まってできた集団も性格はほとんど変わらないようだ。当然と言えば当然か。

腹立たしい、ではなく、とても残念。

5月
22
無駄

は大切だと思う。
ただし、無駄を生かす、無駄は生きる、ということを理解していなければならないが。

たとえば。
花にんじんを作る。花にんじんとは花びらのような形をにんじんで作るもの。煮物等の飾りにすると見た目は美しいし、少し贅沢な感じがする。作ると切りくずが出て食べ物がもったいないと思うなら、普通の輪切りでかまわない。味付けが違うわけではないからね。
しかし、切りくずは「ゴミ」ではない、それを使って別の物を作ればよい、と思えば手数は増えるが、品数も増えるし美しい盛りつけで豊かになれる。

たとえば。
できれば失敗はしない方が良い。失敗はダメなもの、悪なもの、と思えばなおさら。
しかし、その失敗で経験値が上がる、生きる為の肥やしになる、と思えば失敗はたくさんあった方がよい。様々な経験をすることでその人の豊かさにつながると思えば、失敗は失敗でなくなる。

以前、自分の中で「豊かさとは無駄の多さである」と定義したことがある。
効率よく無駄なスペースを作らない収納庫は、物の出し入れに苦労する。一度きれいに詰めたら二度と出したくなくなる。

もちろん無制限に大きくても意味がないが。

無くても良いけれど、有って活用すると豊かになれるもの。それを付加価値というのではないか。
「無駄」は必ずしも「浪費」ではない。無駄だから一方的に排除する、のような発想は決して豊かさを生まない。

スクールバンドは経費がかかる。桁違いに大きい。
大きな音が出てうるさい。近所迷惑だし授業後の補習や仕事に支障がある。
毎日遅くまで練習、休みの日も練習、もっと勉強する時間が…。

確かにどれも事実だ。でもそれを無駄だからといって排除する方向に動くと確実に貧相になる。
「バンドが無くなる」といった直接的なことだけでなく、それを維持しようとする心の豊かさが無くなる。その事はつまり「魅力を失う」ことだと気付くべきだ。

しなければならないのは、その一見「無駄」と思えることを活用する方向に発想すること。
実はその発想が既に「豊かさ」なのだと思う。

5月
19
愚問

ある時ある人に、一度尋ねてみたかった質問をしてみた。
「仏教はどちらかというと性善説ですか?それとも性悪説ですか?百八個も煩悩があるんだから性悪説なのかな?」
すぐさま答えが返ってきた。
「どちらでもありません。中道です。」
「煩悩は悪ではなく、苦です。」

中道(ちゅうどう)とは、仏教用語で、相互に対立し矛盾する2つの極端な概念に偏らない自由な立場による実践(仏道修行)をいう。
by Wikipedia

とても明快で嬉しかった。
と同時に、知る事はやっぱりとても大切だと思った。
聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥。

中道。
うん。自分の言動に照らし合わせてみる。
どうだろう?

比べても全く無意味だけれど、お釈迦さまは、六年間(七年間?)で中道を覚ったという。

5月
15
スイッチ

を入れらてしまったような。

なるべくそうならないように、と願っていたが。
もしかしたら遅きに失したか?
それとも早急すぎたか?

 

以前ここに書いた。
一度開いてしまったものをふさぐのは難しい。
…私の中で雨は降り続ける。

「無条件に信じる」
のと同意義で、
「手段を問わず守る」
大切な、唯一無二かけがえのない宝物達を信じ守る。

私がやらなかったら誰がやる?
onです。

5月
10
3D

3Dアート(Three dimension Art)というモノがある。
なんだか訳の判らない絵が描いてあるのだけれど、平行視やら交差視やらという方法で見ると今まで見えなかった物が立体的にくっきり見えてくる不思議なアレ。

やったことがある人はすぐに分かると思う。
一度見えてしまうと、なーるほど、そういうことね、と、さっきまで見えなかったことが嘘なくらいくっきり見えてくるのだが、見えない人はどうやっても見えないのだよね。

一見、たいしたことではないのだけれど、この差は決定的。

見えたか、見えなかったか。
あるいは。
見たか、見なかったか。

次の言葉達に置き換えてみる。

知ったか、知らないか。
理解したか、理解できないままか。
出来たか、出来なかったか。
続けたか、やめたか。
聞いたか、聞かなかったか。
やったか、やらなかったか。
到達したか、到達できなかったか。
合格したか、不合格か。

いくら「つまらないモノだから見えなくたって全然構わないし、そもそも見える意味が判らない」と見ることできない人が言ったとしても、見ることの出来る人にとってその言葉は単なる「空々しい言葉」や「見る事が出来ない可哀想さ」はたまた「見ようとすることを放棄している虚しさ」を感じるだけである。決して見えないことを肯定する気持にはなれないだろうと思う。

それは、見えている人が見えていない人より確実に上位に位置することを意味する。
さらに言えば、見えない人は見えることの意味や意義、見えた結果の推移(言い換えるならば、見える人の気持ち)は決して実感として理解できないのであろう。
一度「見えなくても良い」と考えた人が、見えるようになるのはほとんど不可能だ。偶然何かの拍子に見えることがあったりして、再度「見たい!」と思えば別だが。

最悪なのは本当は見えていないのに「見えた!」と思い込んでいる場合。
勘違いがさらなる勘違いを引き起こし訂正不可能なスパイラルに落ち込んでいく。
本人は気が付いていなくても、見える人からすれば見えたか見えていないかは一目瞭然なのだから、その姿は滑稽で哀れでしかない。
「おいおい、嘘付くのもいい加減にしとけや」になってしまう。

見えたか、見えなかったか。

安心してね。見えないことが即ダメなことでは決してない。
見えないことを、謙虚に認め、「悔しい!」と思い「必ず見たい!」と思うならば、いずれは見えて世界が開けるだろう。
また、1つ見えても、当然次の課題が押し寄せ、再度レベルアップした「見えない」にぶち当たるのだ。
結局はその繰り返し。
そして、見えるようになったことはそれ以降、全てあなたの血となり肉となるのだ。自分のスキルとなってあなた自身に幸せをもたらしてくるのだ。

スウィングガールズ風に言ってみる。
世の中は2種類の人間に分けられる。見えた人見えていない人だ。
 

さて、あなたは音楽の幸せについて、見えているか?見えていないか?

TSW-NGOな人は見えていて欲しいな。
もしくは、絶対見たい!と思って欲しいな。
…私はそれを信じているからこそ、それでも今ここにいる。

5月
08
誤変換

パソコンを使うようになってから随分になる。
PC98(MS-DOS)の時代からだから。

その時代からも日本語漢字変換プログラムはあった。ただしあまり賢くなく誤変換が多かった。
しかし、機能が良くないから漢字の間違いが多いか、というと必ずしもそうではない。結局は人間の使い方次第なんだな。
現在の漢字変換プログラムは随分賢いが、それでも一発で変換してくれない場合は多い。しかも、その変換が合っているかどうかの検証は人間がやる。スペルチェックや文章校正機能がワープロソフトにあるが、それでも最終的な判断はやはり人間に頼るしかない。
 

良くある変換で行ったり来たりするのは「者」と「物」。間違えると大変失礼だ。人に対して「物」扱いしてしまうことになるからね。
うっかり、あわてて、文章作ると見逃す。大雑把な私は良くありがち。だから気をつける。

実生活でも?
「者」と「物」を取り違えているのではないか、と感じることがある?
個々の「者」にはそれぞれ感情や意志があり、決して単一な「物」ではないはずなのに、と思うことがある?

日本には”自然物全てに八百万の神が宿っている”という考え方があって「物」にすら感情や意志がある、という文化がある。

単なる誤変換なら訂正すればいいのだけれど…。

5月
02
Outdoor

の会からキャンプのお誘いメールが来た。

その会は20年ほど前、GWに岐阜の庄川水系(旧荘川村)辺りで行っていた釣行キャンプが始まりだ。
後には秋に筏に乗ったり、年末に船に乗ったりもしていたな。
中心な方は私に山やキャンプや釣りを教えてくれた自称「作曲も出来るハンドアマン」。
私の師匠もメンバーだった会。
名前の由来はよく知らないけれど、奇人が集まるという意なのかな。
集まってくる方々はそれぞれの世界では蒼々たるメンバーなのだが、夜な夜なたき火を囲んで酔っぱらう姿から、普段の社会的活躍など到底想像は出来まい。
 

==
さて。
庄川は良く通ったものだ。
まだ東海北陸道が出来る前のこと。白川郷が世界遺産になる随分前だ。R156をひたすら北上しひるがのの分水嶺を越える。スキーシーズンは渋滞が酷かった。
御母衣ダムでルアーを投げ、その上流や下流で10mの本流竿を振った。
夏、10泊の大キャンプ中、台風直後の大増水で馬鹿釣りをしたりもした。
小さな支流に入りテンカラの練習もした。
 

ウェーダーを履いて川の流れに入り竿を振っていると、いつの間にか外の音が聞こえなくなっていることに気が付く。聞こえてくるのは心の中の音だけ。(決して源流部の山奥ではなく、里中なので人工物や生活音などが無いわけではないのだが。)

心の中の音と言ってもいろいろ。
自分の(心の?)つぶやき。
心に留まっている誰かの言葉。
ずっと鳴り続けている音楽。
たまに突然降って湧いたように思いがけない人の声を聞いた気がするときもある。
もしかしたら木や虫や鳥や獣の声、あるいは岩や水や風の声(それって精霊っていうのかな?)だって聞こえているのかも知れない。
行動は、流れていく目印をひたすら追いかけていることだったり、ルアーの動きを竿先に感じることだったり、に集中しているはずなのだが、それとは全然別の意識の流れのなかでずっと音を聞いている。
ふと、「チッ、チキチキ チッチッ チキチキ」とカワガラスがドラムマーチのようにさえずり出し、現実の音も聞こえてくるが、人間の営みの音(しゃべり声だったり音楽だったり)は聞こえない。
だから私は、釣れなくても心が安まるのだと思っている。

釣行を重ねるうち、いつの間にか数釣りは飽きてきた。
気持ちの良い釣り方で、コンディションの良い魚が数匹釣れれば充分。
人間だもの、自分が生きていくためには殺生もする、ただ、無駄な無意味な殺生はしたくない。だから釣ったらそれを大切に食事で頂くと決めていた。

川の水は常に流れ、同じ水であることは決してない。風が吹き、雲も流れる。
雪が降り、積もり、解ける。木々は新芽をだし、花を咲かせ、紅葉し、葉を落とす。
そして日は昇りまた沈む。
大自然はシステムなのだ。あらゆるものが関連しあい絶妙なバランスを保っている。それで全てが成り立っている。
自然って凄いな。人なんて全然小さいぞ。と、川の中に立つといつも感じる。
流れに逆らってそこに立ち続けることは案外キツく、かっこ悪いのかも知れない。
自然の流れに身を任せる謙虚さが結局はスマートなのかも知れない。

大自然に逆らうことなく同化できた時に良い釣りが出来るような気がするし。
==

KIJIN会。
今年もお誘いを受けたれども、残念ながら参加できそうもない。
庄川水系の支流辺りだそうだ。岩魚の渓だな。
まだ、しばらく釣りは出来そうもない。おあずけだ。
今は現実の音ばかりが聞こえてくる。