3Dアート(Three dimension Art)というモノがある。
なんだか訳の判らない絵が描いてあるのだけれど、平行視やら交差視やらという方法で見ると今まで見えなかった物が立体的にくっきり見えてくる不思議なアレ。
やったことがある人はすぐに分かると思う。
一度見えてしまうと、なーるほど、そういうことね、と、さっきまで見えなかったことが嘘なくらいくっきり見えてくるのだが、見えない人はどうやっても見えないのだよね。
一見、たいしたことではないのだけれど、この差は決定的。
見えたか、見えなかったか。
あるいは。
見たか、見なかったか。
次の言葉達に置き換えてみる。
知ったか、知らないか。
理解したか、理解できないままか。
出来たか、出来なかったか。
続けたか、やめたか。
聞いたか、聞かなかったか。
やったか、やらなかったか。
到達したか、到達できなかったか。
合格したか、不合格か。
…
いくら「つまらないモノだから見えなくたって全然構わないし、そもそも見える意味が判らない」と見ることできない人が言ったとしても、見ることの出来る人にとってその言葉は単なる「空々しい言葉」や「見る事が出来ない可哀想さ」はたまた「見ようとすることを放棄している虚しさ」を感じるだけである。決して見えないことを肯定する気持にはなれないだろうと思う。
それは、見えている人が見えていない人より確実に上位に位置することを意味する。
さらに言えば、見えない人は見えることの意味や意義、見えた結果の推移(言い換えるならば、見える人の気持ち)は決して実感として理解できないのであろう。
一度「見えなくても良い」と考えた人が、見えるようになるのはほとんど不可能だ。偶然何かの拍子に見えることがあったりして、再度「見たい!」と思えば別だが。
最悪なのは本当は見えていないのに「見えた!」と思い込んでいる場合。
勘違いがさらなる勘違いを引き起こし訂正不可能なスパイラルに落ち込んでいく。
本人は気が付いていなくても、見える人からすれば見えたか見えていないかは一目瞭然なのだから、その姿は滑稽で哀れでしかない。
「おいおい、嘘付くのもいい加減にしとけや」になってしまう。
見えたか、見えなかったか。
安心してね。見えないことが即ダメなことでは決してない。
見えないことを、謙虚に認め、「悔しい!」と思い「必ず見たい!」と思うならば、いずれは見えて世界が開けるだろう。
また、1つ見えても、当然次の課題が押し寄せ、再度レベルアップした「見えない」にぶち当たるのだ。
結局はその繰り返し。
そして、見えるようになったことはそれ以降、全てあなたの血となり肉となるのだ。自分のスキルとなってあなた自身に幸せをもたらしてくるのだ。
スウィングガールズ風に言ってみる。
世の中は2種類の人間に分けられる。見えた人と見えていない人だ。
さて、あなたは音楽の幸せについて、見えているか?見えていないか?
TSW-NGOな人は見えていて欲しいな。
もしくは、絶対見たい!と思って欲しいな。
…私はそれを信じているからこそ、それでも今ここにいる。