意味はとりあえず理解できなくても型を覚えると良いものは色々たくさんある。
たとえば九九。何故2かける3が6になるのか解らなくても「ににんがし」「にさんがろく」「にしがはち」「…」と覚えておくと、後に高等な数学になってもそれは生きる。いや生きるどころが九九は必須だな。しかしもし「にごきゅう」と覚えてしまうと全ての計算の秩序が崩れて覚えたことすら全く無意味になる。
意味が判るかどうかは問題ではなく正確に覚えたかどうかが重要だ。
たとえば挨拶。朝会った人には「おはよう」という。それは挨拶の型だ。もし顔を背けて何も言わなかったら人並みな社会生活を送れない人だと思われる。仲良しだけに言うことでもあるまい。また、決して「ご愁傷様」とは言わない。
これは状況に対するパターンだから単純ではないかも知れないが、それでも挨拶はまず型だ。
もちろん言葉も同じ。言葉も皆が共通認識できる型だ。その状態や気持にあった言葉を知らないと人に伝えることが出来ない。「何かあるんだけれどもやもやして言葉にならない」では他人は知りようがない。他人に伝えたいと思うならばその状況や気持に対応した言葉、すなわち生活パターンに応じた言語を知っていて使える必要がある。
言葉をたくさん知るには、誰かを真似るか、本を読むか、などなど、何らかの方法で状況に応じた言葉のパターンを覚える他はない。覚えた言葉を(ボキャブラリー)語彙といいコミュニケーションの宝だ。
「型を覚える」という行為や、その結果である「型をたくさん覚えた」という事実は、本人の好む好まざるとは無関係で、たくさん覚えている方が有利であることはいうまでもないだろう。
さて、我々は音楽をやっている。上記と全く同様にたくさんの型を覚えなければならない。
音階。音符。強弱。拍子。リズム。発想表語。音程。音色。楽器。様式。形式。その他様々。
さらに、吹奏楽部の活動運営上、知っておくべき型もある。練習の仕方や係の仕事など。それらは無条件に、出来る限り多く、出来る限り早いうちに、正確に、体で覚えておく必要がある。
なぜならそれらが必要になった時、自然にすらすらと体から出てこなければならないから。必要になった時にやっと覚え始めるのでは「泥縄」と言い、たいがい手遅れになる。
それぞれの型が状況に応じてすらすらと出てくるくらいになって、やっと一人前と言われるレベルだろう。そのレベルに達してはじめて「覚えておいて良かった」と思うことができる。意味も判らず覚えたことに改めて感謝することになる。
その一方で、身に付けることが出来なかったらその恩恵にあずかることなく意味も判らず一生を過ごすことになるだろう。ただ「覚えろ!」と言われ苦しい思いをした記憶だけが残ることになるだろう。それは負け犬の記憶だ。
やるか。やらないか。
覚えるか。覚えないか。