10月
18
楽しさ

「楽しければいいじゃん」と聞くと「うーん。それは少し違うんだよなぁ。」と言ってしまうことがある。それは「その瞬間楽しくさえあれば他は何でも良いんだ」という意味にとれる時だな。
逆に、「楽しさを求めるなんて甘い甘い!」な雰囲気を感じるときもあるが、やはり「うーん。それは少し違うんだよなぁ。」と言ってしまうことがある。「では、何のためにやってるの?そんな苦しいこと。」って思っちゃう。

だから、「えっ?じゃあどっちなのさ?」と思われることは多いだろうな。
そして、それを簡単な言葉で説明できず、なかなか難しいことだとずっと感じていた。

技術を「楽しさ」だけで論じるつもりはない。
〜中略〜
しかし、それでもやはり根底にあるのは、楽しさなのである。これを感じない人は技術者にはなれない、と僕は考えている。どんなに腕が良くても、である。それは、この得体の知れない楽しさだけが、技術というものへ向かう姿勢を長時間持続させるからだ。

創るセンス 工作の思考 / 森 博嗣 著 / 集英社新書 より

 # 森 博嗣という人は以前ここで書いたスカイ・クロラの作者。名古屋大学工学部の助教授だった方で、小説だけでなくここで紹介するような新書も複数ある。

「楽しさ」と「厳しさ」の同居を良く言い表しているな、と感じたので、覚え書き。
タマゴが先かニワトリが先かの議論に似ているけれど、私はほんの少しだけ「楽しさ」の方が先かなと思うわけで、それをうまく言い当ててる。

もう一つ同じ本から。

優れた技術者とは、知識が豊富なのではなく、ものの道理を知っている人のことだ。どうも、現代は本当に懇切丁寧なマニュアル社会になった。言葉が多すぎる(情報過多だ)から、言葉に埋もれてしまうのだと思う。

ふむふむ。

10月
14
ステマ

職業柄、ステマって聞くとどうしても「ステージマネージャー」を連想してしまうが、違う意味があるようで、「ステルスマーケティング」の事でもあるらしい。

ステルスマーケティングとは、それが宣伝であると消費者に気付かれないような宣伝行為。
口コミサイトなどで(広告代理店が?雇われた人が?)一般消費者を装い有利な(あるいは不利な)口コミや意見を書いたり、特定の企業などから報酬をもらっていることを明記せず自分のブログに企業や製品の評価記事を書くこと。

例えばウィキペディア参照

確かに、以前からその存在には気が付いていて、ネットさまよいながら一つ一つの記事を読むときに、必ず脳内フィルターにかけているつもりだ。

だが、確証がある訳でもなく心許ない。それらステマ記事と誠意ある主張との区別がなかなか付きにくいから、判断に困ることが増えてきた。
情報の信憑性を得るために(その虚偽を指摘するために)「ソースはどこだ?」が幅を効かせているが、そのソースでさえ実はステマかも知れない、さらにはその指摘ですらステマかも知れない、という疑心暗鬼はぬぐい去れない。そして、どの立ち位置にしても全く同じ事がいえる。もしかしたらステマ同士の応酬戦かも知れないのだ。(騒げば騒ぐほど、当然、ステマではない便乗組がわんさか湧いて出る。「炎上」というヤツ。もちろん首謀者はそれを狙っているのだろうが。ネチケの基本「スルー」はやはり難しいのだ。)
 

でもちょっと待った。これって、企業や商品の宣伝活動だけか?
世の中には、もっと巧妙で大がかりなステマ=情報操作が存在してるんじゃない?

たいした事件でもないのにあたかも大事件のように大々的に広め同時期に起こっているもっと重要な事件を陰に押しやったり、あたかも世論の大部分がそうであるようにいたるところに絨毯爆撃していく論調であったり…。

良い意味でも悪い意味でも、(絶大な)効果があるんだから、世の中動かしたい人は当然それを利用するだろうね。

何か、世の中の大きな曲がり角に直面しているような気がする。
自分に出来ることは、溢れる情報の中から正確なものをきちんと見極めようとすることしか無いんだろうな。

10月
11
ストライクゾーン

FB上で、いつも気になっている方の連続投稿なのだが、私の環境ではどうしても記事が順序良く並ばないので、取り出して並べ直した。

原文が出てきた。リンクしておきます。 訂正加筆されてますね。2014/10/12]

きちんと最初から読んでみて、なかなか興味深い。
基本とは何か、教育機関で教えるべき事とは何か、こういった視点はとても大切だと思う。
自分の身の回りに当てはめてみて、いちいちなるほどと頷く。
特に11段とか21段とか22段とか。
最終段の「半年か1,2年も経てば摩滅する」は、バンド(吹奏楽)経験者の燃え尽き症候群と似ている。

1. 少し時間が経ったが、この間、某調理専門学校の自己点検評価委員会に参加して、久しぶりに興奮する議論があった。

2. 実務の現場では、たとえば、卵一つにしても、学内実習のように新鮮な卵ばかりが使えるわけではない、様々な理由で鮮度の落ちた卵を使わざるを得ない場合もある。

3. そうすると、ある意味、理想的な環境で学んできた学生の料理の技術がたちまち頓挫する場面も多々出てくる。

4. いつも、?上級?の食材で学ぶのではなく、?中級??下級?の食材や環境で学ぶことが職業教育本来の実践的な教育ではないのか。

5. そうでないと、就職した途端、理想と現実とのギャップで、学生達はショックを受け、自分の学んだ技術を発揮する前に、リタイヤしてしまう。昨今の新卒学生離職者の多さも、そのあたりに原因があるのではないか。

6. (この段落は欠落?)

6.  (後日発見)卵の鮮度を変えた実習授業、実務の現場の、食材を含めた環境を意識した実習こそが、専門学校の職業教育には必要なような気がする、という指摘だ。

7. これは、某調理専門学校の教員の意見ではなく、業界現場の外部委員の指摘だった。

8. これに対して、某調理専門学校の教員側の意見は、講義の中ではそういったことは教えているが、実習ではそういった実習をわざわざ行うということはできていない。今後考えてみたい、ということだった。

9. この間の、某調理専門学校の自己点検評価委員会の議論は、このやりとりをどう考えるのか、という私の提案から始まった。

10. 教員「そこに、問題はない」という製菓のカリキュラムリーダーから議論ははじまった。面白い。

11. 教員「学校で教えることは、『おいしい』という味が何かを教えることであって、まずいときにどうするかの前に、『おいしい』とは何か、ということを教えることが学校で学ぶもっとも重要なことだと思います」(続く)。

12. 教員(承前)「そのことなしに、鮮度や食材の質の問題をやっても、小技の話に留まります。そんな小技ほど実務の現場で学べばいいことです。小技しかない実務現場はいくらでもあるのですから」

13. 私「それは大切な指摘だね。なるほど美味しいという味の頂点を見定めることなしに、あらゆる食材の鮮度を見極めながら、その味を目指す調理をすることなどできないよね。味の頂点の高みの体験なしには鮮度の差など存在しないからね」

14. 校長「『頂点』というか、『味のストライクゾーン』ね」

15. 私「そうか。なるほど『頂点』というような言い方はたしかにおこがましい。『ストライクゾーン』を外さない経験を学生時代にさせる。それがあらゆる食材評価や食材調理の基本なっていくということですね」(続く)

16. 私(承前)「たしかに、調理の事業所(就職先)なんて、小規模なところも多いから、ストライクゾーンと言っても、ゆるめのストライクゾーンの事業所も多いし、経験主義的な外れもある。本来のストライクゾーンをきちんと学ぶには学校しかない」

17. 私「そもそも、離職者が多くなるのも、ストライクゾーンの経験がないからとも言えますね。それさえあれば、自分の務めた事業所がどんなところであっても、ぶれずに仕事に集中できる」

18. 私「ストライクゾーンの経験があるからこそ、目先の一喜一憂にとらわれずに、道を究めることに邁進できる」

19. 私「学校教育が『基本』教育だというのは、基礎教育や入門教育のことを言うのではなくて、実務の多様性に惑わされない基本を身につけさせると言うことね」

20. 私「その手前の実践教育とか即戦力教育というのは、逆に、実務の多様性に埋もれてしまい新卒離職者を増やしてしまっているということね」

21. 教員「そうだと思います。若い学生のうちに、下手な食材処理テクニックを身につけさせるのではなくて、味覚が麻痺してしまっている若者たちに、まずは味のストライクゾーンを体得させることです。そのための料理、製菓の教育を行うのが第一優先です」。

22. 教員「技術教育はストライクゾーンの体得なしには意味がありません。ストライクゾーンを目指すためにこそ技術は存在しているのですから」

23. 私「そこ(ストライクゾーン)が分かっていれば、鮮度評価やその処理はあとから付いてくる、と。一方、それをわかっていない人材は、いつも小技で終わる職人に留まる、と」

24. 教員「そうです」

25. 私「いや、勉強になります。だとすると世間の考える実践的教育とか即戦力人材育成というのと、今の議論とはかなり乖離があるよねぇ。この乖離をきちんと埋めていく努力なしには、実務家と学校現場が議論しても必ずすれ違いに終わる」

26.私「今の専門学校も大学も、口を開けば『コミュニケーション能力』なんて言うけど、そこには自立した職業人の像や基本は存在しないということね。そもそもコミュニケーションというのは多様性に対する反応能力のことだから、ここで言う〈基本〉の反対語なわけだ」

27.「即戦力論も実践的職業人育成も、実務現場で半年か1,2年も経てば摩滅するような?訓練?をやっているわけで、それこそが新卒離職者が増える元凶。多様性対応は、多様な教育を行うのではなくて、専門的な基本教育こそ重要ということですね。実務家も〈実践〉の意味を分かっていない、と」

つまり、?基本?教育こそ、教育の頂点でなければならないということだ。それこそがもっとも実践的な、息の長い人材作りの原点だと。それは、多様にまみれる実務の現場では不可能。学校教育以外には可能ではないが、学校現場と人事部は相変わらずコミュニケーション能力(笑)。アホだと思う。

しかし、何度も読み返していて少し気になりだしたことがある。
音楽教育における「ストライクゾーン」って何だろ?
自分なりに解っているつもりで読んでいても、もし、人によっては全く違うストライクゾーンをイメージしているのだとしたら、この文の意味合いは全く変わってしまいそうだ。

9月
22
三物

先日TV(もちろん釣りビジョン!)を観ていて、興味深い事を知った。
マタギから伝わったとされる日本の伝統的な渓流魚釣法「テンカラ」のことである。

通常釣りは六物が必要といわれてる。竿。糸。針。錘。浮き(目印)。餌。この六つ。
しかしテンカラでは、もっとシンプルに削ぎ落とされて、竿。糸。針。の三物しかない。(針は毛針。鳥の羽を巻いた擬餌針だ。)
このことが、とても日本人的気質に合っているというのだ。

釣るために道具に頼るのではなく、不必要なものを極限まで削ぎ落としたシンプルな道具。
それらを使い、人の知恵と技術によって釣果を上げる。便利な道具や釣れるアイテムに頼るのではない。人が釣るのだ、と。

そう語っていたのは、愛知(しかも本拠地は名古屋東部丘陵地)が誇るテンカラ先生。本棚にその方の本があり、ずっと密かに憧れていたから余計すんなり耳に入ってきたのかも知れない。

道具でなんとかする方向ではなく、人の知恵と技を磨く方向。
モノではなくヒト

逆な話し。
今朝、目覚まし代わりの地上波TVから聞こえてきた。(寝ぼけてたから正確かどうか判らないけれど。)
旅ガイドの記載について、日本のもの(「地球の歩き方」ってはっきり言っていたなぁ…)は、写真や図解がたくさんあってとても判りやすいが、イギリス(?だったかなぁ?)のものは全て文字。写真はないらしい。このことについてのインタビューで(少なくとも)日本人ではない人の回答が良かった。
「今から実際に行ってこの目で観るのに、その前に写真で見たってしょうがないよ。」
なるほど。確かに。

これは脳内イメージの活発化と関連するような気がする。文字情報のみからイメージを膨らませ取捨選択し、その後実際に観て自分なりの評価を得る、という一連の行為を簡略化しない方が良いことの示唆と感じた。

私たちは、「親切であること」を求め続け、便利さに慣れ、人を磨くことを忘れ、いつの間にか日本人的気質がどこかへ行っちゃったのかな。
ヒトではなくモノは、少々味気ないと思う。

9月
17
PCの

調子が良くないんだよな。
非力なXPマシンでも、通常使用にはさほど問題はないし、手をかけていればなんとか動き続けているから良いようなものだけれど。

一番調子狂うのは、FBの読み込みにとてつもない時間がかかること。
ページ開くとCPUの使用率がほぼ100%で推移している。過去に遡ろうとスクロールしていくと、てきめんに止まる。
特に最近その傾向が激しい。(ページ内の様々なスクリプトが重すぎるのだろう…。)
なので「そういえば…、」と過去の記事を探すことはほぼ不可能。

技術の進歩について行けていない、といえばそうなんだろうけれど、不要な付加価値つけておいて対応できるよう新陳代謝せよ、というのも何だかなぁ…、と思う今日この頃。

スマホも然り。
スマホの必要性を感じない私には現有の端末壊れたら後がない。
WiFi付き白ロム中古ガラケーを物色中。

8月
14
あと二つ

気が付くのが遅かった。
がちゃ。松本大洋コレクションフィギュアストラップ。7種類+シークレット1種類、合計8種類。
6月中旬発売だったらしい。

悔しいから随分さがし、ようやく見つけたので大人買い。
1ヶ¥300×?。
でも残念ながら全種類にはならなかった。残すは「五島 雅」とシークレット。
補充されているかと後日再度同じ所に行ったが既にこのシリーズはなかった。他でもまったく見ない。

松本大洋−1


左から、「花田 花男」「IQ」「瀬能 宗一郎」

松本大洋−2


左から「シロ」 「イタチ」「クロ」
一番のお気に入りは「IQ」
鉄コンの3種も良いなぁ。

さて、どうやって残りを集めようか。
どうしてもシークレットは欲しい。理由は…。

8月
10
台風

11号が来た? かすめた? 通り過ぎた?

WEBの気象警報の情報ページを見ると細かく行政単位で警報・注意報が出てるが、気象警報ってそんな細かく行政区域単位で出す必要があるのかな。
(学校の休校とかの配慮…?)

一方で「四日市市全域の約31万人に避難指示」ってどうなんだろうか。
少々大雑把すぎないか。
全域ってどういうこと?とか四日市隣接では危険なトコはないのか?とか。
この川の流域とか谷筋とか、海岸沿いとか、山のこっちとか向こうとか、きめ細かくするのは大変なんだろうけど。
(報道だけでは何とも判らなかった。全域が本当に大変だったのならこの発言は取り下げる。)

もっとも警報と避難指示とでは管轄が違うだろうからさらにややこしい。

不思議なことに、名古屋市は早くから暴風雨警報出てたのに東隣の我が市は出なかった。
それでもけっこう風吹いた。雨も降った。
狭い道路はさんだ向こう側に建っていた作業小屋は倒壊してしまったもよう。
倒壊小屋


特に二次被害は無さそうだけど。

ところで、こういった被害の報告ってどこにすれば良いんだ?消防?警察?行政?

7月
19
ドミナント−トニック

バンドレッスンするとき、どうしても和声的な処理としてドミナント−トニックを説明したくなるときがある。
”ソシレファ”と音を出して、「この音聞くと、次にこう行きたくならない?」といいながら”ドミソ”と音を出す。「あー、落ち着いたねぇ。」
そうすると大概の人が「うん、うん。」という顔をしてる。

機能和声としての基本的な動き。コードネームでは”G7−C”。
皆「うんうん」と頷くのだから、そう感じているのは確かだと思う。

でもいつもそこで疑問が湧く。
「なぜ、みんなそう思うの?」
和声という約束事でそう決められていて、いつしかその感覚を覚えるのかしら?
いやいや、機能和声というのは、試行錯誤した結果、生き残った音の動き方を整理したモノだと思ってるから、始めに「約束ありき」ではなく、「そう感じる」ことが先にあっただろうはずな気がする。

ではなぜ人は皆、一つの理論体系が出来るほど確かにそう感じるのか?
百歩譲って、西洋音楽機能和声ではなくても、ドミナント−トニックの機能、即ち「不安定→安定」「ストレス→開放」のようなものを音を通して感じるのはなぜだ?しかも限られた人ではなく大勢の人が等しく感じるのはなぜだ。

機能和声の大前提となるこの感覚については、どこかで説明されてるのだろうか。
ご存じの方、どうか教えてください。

7月
16
¥108

この時期どうしてもバンドレッスン漬けになるのだが、その移動中ほんの少し時間が有ったのでぶっくおふに寄った。
気軽に時間つぶしできるような本を、と思ったのだが、目に留まったのが 「脳と仮想」茂木健一郎 著 新潮文庫 。

パラパラとめくって冒頭の、
”「サンタクロースは存在するか?」この問いほど重要な問いはこの世界に存在しないという思いが、私を不意打ちした。”
が、私の何かを刺激し、
”小林(註 小林秀雄)が、それほどまでにとらわれていた問題とは、物質である脳に、いかにして様々な主観的体験に満ちた私たちの心が宿るのかという、いわゆる「心脳問題」だったのである。”
まで数ページ進んだところで思わずレジまで動いた。108円也。
車にもどってから気が付いた。お店に入って2分弱。あぁ時間つぶしにはならなかった!

少し気になることがあって、まずいくつかの読書レビューをネットで探し読んだ。概して「なるほど」という感想と「全然判らん」という感想に別れるようだ。
「なるほど」タイプは、感覚的に共感する、な感じ。「判らん」は「難しくて判らん」と「論拠を示せ」の二通り。
うん。予想通り。

コンクール前でなかなか時間が取れないが、早く読みたい。
そして「論拠」を見つけたい。まさしく「音楽」は脳内の仮想だと思うので。

6月
05
ハリヨ

気になっていた場所へ先月ようやく行くことが出来た。
池概観


こんな感じの所。
自噴湧水


小さな湧水池。この辺りはそういった自噴湧水が多いのだそうだ。
普通の住宅街の中にあって、車幅いっぱい程度の道を何度も曲がりながら行き着くと、ぽっかりと現れる。
歩いて行ったのだが、数台停められる駐車場も有った。
そこには、こんな魚が保護され生息してる。
ハリヨ案内看板


ハリヨ。
絶滅危惧IA類。
行った時はちょうど婚姻色が出て巣作りしてた。
ハリヨ1


ハリヨ2


巣作りなのか、もうすでに産卵されてそれを守っているのか、とにかくなんだか一生懸命な様子。
動画も少し撮ってみた。わかりにくいかなぁ。
ハリヨ3


小さな魚だけど、本来大きな自然の中で生きるはず。
守られなければ残らない、というのは残念だけど。
それでもハリヨは迷うことなく生きているんだなぁ。