に振り回される、という表現が良いのかどうか解らない。
確かにどうしようもない場合もある。
苦渋の決断をしなければならない事はそうそう頻繁にあったら嫌だけれど、「これはしょうがない」と納得できることもあるもの。しかしあくまでも「苦渋の決断」であって欲しい。気まぐれの身勝手我が儘ではなく。
やっと自身の中からやりたい事やるべき事を見つけ(ここではそこに至るまでですらとても大変なのに!)、その実現に向けて困難に立ち向かおうとし始めているところで理不尽に水を差されてしまうと、今まで構築してきたこと全てを否定されてしまったような気になってしまう。それが単純な誤解であったとしても思春期な人たちにとっては致命傷になってしまうんじゃないか?
まだ幼くて、どう転んでも自分のコントロール下にあるうちは「やりたいようにやりなさい」と言っておきながら、意のままに操れないくらい成長すると「言うことを聞きなさい!!聞かないと△△だからね」と様々な手段を使ってでも従わせようとしているのではないか、と思ってしまう事がある。
「言いたいことあればちゃんと言いなさい」と言われ勇気を振り絞って言ってみると「生意気言うんじゃねぇよ!」と一喝される、というような事もある。
理屈じゃないんだ!という声も聞こえる。
そういったこと経験してオトナになっていくんだ!というのも解らないではない。
でもね。10代の心からは、それまでちゃんと鍛えてもらっていない事に加えて、しなくていい苦労をしこたま背負い込まされて、声にならない悲鳴が聞こえてくるよ。
みんなものすごく苦しいんだと思うよ。
今、目の前にある1つ1つのの小さなトラブルの奥には、それぞれ私では到底太刀打ちできない深くて大きい問題が潜んでいるようだ。
単なる吹奏楽馬鹿な私に何が出来るんだろう?
音楽というミクロコスモスにユートピアを見いだし、そこに逃避しているだけじゃないのか?