6月
11
言葉と記憶

朝日新聞 2015年06月11日 名古屋朝刊 の記事。
新聞記事はこちらから。(ただし有料コンテンツのようです。全文読むにはアカウント要ります。)

また、きっとこれが一番のネタ元だろうからこちらも貼り付け。(名古屋大学の6月11日付けPress Release)
顔の特徴を言葉にすると記憶をゆがめる可能性 名古屋大

「言葉」は全能といえない、過信してはいけない、ということだと理解した。

であるならば。
言葉にしないのなら記憶をゆがめる可能性は減るのだろうか。

そういえば。
絶句 という言葉がある。
感動したときに「言葉に出来ない」とか「言葉にしてしまうともったいない」などと言うことがある。

6月
11
ヒャクジツコウ

百日紅と書いてサルスベリと読む。

サルスベリ(百日紅=ヒャクジツコウ、Lagerstroemia indica) ミソハギ科の落葉中高木。 Wikipediaより

散れば咲き 散れば咲して 百日紅 とは、江戸の女流歌人、加賀の千代女の句です。
 -中略-
 果実がたわわに成る、とは言いますが、この木は花がたわわに咲き、花の重みで、枝が弓になりになってしまいます。
 わさわさと散り、もりもりと咲く、というお祭りが、秋までの百日間続きます。長い、長いお祭りです。
 百日紅のしたたかさに、江戸の浮世絵師がだぶり、表題はこんなふうにきまりました。
 -後略-

百日紅 杉浦日向子 1983年〜1987年 『漫画サンデー』(実業之日本社)に連載。
上記はその単行本にある、杉浦日向子氏自身の前書きの一部を転載させていただいた。

百日紅は葛飾北斎とその娘お栄の物語。
杉浦日向子氏は、かつてNHKの「お江戸でござる」で江戸文化を解説していた方。本業は漫画家なんですね。

ちょうどいまアニメ映画が封切り中だ。百日紅〜Miss HOKUSAI〜 この辺りでは名演小劇場でやっている。まだ観てないが。

読んだのは、実業之日本社 マンサンコミックスから出ているワイド版単行コミック、百日紅(一)(二)(三)。(なかなか古本屋チェーンにはならんでない。ある時、たまたま見つけた。)

なんだか妙に心に残る作品。さわやかでしたたかであたたかく、そしてつよいひとたち。
こんな時代に生きていたら、それはそれで楽しかったのだろう、と少々うらやましくなる。
もう一つ。この百日紅読んで、春画の見方が変わった。良い意味で。

調べてみるとこの百日紅、名だたる漫画家はこぞって大いに影響を受けているらしい。内容なのか技法なのか私にはよくわからないが、ただものでは無いということは感じる。短いエピソードが自然に入ってきてずっと残像が消えない。

6月
10
集中工事

最近、高速道路の工事では「集中工事」というものが主流になってきた。
いつもあちこちで小さな工事が散らばっているよりはましなのだろうとは思うが、実際にその集中工事と自分の移動が重なるととんでもないことになる。

20kmも30kmも連続車線規制が続く。全く止まって動かなくなる、といいうことはないが、総じてアイドリングで動いている程度の速さ。
「安全のため連続して車線規制しています」のだから、いったん規制部分にはいると何とか流れ出すのではないかと期待したが、駄目。
ジャンクションのたびにほかからの流入車数がおびただしい。そこで流れはすぐ悪くなる。
高速道路が整備されてきたおかげでジャンクションの数はずいぶん増えたからなぁ。

あらかじめ判っているとはいえ、渋滞の予測が不慣れな者には難しい。
普段(高速道路のみでは)約40分で行くところを、今日は2時間近くかかった。

あーあ。来週もだ。
別ルート開拓しようっと。

6月
07
「音楽」は理数科目である

考えるきっかけとして以下サイトを紹介。マガジン航より

音楽教育理数系編入論【前篇】
音楽教育理数系編入論【後篇】

【後編】に
学校は経験や知識を与えるべきである。感性や情操を直接的に強要すべきではない。
とあって、その通りだとは思う。そして、「音楽」という教科は、特に知識を与える事についてないがしろにしてきたかもしれない、と思う。

なぜなら、楽譜の読み書きは既に小学生の低学年でやっているはずなのに、中学生でも高校生でも平気で「私は楽譜読めません」と言う。だいたいそういうときは「読めることが特殊なのだ」と言いたげだ。

しかし一方で「感性や情操」も育てたいと思う。もちろん「育てる」というのは「ある決められた感性や情操を身につけさせる」ではない。
どうしてもそこに行き着きたい。そこに行き着きけると思いたいのだ。
 

上記のリンク紹介は『船に乗れ!』三部作(ポプラ文庫)の著者 藤谷治 という方が書いた記事。
近いうちにその小説は読むことになるだろう。

6月
06
喫煙室

移動中、高等学校の校門横にて、雨の中にもかかわらず立ちつくして喫煙している人を見かけた。

いうまでもなく、校内禁煙になってしまったのでしかたなく「校外」に出てちょっと一服、な愛煙家先生だと思われる。

少しだけ同情しつつタバコのことを考えていたら、つと思い出したことがあった。
全く別な時と場所なのだが、喫煙に関する何度も出会った同じような状況のことだ。

そこには喫煙室があった。(施設内禁煙なのだから本来あってはならない部屋。力のある愛煙家の超法規的措置による。本来ならば当然冒頭の状況にならなければならない。いや、それだってあまり見栄えの良い物ではないが…。)
当然、愛煙家は何か理由を見つけてはそこに行ってたばこをくゆらす。
それは全く構わない。私だってかつて自他共に認めるヘビースモーカーだった。タバコを吸いたくなる心境とかタイミングとか喫煙中の雰囲気とかとても理解できる。
はじめは「どうごぞゆっくり」な気持ちでそんな状況を流していた。

しばらく経って、いつの間にか物事のあらましが決まっていたり特定の情報が特定の人達だけに知られていたりすることがあり、それはなんでだろ? と考えていて「そうか?」と思い至った。
組織のトップは愛煙家。愛煙家だから要人というわけではないが、要職に愛煙家は複数いる。有象無象の愛煙家はそれなりに。
「そうか、喫煙室が密談室になっているんだ」

通常、喫煙室はタバコを吸うところ。そしてリラックスするところ。だから愛煙家はそこに集う。
その状況で、様々な話題が出て、その(大概は他愛もない)やりとりがあって、業務に戻っていく。

しかし、時として状況が逆になることがあるのだ。
暗黙の招集がかかり、煙の中で頭をつきあわせながら策を練り、ヤニにまみれて出来上がったそのプランを持って喫煙室から出てくる。

嫌煙家は絶対その部屋に入ってこないだろう。保証付きだ。どうしても急ぎの用事があったらケータイ。
健康を害すると最大敵視している煙った空気、ヤニのにおいの中に自ら入って来るわけがない。
それを良いことにそこにいる人達だけで物事が決まっていく。
「決定」されるわけではないがだいたいの骨子ができあがりその後のシナリオが出来ている。

一番はじめに気がついたときは「フェアじゃない!」と気に入らなかった。
いつどこでそのことを糾弾しようか狙っていたくらいだ。
再度違うところで発見したときには、ああ、まただ。で終わらせてしまったけど。

私がそこに入って行っても咎められることはなくむしろ歓迎されただろうが、休煙(禁煙)はじめたばかりでまだ不安定だった私がその部屋に入ったら、絶対また吸いたくなるに決まってる。
吸いたくなったらまたいつでも吸うぞと(今でも)思っているが、仲間に入りたいがための喫煙再開という愚行はしたくなかった。(する人もいたということだ。そして勘違いが始まる。)

全く同じ状況に何度も出会った。全然別のところでも。別の時間でも。
きっとどこでも状況は同じなんだろうね。人のやることなんだから。

幸か不幸か、私の休煙は途切れることなくまだ続いている。

6月
02
鯨のソング

海獣の子供   五十嵐大介 / 小学館 IKKI COMIX より

ジム
 「何が違ってしまったのか…」
アングラード
 「ねえ、ジム。僕とあなたとの違いがわかる?」
ジム
 「え…」
アングラード
 「 ”言語”なんだ。
  僕はごらんの通りおしゃべりだけど、言語のない世界を持っている。
  世界を受け止める事認識する事を、言語に因らずにしているんだ。
  あのころと同じように…」
ジム
 「…」
アングラード
 「言語は性能の悪い受像器みたいなもので、
  世界の姿を粗すぎたりゆがめたりボヤかして見えにくくしてしまう。
  ”言語で考える”って事は決められた型に無理に押し込めて、
  はみ出した部分は捨ててしまうということなんだ。
  鯨のうたや鳥の囀りアザラシの泳ぐ姿のほうが、
  ずっと豊かに、世界を表現している。
  きっと昔は人類も同じだったはずだよ。」

「海獣の子供」は空と海と琉花のお話。

圧倒される。
特に5巻。ほとんどセリフなしで「本番」時の描写が何ページも続く場面での凄まじい緊張感。
途中で目がクラクラし、ページをめくる手が震えてきた。
まさに、上述したアングラードの言葉そのものだ。

読み終わってずいぶんな衝撃を受けている。

5月
30
気がつけば

あと数日で5月も終わり。
このところ何日も真夏日が続いたようで、夏はすぐそこな感じがしてる。
あ、でも、まだ梅雨があるか。

ところで。
(最近、気持ちの中で一つ年齢を重ねたのでそれで完結しているのだけれど…)先日は世間の考え方でいう特別な記念日だった。

FBではその日を非公開にしているし、最近特に何もメッセージ残していないから、FB上ではいつものように全く何もないままだった。それが望むところなので思惑通りになって良かった、と思っている。どうも私はFBに「今日は○○さんの〜です」と皆に言いふらしてもらうのが苦手みたい。

ほんの少しだけ、ささやかに、非日常だったけど、すぐに現実の世界です。全くそれで良い。

「え、そうだったのか。ならば俺もこれからでも、もっとがんばらなきゃ。」と思うこともあり、体も気持ちもいたって順調。
(といいつつ風邪気味ではあります。)

5月
15
本音?

まずはこちらをご覧くださいませ。

「ある会社で配布された、「新入社員へうちの会社が求めていること」という資料が、すごい本音だった。」という記事。
FBシェアにて、それに対するコメントともに流れてきた。

なるほど。私にはその内容がよくわかると思った。それを新入社員へ伝えたい気持ちもよくわかる。

一方、よくわからないのは「すごい本音だった。」という紹介記事の見出し。
見出しはWEB上で目立つための方便、ということを差し引いてもやはり多少の違和感がある。
「本音だった。」には「本音なんだから表に出しちゃ駄目でしょ」なニュアンスが見え隠れしてるように思うから。
「あーあ、言っちゃいけないこと言っちゃったよ。」な。

そうなのか。ここに書かれていることは「本音」であって、ふつうは表に出てこないことなのか。(表に出したら駄目なことなのか。)
新入社員にこうやって望んだり期待することは当たり前じゃん、と思う私は、もう既にこの段階で感覚がずれているのかしら。

次に「へぇ」と思ったのは、この記事に対して「こんなことしない」とか「こんなことできない」とかな人が以外に多いかも、と感じたこと。
「この要求は難しいんじゃない?」とか「できないでしょ」とか「出来たら良いけど」とか、他人事のような雰囲気を感じる。

さも当然のように「(自分は)どれもしない」などと実際に発信してる場合も見受けられたが、それは別の話。この記事の内容の先にあるものとか、書くにあたっての(…書かなければならなかった)想いとか、この文章中の文字として書かれていない部分にまで思い至ることが難しい場合は、「それはしない」で片付いてしまうのだろうな。

もちろん、特に若い世代の人達が「それはしない」で片付いてしまいがちなのは今も昔もあまり変わらないように思う。
そんな鬱陶しいこと聞く耳持たんぜ、は有る意味若者の特権だし。
だからこそ、そこに社会がどう働きかけていくか、という事が問われているのではないか。

「すごい本音だった。」という言葉になって現れたその記事が、話題になって何万の「いいね」をもらうということ(「いいね」と思う人がそれほど多いということ)自体、「本当はそうあってほしいけれど、本音言っちゃうとなかなか難しいからねぇ…」と感じて、しかし何もしないで「近頃の若いやつらときたら…」と文句だけ言っている人が実は多いのではないか、と物語っているように感じた。

一方では、この会社は、新入社員をまじめに育てようとしていることを強く感じる。入社した人材を本当に大切にしているからこそ、この働きかけをしてるんだと思う。育てるって莫大なエネルギーが必要なのだもの。その覚悟、意思の表明でしょう。新入社員がそれにどう対応するか、ではなく。

5月
12
Vivaldi

作曲家のことではない。

最近使い始めたWEBブラウザのこと。
軽い。表示が早い。時代遅れのXPマシンでも、FBページが止まらずにどんどんスクロールできる。
へぇ。実力有りそうだ。

今までOperaをメイン使うことが多かった(たまにChromeも…Firefoxはほとんど使わなかった…IEは一切使わず)が、今まで、スクロール途中でイライラしてあきらめていたから、きっと記事は全然読めずにたくさん見落としていたのだろうな。
しかも何気なくバージョンアップしたらいきなり知らない世界になっちゃったので、バージョンダウンをして元にもどさなければならなくなってめんどくさかった。
それを機会にVivaldiを知ったのだが、案外調子良さそうだからしばらく使ってみることにする。

5月
09
空中戦

ツバメが騒ぐ。
いつも機嫌良く賑やかにさえずっているツバメが、金切り声をあげて高速で旋回している。何羽も。
何事だろうとしばらく様子をうかがっていると、原因が見えてきた。
カラスに巣を狙われているようだ。
カラスは周りで騒いでいるツバメを尻目に動じず巣の近くまで飛び込んでいくが、結局獲物は得られずに飛び去っていくようなことを、何度も何度も繰り返している。
そのたびにツバメたちは大騒動だ。

別の日、別のところ。
車から降りたとたん、ケリがけたたましく叫んでいる。こいつは元々うるさいやつだから、「あ、ケリだ」程度でやり過ごそうとしたのだが、いきなり私にめがけて急降下してきた。と思った。
なんか気に触ることしちゃったのかな、と思って周りを見渡したがよくわからない。
何度目かの急降下を目撃しながら、対象が私ではないことに気がついた。
対象はカラスだ。
ケリは止まっているカラスに向かって執拗に急降下を繰り返しているが、接触するまでには近づけず1m位のところで離脱する。
カラスは動じない。反撃すらしない。

ついつい「ケリ、がんばれ!」
と思ったが、次の瞬間「いや待てよ」と思い直した。

ツバメやケリは、卵や雛をカラスに捕られまいとして防御してる。
人は勝手なもので、いじめられている様に見えるツバメやケリの味方をしてしまう。
場合によっては彼らに代わってカラスを追い払うこともやってしまいそうだ。
人間のゴミを漁って散らかすイメージがあって、憎っくきカラス、と短絡するんだろうな。

でも「それって間違っていないか?」となぜか突然思い至ったのだ。
カラスだって子育て中かもしれないし、自分が腹ぺこかもしれない。獲物を得られなければきっと生きていけないだろう。カラスにとっては当然の行動に違いない。
はたして、カラスは悪いことしてるのか? 悪い事してると人が勝手に判断して良いのか?
 

生きている子犬を釣り針につけて海に投げ入れ、鮫を釣っている写真を見て愕然となったことがある。
見た瞬間、頭にカッと血が上るのが判ったが、その時もやはり次の瞬間、別のことに思い至ったのだ。
「おまえは釣りをするとき、生きたゴカイやらエビやら使うだろう?鰺の生き餌だってふつうに使う。それは良いのか?許されるのか?」
しばらくの間とても複雑な気持ちになり、ようやく(無理矢理)自分の中で落ち着かせた思いは「自分が生きるためにほかの命を頂かなければいけないのだから、だからこそ命を粗末にしてはいけない。」という、ごく当たり前の事だった。
生き延びるための殺生と、人の快楽のために命を粗末にすることの違いはきちんとわきまえないと駄目だぞ。人間は思い上がっちゃいけないな、と。ほかの生き物に助けてもらっているのだ、ということを決して忘れちゃいけないな、と。

ナウシカ(コミック版)に、森の人が虫の卵を食べるシーンで、それを見たナウシカが「そんなことして虫は怒らないのか?」と聞き、「奪うのではないんだ。お願いして少しだけ分けてもらうんだ。」と返す場面がある。
 

ツバメとケリとカラスを見ながらそんなことをつらつらと考えた。
みんな生きることに一生懸命なんだよ。
でも奴らは決して必要以上のことはしないんだよ、きっと。
ツバメもケリもカラスも、みんながんばれ。