5月
29
試験後

まだ残る一日の試験勉強でおおわらわだろう。

しかし明日午後から練習再開だ。
テストであろうと、いつ何時も準備は必要。

ここ最近の同じような状況の時に、準備ができていなくて大変な目にあっていることは覚えているだろうか。

長い休みの後。
大きなイベントが終わった後。

節目節目で切り替えていかなければならなかったときに、その心構えができていなくて、準備ができていなくて、浮かれ気分で…。

今回はどうだろう?
同じ過ちは二度繰り返さない。
今一度気を引き締めて。

ところで、TSWの諸君はこれ読んでいるのだろうか?

見ているだけじゃないだろうか?

 私のケータイに入っている国語辞書より

よむ【読む】
〔他〕
?文字で書かれている文や文章を一字ずつ声に出して言う。
?経文などを声に出して言う。唱える。
?文字・文章・図表などが表している意味内容を理解する。
?文字を音声の形にする。特に,漢字を音訓で表す。音読・訓読する。
?外面を見て隠された意図などを知る。読み取る。
?現在の状況から将来のことを推察する。
?数を見積もる。
?囲碁・将棋などで,先々の手を考える。
?講釈師が講談を演じる。

できれば?とか?とかの「読む」が良いなぁ。?も?も良い。
でも、とりあえず?だけをして、意味分からないまま、「読んだ」気になっていないか?

それは「読んだ」のではなく「見た」だと思う。
私がして欲しいのは、ただ「見る」のではなくそこに書かれた「伝えたいこと」や「意図」を読み取ること。

もちろん、ここを(自分から!頻繁に!)「見ない」人や「覗かない」人もいるんだけどね。その人は「見る」事すらできてないって人で困ったちゃんですが。
是非アンテナ張っていつでも「見て」「読んで」ください。
このブログだけでなく。

5月
28
失敗の後

もうすぐ6月だ。
新入部員もいくつかの本番を経験して、この生活になれてきたかな。
中間試験が終わるといよいよTSWが全開に向かっていく。
みんなその準備は出来ているだろうか。目指すべきところやその道筋をイメージできているだろうか。

「毎日を何とかこなしていく」だけでなく、何処に向かっているのか、今は何処にあるか、よく確認し把握し考えてもらいたい。毎日の膨大な日常に埋没してしまうと、大きな方向性を見失うことがよくあるから。

わたしは常々失敗することは大切なことだと思っている。必要なことだとも思っている。
一つ失敗して痛い思いをしたら、次はなにか打つ手を考え対策するはずだからだ。その経験が工夫することを覚え強さを育てる。
しかし、そのまま同じ失敗を繰り返すことが多い場合が見受けられるように思う。それでは失敗した意味がないよな。

そろそろ同じ失敗を何回も繰り返すのはやめにしよう。時間と労力の無駄はなしにしたい。
今は迷うときでなく、行動するときだと思うから。
みんな、よろしく。

5月
25
一問一答

パソコン通信時代(15年以上前だ!)からメールは活用している。
今も私の一番確実な連絡手段はメールである。

しかし、最近は勤務先の仕事場がインターネット繋がっていないのでパソコンでのメールやりとりがしにくい状況にある。何とかネットに繋ぎたいと、近くの職員室から漏れてくる無線LAN電波を拾うこととか、FOMA利用などモバイル接続などを研究しているのだが、なかなか上手い方法がない。

だから、最近は携帯電話メールが増えてきた。随分頻繁に送受信を繰り返し、連絡手段として便利に使ってはいるがどうしても困ることが二つある。
一つはあの端末での日本語入力は正直辛い。パソコンキーボードに慣れた手は、どうしても親指一つに任せるのが不安だ。両手だったら早いのかも知れない。さらに、電話の数字の並びは、電卓やテンキーと違う。テンキー入力に慣れた指は、すぐ数字を間違える。
もう一つ、使い勝手で重要なことが携帯端末では実現しない。すなわち送信メールとそれに対する返信メールがスレッド表示できないこと。いや、スレッド表示など出来なくてもよい。それぞれつながっている送受信のメール内容を一つの同じフォルダに収容できさえすればいいのに。そうすれば、一連のメールやりとりで話の流れが掴めていくのに。

携帯メールでのやりとりは大概一問一答だ。

だから一つの本文に質問をたくさん書くと受け取った人は返信するのに困る。文字数で通信料も変わるからパソコンメールのように全文引用はほとんどされない。部分引用ですらする人は少ない。

せいぜい何往復かすることもあるが、その時の本文は文字数が極端に少ない。

定型引用で「了解!」「ありがとう」で済ませば会話はそれで終了だよ。

しかも、同じフォルダに収容できないから、あとから流れを確認するのはとても難しい。

送ったメールに対してどんな返事が来て、それになんて応えたか、と確認しようと思うと 受信フォルダと送信フォルダを行ったり来たりしなければならない。

さらに、端末の仕様にもよるが、基本的には最新何百通の保存だけで、古いものはどんどん削除されていく。

・極端に文字数の少ない一問一答。
・その事についての論議は難しい。ほとんどYes or Noで終わる。
・古いものは消去されていく。

で、気が付いた。
これが日常の会話でも再現される。
本当に一問一答だ。過去の質問と今の問題がリンクして、さらに全然別件が参考になる、ような思考回路が消滅しているように思える。
解答も Yes or No だ。シンプルと言えばそう。しかしそこから何も派生しない。会話はそこで止まる。
しょうがないから新しい一問一答だ。
脈絡もなく新しい一問一答をしているうちに古い情報はどんどんメモリーから消えていく。

そこで得た感情は何やら残るみたいで、「良く解らないけれどもやもやする」という言葉をよく聞く。本当は覚えているはずなのに思い出せないような感覚なのだろうと勝手に推測しているが。
どこかでバックアップを取れば良いのかも。
定着が悪いのもここに原因があるのかね。

いずれにせよ、よく考えないと対応や反応を誤る。最近のコミュニケーションは難しいのだ。

5月
24

我が家の南面は開けていて家がない。なにせリニモが走っている大きな通りまでずっと田んぼだ。
最近直前の田んぼ数枚を代掻きしたようだ。水が入った。さらに数回降った雨で満水になり整備された水田になった。

とたん、蛙がうるさい。
睡眠の邪魔だ。気になる、程度ではない。文字通りうるさい。
種類はアマガエルだと思われる。
よく家の壁に張り付いて真っ白になっている蛙がいる。(我が家の外壁の色は薄いベージュだ)
そして、聞こえてくる鳴き声は一種類だ。本当はほかの種類もいるのかも知れないけれど。

それまで何処にいたのだろうかと不思議だ。寒いときは土の中で冬眠しているのだろうと想像するが、田んぼに水が入る時はもう既に初夏のような気温の時だってある。そんな暑いときだって一切蛙の鳴き声は聞かない。
ほかから移ってくるのか。

でも、何となく、少なくとも蛙が生き生きとうるさく鳴き声を上げることが出来る程度の自然ではあるんだな、と思う。薬付けの畑ではミミズさえいないと聞くからね。
その意味で、我が家にいながら自然を感じることが出来るのは幸せなのかも知れない。

そうそうたまにヤモリ君も登場するし。
毎年うちの庭で脱皮する3m近いシマヘビもいるし。

たまに示し合わせたかのようにピタッと止まるときがある。
調子外れの奴もいる。
うるさい中でも、なにやらドラマがあるのかも知れない。

5月
23
久しぶりに

日誌から引用してみる。

みんな考えている。悩んでいる。だから伸びている。
3年間無事に居続けることが重要なのではない。
その3年間でどれだけたくさんのものを積み上げるか。
失敗もするだろう。挫折も味わうだろう。もちろん嬉しいこともあるし楽しいことだって有るはずだ。
それら全てがそこにいた人の糧となる。

日誌はその課程の自主記録だ。

(日誌より)
〜前略
マーチングの方では、全然駄目でした。腕は上がらない、音は綺麗に出ない、キビキビと動けない、ぶつかる。
本当に最低でした。
本番が終わったあと、涙が出てきました。理由はよく自分でもわからなくて、「先輩にぶつかってしまってめいわくをかけてしまった」、「全然動けない、音が出ない自分に悔しかったのか」、「ただたんに痛かった」理由はわかりません。
もしかするとここに書いたこと全部のことで涙が出たのかもしれません。
自分のことなのにわからない。 それがすごく嫌だ。

皆のページを読んで、30分ぐらい涙が止まらなかった。何かわからないけれど涙が出た。自分の「真剣」について考えて、自分が甘ったれてるんだなと思った。

□□のときにも「自分のことを書いて欲しい」と書いてあって、で、昔○○にも「本音で話したい」と言われたことがあって、それはカンタンに言うと「本性」ってことであって。
自分の考えていることが本性??思ったことが本性??
それもわからない。本性で話すって何?って考えるときもある。

私は、いつからかわからないけれど本性で他人と話すことを恐れてきたんだと思う。本性を、本当のことを知ったら皆がどう思うか分からないから。
でも、私もちゃんと本音で話す努力をしたいです。
今は無理かも知れないけれど、少しずつでもよいから変わっていきたいです。
後略〜

もう一つ。

(日誌より)
〜前略

時間があまりなくて音がじゅうぶんに出ないままの合奏での自分の音は、大嫌いです。ただでさえ、好きじゃないのに、もっと嫌で落ち込みます。
自信とか、いろんなものがなくて、ただただおくびょうな、なさけない音がします。
それは自分自身が甘いからです。おくびょうだからです。ずるいからです。
私は一歩ふみだしてみることができないことが多いです。
1歩ふみだしてみたら、何かがかわったり、解決したり、何かがまた進んでいくかも知れないのに、失敗を恐れます。
逃げるのは、嫌です。でも、自分でも気付かないうちに私は逃げ道を考えていることもあります。

〜中略〜

そんな自分がいるからこそ、音にもでるんだと毎日毎日思います。
だけど、ぶちあたっていきます。
うまくいっても、悪くいっても、何かが変わると信じて行動するように心がけたいです。

〜中略〜

私にはこれといった好きなところもないし、自信をもてるところもなく駄目なところばかりコンプレックスのかたまりです。
だから一つ一つ解決していき、今のなやみと同じなやみを持っていないように頑張りたいです。
今日は思いきって自分のことを書いてみました。
小さいですが、ぶちあたってみたつもりです。(笑)”

後略〜

私が怠けている間にいつのまにやら変化しているんだな。
そう、それで良いんだ。さらに続けよう!

5月
13
繰り返す

同じ事を繰り返す。

・何度も同じ間違いや失敗を繰り返す。
・同じ事を何度も繰り返して反復練習する。

繰り返すことは同じ。
しかし意味合いが全く違う。出来るだけ繰り返したくないことと何度も繰り返さなければならないこと。

さて、今やっていることはどちらだろう?

5月
11
油揚

しばらく前、作手の道の駅(手作り村)で油揚を買った。
10枚入りで¥1000くらいだった記憶する。高い!と思ったけど、よく考えたら1枚¥100。ま、そんなものかも知れない、と思い直した。

家に帰って食べた。びっくりした。
「油揚ってこんな食べ物だったんだ!」と、油揚に対する考えが変わってしまうほど衝撃的だった。
美味い。なんと言っても香ばしい。

美味そうな油揚げを食べるとき、いつもは焼いてショウガ醤油などで食するが、ショウガなんか要らない。醤油も要らない。
うちの醤油は以前ここで紹介したもので、素晴らしいパワーを持っている醤油だが、その油揚はそれを拒む。
そのものの持つ絶対的なパワーが他の何も必要としないのだ。

それこそ感動的な油揚だ。

それから、何度行っても入手できない。売り切れ。
この前のGW中も行ってみたが、ダメだった。
「この時間に来たってムリムリ!」と素っ気ない対応だった。

悔しい。
手に入りにくければそれだけ欲しさが倍増する。
再度必ず手に入れたい。
朝早く行くしかないかなぁ。

5月
10
自分の首を絞める

小さなごまかしを重ねることがある。
その気になって矛盾を突いていくとすぐにボロが出てしまいそうな程度のもの。
その程度のことは、別に実害があるわけではないので取り立ててどうするということでもないのだけれども。めんどくさいこともあるので誤魔化されたふりをしてるけれど。

でも、それ繰り返すと、他人は誤魔化せたと思っても、自分は誤魔化せなくなるんだ、と気づくべきだよな。
それって案外苦しいぜ。

誤魔化すことなく素直に素朴にしてれば、どんなこともするりと上手くいくことが多いんだけどなぁ。
なかなかその境地にはならないかもね。なりたいと思っても難しいかな?
そうだとしたら本当にもったいない話だよ。

5月
10
続ける事

新しいことを始める。不安もあるだろうが大概の場合ワクワクする。新鮮な事ばかりだ。びっくりするこもあるだろうがそれも嬉しい。

しかし、しばらくすると思ったようにならないことが出てくる。些細なことでイライラしたりめげたり逃げ出したくなったり。こんなはずじゃなかったのに、と愚痴をこぼしたり。はたまた上手く行かないことを人や物のせいにしたり。

やってるうちに色々な事があるのは当たり前だし良いことも悪いこともあって当然だから、それは構わない。
しかし、もっともつまらないのは、そのことを放棄してしまうこと、つまりすべてを捨てて辞めてしまうこと。
それまで積み上げた何もかもが意味を失なってしまう。もしかしたら思い出の1ページにはなるかも知れないがそれはただの思い出ですぐ風化してしまうだろう。むしろやめてしまった後悔がいつまで経っても自分のトラウマになるだろう。

些細なことで(その時は最大重要なことと思っているとは思うが…)大切なものを失うことだけはして欲しくないと思う。失うものはとてつもなく大きい。
また、簡単に「辞める!」なんて口にしないで欲しい。

やり続ける事こそ、物事が上手く進む一番の方法だ。細く長くで良い。必ずやり続ける事。
期待したい。

5月
09
花のてんぷら

至る所ニセアカシアの花が咲いている。
特に東名高速道路の測道付近にはずっと群生している。
この花は天麩羅にして食べると美味いという話を以前から知っていて、いつか試したいと思っていた。
しかしこのシーズンもそう思っているだけで実現せずに花は終わりかけている。

どうせ食すなら一番の旬がよい。また来シーズンに譲ろう。