かつて開催した演奏会のパンフレットに拙文があったのを思い出した。
気になったので引っ張り出して読み返した。
自分自身が忘れないようにするために改めてここに書いてみる。
嗚呼! 我が師はもうこの世にはいない。
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兼田敏・保科洋という二人
大学受験の作曲レッスンのために保科先生のお世話になっていた頃、時々お宅で見かける一人の人物がいた。
私の持って行った和声課題や習作を保科先生に添削していただいている時、楽譜を読む間沈黙が支配する。次に来るであろう質問とそれに対する言葉をあれこれじっと考えながら座っていると、隣の部屋から
「おーい、ほしなぁ!これどーなっとるんだ!」「なんだこのコンピュータ、役にたたんじゃないか。(MZ80の時代。なつかしい)。」
とぶつぶつ声が聞こえてくる。保科先生はそれに適当に返事をしたり全く相手にしなかったりしながらレッスンは進んでいくのだが、その雰囲気からこの二人はかなり親密な仲なんだろうということは良く分かった。
「あの人はいったい誰なんだろうな?」と何となく考えることが何度か続いた後、ハッっと気が付いた。気が付いて自分で大いに緊張した。「あの人はカネビンだ。そうだ、そうに違いない。」
中学の時から吹奏楽を始め、それをきっかけに音楽の道を進もうと決心した多感な高校生だった私にとって、吹奏楽界の神様のような「保科洋と兼田敏の二人と同じ屋根の下にいる。」という事実がにわかには信じがたく、しかし紛れもないその事実で無意味に緊張したのだった。
大学に入学した後保科先生は兵庫教育大学に移られ、その後がまとなった兼田先生の元で作曲の勉強を続けることになった。以来ずっとこのお二人の先生のお近くに居させていただいているが、吉本漫才のような二人のやりとり、次々と出来上がってくるそれぞれの素晴らしい作品の数々、アマチュア吹奏楽へのアプローチのしかた、その内容、等々そのどれからも並々ならぬ吹奏楽への愛情を感じることが出来る。
少子化だけでない様々な理由で最近の学校クラブ活動は難しい。しかし遙か以前から(私が吹奏楽を知るずーっと前から!)その危機を感じ、その為に出来得るほとんどの事をやってきたお二人の功績を考えたとき、我々現場がその功績をきちんと受け止めて継承し発展させていかなければならない、と感じる。
どうにもならない不真面目な学生だった私が今日このような演奏会を開くことが出来るのもお二人の師匠のおかげだと感謝し、目の前にいる高校生に、教えていただいた事を少しでも多く伝えていくことが兼田先生、保科先生に対する恩返しなのかも知れないな、と最近ぼんやりと考えている。
1998.7.28 東邦高等学校吹奏楽部 第40回定期演奏会 愛知県芸術劇場コンサートホール
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いつまで経っても、どうやっても、越えられないです。近づくことさえ無理と思われます。
そして益々私の中で重たくなっています。この言葉。
「音楽はな、人だぞ、人。 教育もな、人だぞ、人。 …技術じゃないんだ。」
最後のメッセージと共に重くのしかかります。