10月
04
文化発表会

私の高校生時代は、前にも書いたが中途半端だった。
「祭」と名のつくイベントは御法度だった。だから体育大会。文化発表会。

今、我が勤務校では学園祭中。文化祭ではなく学園祭。名称にこだわるわけではないけれど色んな考え方があるんだ、と思う。

その文化発表会での出来事を思い出した。
「祭りではない」と厳しく言われるわけだから、お楽しみイベントは皆無に等しい。模擬店などあるはずもなく。野外ステージなどあるはずもなく。
だから皆行くところが無く体育館でやっているヘタクソ吹奏楽の演奏に群がってくる。
そして、なぜが生徒が大勢集まることを極度に嫌うので、たくさん集結してきた生徒を蹴散らそうと躍起になってくる。

校則に集会の禁止の条項がある学校。校外で3人以上集まるときは許可を戴く必要がある。ばれると始末書だ。

MAXの音量で校内放送が入り「クラスに戻れ」とガナリたてている。
我々吹奏楽部は当初のプログラムを淡々とこなしているだけなので、無視して最後まで演奏した。
それが1年の時だ。
2年の時は、その記憶があるのでクラスの友達と結託してあることを企てた。
もちろんロックバンドなども御法度なので、ベース弾きやギター弾き(もちろんエレクトリックだ)にけしかけ、吹奏楽の中で演奏してよ、と持ちかけたのである。
その時代はテクノポップ全盛。泣く子も黙るYMO(イエローマジックオーケストラ)の時代だ。参加してもらう曲は私のアレンジでYMOの「ライディーン」始め数曲。
ところが当日、どこから漏れたのか弾圧が始まった。緊急ミーティングを開き相談開始。我々吹奏楽は当初から覚悟は決まっている。「やるぞ!」の一言でみんなの目はぎらぎら。でも、ギター弾きやベース弾きは「俺たちは構わないけれどまじめにやっている吹奏楽部に迷惑がかかるから…」と弱気だ。

すったもんだして、結局ベースやギター無しで演奏はした。その助っ人たちに迷惑がかかったら逆に申し訳ないと判断したんだ。
それでも演奏場所の体育館は大変な人だかり。YMOをやったら盛り上がる盛り上がる。踊り出すのもいる。
指揮ふりながら、なんだか妙に気持ちがよかった。

そうそう、あれだけ事前に問題になったのに何故かおとがめはなかったんだ。
拍子抜けしつつ「だったらやっぱりベ−スとギター入れれば良かったね」と部内で大いに盛り上がった。
俺の青春の1ページだな。懐かしい!

10月
03

意味はとりあえず理解できなくても型を覚えると良いものは色々たくさんある。

たとえば九九。何故2かける3が6になるのか解らなくても「ににんがし」「にさんがろく」「にしがはち」「…」と覚えておくと、後に高等な数学になってもそれは生きる。いや生きるどころが九九は必須だな。しかしもし「にごきゅう」と覚えてしまうと全ての計算の秩序が崩れて覚えたことすら全く無意味になる。
意味が判るかどうかは問題ではなく正確に覚えたかどうかが重要だ。

たとえば挨拶。朝会った人には「おはよう」という。それは挨拶の型だ。もし顔を背けて何も言わなかったら人並みな社会生活を送れない人だと思われる。仲良しだけに言うことでもあるまい。また、決して「ご愁傷様」とは言わない。
これは状況に対するパターンだから単純ではないかも知れないが、それでも挨拶はまず型だ。

もちろん言葉も同じ。言葉も皆が共通認識できる型だ。その状態や気持にあった言葉を知らないと人に伝えることが出来ない。「何かあるんだけれどもやもやして言葉にならない」では他人は知りようがない。他人に伝えたいと思うならばその状況や気持に対応した言葉、すなわち生活パターンに応じた言語を知っていて使える必要がある。
言葉をたくさん知るには、誰かを真似るか、本を読むか、などなど、何らかの方法で状況に応じた言葉のパターンを覚える他はない。覚えた言葉を(ボキャブラリー)語彙といいコミュニケーションの宝だ。

「型を覚える」という行為や、その結果である「型をたくさん覚えた」という事実は、本人の好む好まざるとは無関係で、たくさん覚えている方が有利であることはいうまでもないだろう。

さて、我々は音楽をやっている。上記と全く同様にたくさんの型を覚えなければならない。
音階。音符。強弱。拍子。リズム。発想表語。音程。音色。楽器。様式。形式。その他様々。
さらに、吹奏楽部の活動運営上、知っておくべき型もある。練習の仕方や係の仕事など。それらは無条件に、出来る限り多く、出来る限り早いうちに、正確に、体で覚えておく必要がある。
なぜならそれらが必要になった時、自然にすらすらと体から出てこなければならないから。必要になった時にやっと覚え始めるのでは「泥縄」と言い、たいがい手遅れになる。

それぞれの型が状況に応じてすらすらと出てくるくらいになって、やっと一人前と言われるレベルだろう。そのレベルに達してはじめて「覚えておいて良かった」と思うことができる。意味も判らず覚えたことに改めて感謝することになる。
その一方で、身に付けることが出来なかったらその恩恵にあずかることなく意味も判らず一生を過ごすことになるだろう。ただ「覚えろ!」と言われ苦しい思いをした記憶だけが残ることになるだろう。それは負け犬の記憶だ。

やるか。やらないか。
覚えるか。覚えないか。