10月
31
パンク

今朝、通勤しようと車に乗ったら、なんやらごろごろ音がする。
寒くなったからエンジンの調子悪くなったかなぁ、とか思いながら少し走った。
しかし、高速道路通勤だから、念のため道路の端に車を止め降りてぐるっと見てみた。

お見事、左後ろのタイヤに空気が入っていないぞ。
車に載ってるスペアタイヤは使えるのかどうか確認したことがない。しかし家にはスタッドレスがある。こりゃ、引き返しタイヤ交換するしかない。

朝から大変。途中で大事故するよりはよっぽどマシだが。
タイヤのパンクなんか今までほとんど無かったが。
帰りにスタンドで見てもらったら、何かが刺さったとかではなく、バルブの調子が悪かったみたい。バルブの横から漏れてた。

走行距離が尋常ではないからしょうがないか。

10月
27

時には必要な嘘もある。
時にはやむにまみれぬ嘘もある。
だから、全ての嘘が悪ではない、と思う。

しかし、麻痺すると怖い。
嘘が嘘を呼ぶ。嘘の罠から逃れられなくなる。
ドラッグと似てる。堕落。

一線を越える前に気が付き引き返せると良いが。
自分には嘘をつきにくいから、一番よく知っているのは自分自身だろう。取り返せるのは自分しかいない。誰も手伝えない。

10月
27
混雑ピーク時の

ファミレスで食事した。

自分の席からちらほら見え隠れするテーブルに若い夫婦と子供1人が座った。子供は2、3歳くらいだろうか、向かい合って座った夫婦の横手に子供用のイスを用意してもらった。つまり、子供を挟んでコの字に座っているということだ。 子供の反対側は相席で他のお客が食事をしている。

その幼い者は、しばらくおとなしく座っていたようだが料理が運ばれてくる頃になるとイスの上に立ちだした。さらに背もたれに座ったり立ったりを繰り返すようになった。
「ま、子供だからごそごそするのはしょうがないかも知れないな」と思いながら、「もし転んでイスから落ちたらどうするんだろう」と思いながら、「子供がケガしたらまずいじゃん、危ないじゃん、と思わないのかな」と思いながら、「その時はこけるようなイスを提供した店が悪いとか言い出すのかな」と思いながら、想像した一つ一つに冷や冷やしながら見るともなしに見ていた。
で、あることに気が付いた。この両親はその子供の行動について一切何も注意しないのだ。子供は存在しない、自分の邪魔をされたくない、と決め込んでいるかのごとく無関心。いや、ちょっと待て。母親は違うぞ。そんな子供に「あーん」してご飯を食べさせている。しかし、立ったり座ったり行儀の悪いことには一切触れないみたい。
そのうち、その幼い者イスから脱却し、テーブルの上に正座しだした。レストランという公の場の、しかも食べ物がが並んでいるテーブルだ。すぐ隣には別のお客だっているのに。
それでも、母親は何の注意もせずに「あーん」させて食べさせている。相変わらず父親は我関せず自分の食事に没頭している。

この両親は、10年後このその幼い者が成長したとき、様々な難問を抱えて大変な目に遭うんだろうな、その時じゃもう既に時遅しだよな、するべき時にするべき事をするってことは本当に大切だよな、などと話していた。
そしたら、おもむろに今まで全く無関心と思われた父親がその幼い者を抱き上げた。「えっ?子供が嫌いなんじゃないんだ!」「親としての自覚は一応あるんだ」とほっとしようとした。が、すぐにそれは違うと直感した。

とにかくそのときに自分のやりたいことをやっているだけなんじゃないか。その父親は、一番やりたいこと、すなわち「自分の食事」が「終わった」のだ。だから次に自分がやりたいこと、すなわち「子供をあやす事」を「始めた」のだ。
いや、それとも、ようやく食事が終わって手が空いたから仕方なく幼い者の世話をする気になったのかも。

無邪気にはしゃぐ幼い者の罪のない顔と一見幸せそうに見える2人の大人を見比べながら、こりゃ大変だぁ、このつけは誰が払うんだぁ、と苦しくなる食事だった。

10月
24
言葉

が通じていないと思う事例が最近多い。
いや以前からそうだったかもしれないが、特に言葉について今まで以上に神経質に考えるようになったのかも。

「通じていない」ことはコミュニケーションがとれないことを意味する。
だいたいのことが通じても、肝心なこと、大切なことが伝わらなかったり、間違って伝わったり、理解できなかったりすれば人の相互理解はとても困難だ。

それでも話が通じないと思われる相手と「たぶんそういうことなのだろう」などと推測しながら話をしなければならないことが良くある。
正確に伝わったか、誤解したか、を常に確認しつつ、もし誤解だろうと思われるのだったら、何処まで遡ってその訂正作業をしなければならないか、どうやったら正確に伝わるか、余計なことまで組み立て無ければならないのでとても苦労する。

たった1つの指示をするだけなのに端的に正確に伝えることが出来ないのは、伝える側のより的確な指示語が発せられないからなのだろうとは思うが、それとは別に受け手側も能力開発も必要だよな。
それは、どこで、誰がやるのかな?日常の中でその都度気がついた人がやるのに違いないのだけれど。

考え過ぎかな。

10月
22
渋滞

学校を出たのが17:30。
豊川ICに入ったのが17:45。
家に着いたのが20:45。

うーん。辛い。
その間にぼーっと色々考えること出来るけれど。
これでも豊田JCから東海環状に抜け藤岡・グリーンロード経由で迂回した結果。
もし、そのまま東名走り続けたら後1時間は余分にかかっただろう。
そんなにたくさん、いたるところで工事をやってるのかといえばそうでもない。
車線規制が延々と続くだけ。

通常試験中は早く帰って普段出来ないことがたくさん出来るのだが全滅。
エコノミー症候群か、足のむくみは最近ひどい。
困難な状況が増えてきつつあり、打開策に苦慮する。

「抜本的な解決」が求められているのか?

9月
26
つれづれ

最近見つけた文章。

彼らの現状の体力や運動能力を超えている時、彼らは初めて自分への挑戦を実感する。そのとき「しらけ」は100%吹っ飛んだことであろう。背伸びしない青春は不幸ではないのか?憧れを持たない日常は退屈ではないのか?自分達にとって「挑戦」となるような課題を得た時、思春期のしらけが消えるのである。

もひとつ。

辛いときには
誰かに
頼ればいい
誰かが
辛いときには
頼れる人になればいい

9月
20
曼珠沙華

必ず秋の彼岸には曼珠沙華が咲く。
今日、あるジュニアバンドの練習に行ったとき、その窓から見える土手いっぱいに咲いている事に気が付いた。
帰宅してからの犬の散歩中、畑の土手や田の畦にやはり咲いていた。
毎年必ずこの時期になると正確に咲くものだ。もちろん、だから彼岸花なんだろうが。
 #どんな仕組みなのか気になる。日の出日の入り時間を計っているのかな?

先日の中秋の名月は天気が悪くて見れなかった。雨だったな。団子を食べただけ。玄関前にあるススキはとても良い感じに穂が出ているのに。
昨日は台風だった。このあたりは特にひどい事にはならなかったが。練習が無くなったりしてスケジュール的には元々タイトなのにさらにタイトになってしまった。(大会前でなくて良かった…)

今晩は開け放した窓のカーテンを勢いよく揺らしさわやかな良い風が吹いている。
秋の虫が鳴いている。コオロギ、スズムシ、キリギリス、カネタタキ、マツムシ、クツワムシ、…賑やかだ。
いつの間にかもう秋なのだ。

私自身、自分の中で様々な事が動き出しているようだ。今までずっと蓄積してきた経験がどうやらいっぱいになって溢れ出してきたらしい。
TSWの次のステップに行くために、何か新しい風も吹きそうな気がする。
人に変化を求めているのだ。自分も変化しなければ。
そのためにはまず勉強。推察、考察。企画、そして実践。

急ごう!時間がもったいない。

9月
19
ゴクラクハゼ(2)

別宅で過ごしているゴクラクハゼ。全部で5匹。

クロメダカやヌマエビを食べてしまうので致し方なく別居中だ。その住処は確かに居心地は良くないだろうと思う。箱は小さいし水の浄化は限界があるし隠れるところないし。

でもだからといって自分から飛び出して床に落ちるような自殺行為はしないほうが良いと思うぞ。
新天地を求めているのだろうか…?それともやむまみれず発作的に飛び出してしまうのか…?それとも単なる事故か…?

一匹は床に落ちていたのに気づき水槽に戻したら、今のところなんとか泳いでいる。手遅れにはならなかったようだ。
もう一匹は棚の後ろのほうに落ちていたのでしばらく気がつかず、気がついたときにはだいぶ体表が乾いていた。ぴくぴく動いていたので水に戻したが時既に遅し、先ほど絶命した。
いくら乾きに強く少々水から上がっても平気で大丈夫なハゼ科の魚でも限度が過ぎるとダメだよ。

誰かが気づき、手遅れにならないうちに戻してくれたら(自分だけでは決して元に戻れないから)、当事者は「良い経験をした」という事なのかもしれない。
しかし誰も手を貸してくれなかったり、気がついても手遅れだと、残念ながら即そのまま昇天だ。

自由を求めるのも良いがリスクは高すぎる。
飛び出すのは自分の意志かもしれないが、飛び出した後、自分では到底対処できない現実が待っているのだから。

9月
17
我が身を置き換え

というキーワードで検索した。

どうも「我が身を置き換える」ことが不得手な人が多いように感じたからである。
どうやってそのことを説明し実践させ実感させるか、何かヒントがないかなぁと。

実際には「我が身を置き換えた」結果の記述がたくさんヒットするだけで思うようなものはなかなか見つからない。
まだまだ検索語を変えて再トライする価値はあるだろう。

しかし、一つ興味を引くものを見つけた。
ここ。タイトルに親しみを感じた。まだ全部読んでいないけれど、特にここにあるこれなどは私にとって多くの示唆を含む。今、う〜〜〜んと唸りながら考え込んでいる。いやいやしかしTSWは曹洞宗を背景に持つぞ、とか、宗教なんか考えたこともないくせに、などと思いながら。

リンクご自由にどうぞ、だったので直リンクしました。「風の便り」さん、ありがとうございます。でもケータイでは見づらいかも。(私のでは何とか表示できたけれど…)

さて、話は戻って「我が身を置き換える」。
気のきく人になって欲しい。そのためには「我が身を置き換えて」人の気持ちを理解しようとすることが大切だと思うのだが。

「自分の気持ちをわかってよ!」の前に「あなたの気持ちをわかろうとします!」
それが幸せな音楽やマーチングの第一歩じゃないかな。

9月
13
メダカ(2)

かつては、童謡「めだかの学校」にもうたわれたように、小川にメダカが群れて泳ぐことが見られるのはごく普通だった。

しかし、様々な要因により野生のメダカが各地で減少している。1999年2月には、環境庁(当時)がレッドリストを発表し、その中の絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)(絶滅の危険が増大している種)にメダカを記載した。これにより、メダカは2003年5月に環境省が発表したレッドデータブックに記載され、絶滅危惧種に指定された。

これは、種としてのメダカが日本から絶滅することが危惧されたというよりも、地域ごとに遺伝的に大きな多様性を持った地域個体群の、局所的な絶滅の進行が危惧されたことによる。 メダカの生息水域ごとの遺伝的な違いは詳しく研究されており、遺伝的に近いグループごとにまとめると、北日本集団と南日本集団に大別され、これらは生息している水域ごとに約10種のグループに細分されている。さらに、これらの水域ごとの遺伝的に異なる個体群には、それぞれ相互に異なる環境適応の構造が検出されている。

減少の主な原因は、農薬の使用や生活排水などによる環境の悪化、護岸工事や水路の整備などによる流れの緩やかな小川の減少、繁殖力の強い外来種であるカダヤシとの競合に負けたことなどが挙げられている。また、メダカは水田のような一時的水域に侵入して繁殖する性質が強く、近年の農地改良に伴う用排分離により、用排水路から繁殖時に水田内に進入することが困難になっていることが特に致命的となっており、メダカの繁殖力を著しく削いでいる。そして、この事がカダヤシとの競合をさらに激しくしてメダカを窮地に追いやっていることも指摘されている。

皮肉なことに、絶滅危惧種に指定されたことは、メダカの遺伝的多様性を減少させ、遺伝子汚染を起こさせる引き金の一つとなっている。 絶滅危惧を指摘されたことで、にわかに保護熱が高まった結果、遺伝的な違いなどへの配慮をせずにメダカ池やビオトープ池を作り、誤って本来その地域に放流すべきでない他の地域産のメダカや、観賞魚として品種改良を施された飼育品種であるヒメダカやシロメダカを放流した例が多数ある。ひどいところでは、誤ってカダヤシをメダカのいる池に放流してしまった例もある。これらは、明らかに本来の遺伝的集団の破壊行為である。そのため、誤った知識に基づいてメダカを放流するのは、喜ばしいこととは言えない。

また、近年では発光遺伝子を持った「光るメダカ」などが台湾などから輸入され一部の業者で販売されているが、これは明らかな人工操作であり、これらが放流されてしまうことでの遺伝子汚染が危惧されており、現在販売を取り締まっている。

2007年8月のレッドリスト見直しにより、絶滅危惧II類(VU)の指定が「メダカ北日本集団(Oryzias latipes subsp.)」と「メダカ南日本集団(Oryzias latipes latipes)」の2つに分けて記載された。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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たかがメダカ。
されどメダカ。

本来あるべき(完成された)ものが無くなり、人為的に作られた(不完全な)物に取って代わっていく。

時代の流れ。
そんな簡単な言葉で片付けて良いの?

本来あるべきもの。あるべき姿。すなわち本質。
我々の本質って何だろう?
吹奏楽って?
音楽って?
高校生って?
部活動って?
教育って?

==かつては、童謡「めだかの学校」にもうたわれたように、小川にメダカが群れて泳ぐことが見られるのはごく普通だった。==