9月
28
昔々

私が通っていた高校は新設2年目のまだ校舎も体育館も完成していないようなとんでもなく中途半端な学校だった。
当然部活動だってまともに活動できず、吹奏楽部も楽器が全然揃っていなくて苦労した。
2年の時にやっと3学年揃い人数も何とか合奏できるくらいに増えたのでコンクールに出たいと言うことになった。

そのときの顧問の先生は全然吹奏楽のことは判らず、コンクールのとき(夏休み中)は神戸に帰省するから、とかで全然頼りにならない。それでも教員か?と怒りまくったね。

しょうがないからに直談判をしに校長室へしょっちゅう行ったものだ。
「楽器を買ってくれ」
「買ってくれないなら他の団体から借りるから許可をくれ」
「練習場が狭いから何とかしてくれ」
「夏期休暇中の校舎の鍵開けを任せてくれ」
「他の学校の生徒と練習交流をしたいから学校に呼んで良いか」
「顧問を変えてくれ」
などなど。
いきなり生意気な生徒が校長室をノックして入ってくるんだからびっくりしただろう。

しかし、だいたいにおいて校長は取り合ってくれず(会ってもくれず)、教頭に「本校の学校方針によりそれは認めることは出来ません」と言われておしまいだった。
悔しかった。学校方針という代物は一度も目にしたことがないから、文書化したものを見せてくれ、としつこく迫ったこともあった。
ガッコのセンセは嘘つきだ、という認識になったのはこのあたりが原因だろうな。
教員にとっては一番いやな生徒だったろう、と今になって思う。

しかし、突然練習中に校長がわざわざ合奏を見学に来たことがあった。あなたは一生懸命やっていると聞いたので是非練習を見させてくれ、と。一時間くらい黙って座って見ていた。「ありがとう。良いものを見させてもらった。」と帰って行ったっけ。
合奏練習の雰囲気は、その当時と今とそんなに変わりはないから、先輩を相手にしてなんと生意気な厳しい練習をしていたんだろうと思い出しながら苦笑する。

この頃、後輩に「死神のように怖かった」と評された事もある。それも中学校時代の私のことを、だ!

温度差のある部員に対して(それが先輩であろうとも)「もっと練習してください!」と平気で言っていたし、そんなのだったら一緒に音楽したくないです、と何時間もミーティングを重ねた結果お辞め頂いたこともある。(それがみんなの総意だったから一人で何人もの先輩に立ち向かい嫌われ役を買って出ていたわけだ。)
コンクール初挑戦の演奏は特にすばらしいものではなかったけれど、みんな精一杯がんばった。配置をTb下手、Tp上手にしたりといろいろ反骨丸出しで、それでも心ある部員はみんなついてきてくれたし、本当に楽しかった。

その当時のメンバーは今どうしているのだろう?と気になる時がある。
今も音楽に浸って生きている、という便りを聞くことがあるから、みんな充実した音楽生活をしているんだろうな、とは思うが。
 

時代が変われば人も変わるというけれど、本当にその当時から考えると今の高校生はだいぶ様相が違うように見える。でも、根本的なことはそんなに簡単に変わらないはずだから、きっかけ一つでもっともっと輝ける青春時代を謳歌できると思うのだが。

是非やってみて欲しいなぁ。

9月
28
オネゲル

なんだか急に書きたくなったので書く。

アルテュール・オネゲル (Arthur Honegger,1892年3月10日 – 1955年11月27日)
フランス近代の作曲家。フランス6人組のメンバーの一人。
私が大好きな作曲家。

一番始めにオネゲルの曲を聴いたのは、冨田勲のシンセサイザーアレンジのパシフィック231だった。確か中学2年の頃だ。ぶったまげた。本当に機関車が走り出し疾走し急停車する有様が手に取るように見えたから。そのシンセアレンジも秀逸なのだ。銀河鉄道を彷彿とさせるファンタスティックなものだった。

その後、どうしても原曲(管弦楽)の演奏を聴きたくなりレコードを買いに走った。スコアも見つけ、なけなしのお小遣いで買い込んだ。バス代が無くなり長い距離を早くレコードを聴きたい一心で急いで歩いて帰ったのを記憶している。

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《パシフィック231》は、パシフィック231という蒸気機関車を描写した作品であると解釈されており、オネゲル自身はそのような通説に抗ってきたが、オネゲルの機関車好きはつとに知られたところであった。「私は常に蒸気機関車を熱愛してきた。私にとって機関車は生き物なのであり、他人が女や馬を愛するように、私は機関車を愛するのだ」と語ったことでも有名である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(「オネゲル」でググってみてください)
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『わたしは作曲家である』という自身が書いた本にあるパシフィック231の解説の部分で、
「テンポがどんどん落ちていくのにスピード感がどんどん増大する曲を書きたかっただけだ。曲が出来上がった後にたまたまパシフィック231というぴったりの題名を思いついたのだ。」
のようなこと書いてあった。(記憶を頼りに書いてます。違ってるかも知れない。)
作曲家の純粋な着想や発想と、出来上がった楽曲のイメージは必ずしも一致する物ではないのだ、と妙に感心した。

そしてそのレコードのB面にあったクリスマスカンタータを聴いてまたもや涙した。なんと強い音楽だろう。
ちょうどその頃は作曲の勉強を始めた頃だ。聴く音一つ一つが私の心に取り憑いて離れない。音楽の将来を悲観していたオネゲルの遺作だと知ってなおさらこの曲が好きになった。単純なのに全く隙が無く、飽きない。そしてフィナーレが希望に満ちているのだ。苦悩の末に行き着いた喜びってこんなに素晴らしいんだ、と。

高校生の頃、弱小ではあるものの吹奏楽部の部長だった。2年生の時(創部3年目。その部活にとってそれがコンクール初挑戦)でコンクール指揮をし、3年では私の大好きな曲、オネゲルのパシフィック231をやろうとアレンジも全部書き上げた。部員は20人ぐらいだったと記憶している。結局、それは実現せずそのアレンジはお蔵入りになってしまった。楽譜は大切に保存している。

東邦4年目に全く新しい私のアレンジでパシフィック231のコンクール演奏をしている。そのアレンジは特殊だけど案外気に入っているんだ。その演奏(正確にはコンクール直前のホール練習の音)は今でも聴ける。

 

23歳の私にだって高校生の時があったんだぞ、その時にはこんな事を考え、あんな事をしていたんだぞ、とつらつら思い出していたのだ。
純粋に音楽に憑かれ、やりたい事をやりたい放題やっていた。思いっきり夢を追いかけてたんだなぁ、と考えているうちに、私にとってオネゲルがとても重要だった事を思い出したのだ。

吹奏楽部の活動の為に、音楽以外の事でも色んな事やってた。今考えると生意気で恥ずかしい事ばかりだけど。それはまたの機会に書く。

私の青春を支えていたのがアルテュール・オネゲル。
今、初心に返ってオネゲルを全部聞き直そうと思う。