5月
23
曾孫

らしい。ヒンデミットから数えて。だからあなた達は玄孫(やしゃご)だね。

パウル・ヒンデミット (Paul Hindemith, 1895年11月16日 – 1963年12月28日):下総 皖一:兼田敏 と続く。

今までに何度もヒンデミットの曲を取り上げた。
吹奏楽のための交響曲変ロ調(1951年).
ウェーバーの主題による交響的変容(1943年 今配ってあるのはこの第4楽章 行進曲だ。)
など。 
最初にSymphony in B flat を取り上げたときに師匠に教えてもらった。「おまえは曾孫弟子なんだぞ」って。

だいぶ薄まっているだろうが…。

口の悪い吹奏楽仲間から「あんな小難しい曲やったってなかなか評価してもらえないぜ」とよく言われた。
「審査員がヒンデミットわからない人だったら損だよ。」
そんなこと言われても損得で曲を決められないよ。
奥が深いからやってもやっても発見がある。
そのおもしろさはやってみないと解らないかもね。

テスト勉強の合間にヒンデミット調べてごらん?

5月
22
無駄

は大切だと思う。
ただし、無駄を生かす、無駄は生きる、ということを理解していなければならないが。

たとえば。
花にんじんを作る。花にんじんとは花びらのような形をにんじんで作るもの。煮物等の飾りにすると見た目は美しいし、少し贅沢な感じがする。作ると切りくずが出て食べ物がもったいないと思うなら、普通の輪切りでかまわない。味付けが違うわけではないからね。
しかし、切りくずは「ゴミ」ではない、それを使って別の物を作ればよい、と思えば手数は増えるが、品数も増えるし美しい盛りつけで豊かになれる。

たとえば。
できれば失敗はしない方が良い。失敗はダメなもの、悪なもの、と思えばなおさら。
しかし、その失敗で経験値が上がる、生きる為の肥やしになる、と思えば失敗はたくさんあった方がよい。様々な経験をすることでその人の豊かさにつながると思えば、失敗は失敗でなくなる。

以前、自分の中で「豊かさとは無駄の多さである」と定義したことがある。
効率よく無駄なスペースを作らない収納庫は、物の出し入れに苦労する。一度きれいに詰めたら二度と出したくなくなる。

もちろん無制限に大きくても意味がないが。

無くても良いけれど、有って活用すると豊かになれるもの。それを付加価値というのではないか。
「無駄」は必ずしも「浪費」ではない。無駄だから一方的に排除する、のような発想は決して豊かさを生まない。

スクールバンドは経費がかかる。桁違いに大きい。
大きな音が出てうるさい。近所迷惑だし授業後の補習や仕事に支障がある。
毎日遅くまで練習、休みの日も練習、もっと勉強する時間が…。

確かにどれも事実だ。でもそれを無駄だからといって排除する方向に動くと確実に貧相になる。
「バンドが無くなる」といった直接的なことだけでなく、それを維持しようとする心の豊かさが無くなる。その事はつまり「魅力を失う」ことだと気付くべきだ。

しなければならないのは、その一見「無駄」と思えることを活用する方向に発想すること。
実はその発想が既に「豊かさ」なのだと思う。

5月
21
久しぶりに

日誌より。

〜前略
合奏の時、みんなの音がまとまっているって言われました。
まだまだだけど、嬉しかった。
みんながみんなを聴き合って、主張することは言って…。
うん。やっぱり、すごいね。音楽って。アンサンブルって。
後略〜

==

〜前略
マーチングが終わって、合奏室に戻って入った瞬間に合奏室!ってにおいがして落ちついた。
楽器を片付けるために準備室に入ったら曲が流れててみんながいてワイワイ・ガヤガヤしてた。
荷物が置いてある方は、なんかあのぐちゃぐちゃ感がいい。

マーチングやりたい。合奏やりたい。
パート練やりたい。セクション練やりたい。
やりたいことてんこもりです。
後略〜

==

〜前略
んーと わたしもここがとても好きです。大好きです。
準備室のコーヒーの匂いとか、あの人がいろんなことやってる感とかみんなと一緒ですごい落ちつくし、ここにいたいって何かが思わせてくれます。
なんかいい。この空間が何かを変えてくれるのかな。
人に相談なんてできなかった。愚痴を言うのだってこわくて言えなかった。今でもいわなくてすむのならいわないほうがいいけれど。まあ。まあ。
でも、この空間で一緒にすごしてきたTSWの皆なら言えるって思えたし、不安もなかった。うん。 ありがとうの一言ですね。みんなあったかいです。
〜中略〜
いろいろ、いろいろ、重なって思うことはたくさんありますが、ここにわたしはいたい。って最近すごい思います。

==

〜前略
ここ毎日、1日が終わっていくのが悲しいです。なんだかディズニーランドの帰りの気分(笑)”
朝練の時、お昼、午後、一瞬一瞬、「ずっとこれがつづけばいいのに」って無意識に頭に浮かんで、つぶやいてしまいそうになります。
1日が終わってしまうのは、悲しいけど、明日が来てまた明日、TSWでいることが、とても楽しみにおもって、また明日みんなで練習したいと思う。
中学の頃というか、今まで毎日毎日つまらなくて仕方なかったし、毎日毎日明日が来るのが嫌で仕方なかった。生きてるのがよくわかんなくて、ただぼーっと1日がすぎていく毎日でした。
 でも今は、本当に毎日が、楽しい。たまに、めげそうになったり落ち込むけど。
今日の合奏で呼吸の話がありました。
それをきいて、さらに、生きてるって素敵だーって思いました。
呼吸は聞こうとしなきゃ、気にしなくちゃ(相手を)聞こえないもん。生きてなくちゃ、聞こえないから。
後略〜

==

〜前略
新入生の子に「何でこの部活に入ったの?」って聞いた時、うちらの演奏を聴いて、一緒にやりたいと思ったって言ってくれる子がいて、すごくうれしかったです。うちらのやってることが聴いてくれる人に届いている気がしました。
後略〜

進化している実感。
何が素晴らしいかって、ここに書いてあることは「人が生きていることの素晴らしさ」だと思うんだ。
簡単なようで、実はとても難しい。
その難しいことを当たり前に出来ている素晴らしさ。やっと出来るようになった素晴らしさ、かもね。
今私の目の前にいるTSWの宝物達は確実にそれを自分のものにしている。
さらに新入生も進化著しい。

残念ながらどうやっても実感できなかった場合だってあるのに。
その差はとてつもなく大きい。差とは言わないかも。追いつけるものではないから。1 or 0。

5月
19
出演依頼

いなり楽市。
敬老会。
少し先の話では保育園での音楽会。
保育園はかつて呼んでいただいた時の演奏が好評で、再度お願いできませんか?という依頼。
少しずつ草の根で広がっていくTSWの評価。

嬉しいね。呼んでいただけるというのは。
必要としてくれる事の喜び。
音楽っていうのは、そうやって広がっていくんだ。
それが本質だと思う。

「演奏お願いできますか?」
「指導に来てください。」
「みてもらえませんか?」
「いっしょに練習してくれませんか?」
「助けてください!」
呼んでいただける範囲が少しずつ広がってきている。
力がどれだけあるのか判らないけれど、何かのお力になるなら喜んで。
 

逆に「お願いですから来ないで!」と思われるようになったらどうしよう?自分が否定されたと感じて逆上するだろうか?世の中にはそんな人いるけれど。
いや、「邪魔しないで!」と言われ、自分自身もそう感じるのなら素直に引き下がろう。
迷惑となってしまったときに引き下がる潔さは常に持ち合わせていたい。
人の力になれるのか、人の邪魔になってしまうのか、線引きはとても難しいけれど。
なにが迷惑なのか判断するのはとても難しいけれど。
その見極めが出来る人でありたい。
いや、まずその前に人の力になり、皆が頼ってくれる人でありたい。
それが人としての豊かさ深さだと思う。

あっ、大丈夫。目の前にいるTSWの宝物達はみんな線より上だよ。
みんなお互いとても大きな力になっている。それが私の誇り。TSWの誇り。

期待されて、出演依頼が来て、ありがたく1つ1つ丁寧に対応していこう。
あわただしく、行動がばたばたすることは良くあるけれど、だからこそ音楽は心を込めて、じっくりと。
音楽の喜びを広げるために。

5月
19
愚問

ある時ある人に、一度尋ねてみたかった質問をしてみた。
「仏教はどちらかというと性善説ですか?それとも性悪説ですか?百八個も煩悩があるんだから性悪説なのかな?」
すぐさま答えが返ってきた。
「どちらでもありません。中道です。」
「煩悩は悪ではなく、苦です。」

中道(ちゅうどう)とは、仏教用語で、相互に対立し矛盾する2つの極端な概念に偏らない自由な立場による実践(仏道修行)をいう。
by Wikipedia

とても明快で嬉しかった。
と同時に、知る事はやっぱりとても大切だと思った。
聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥。

中道。
うん。自分の言動に照らし合わせてみる。
どうだろう?

比べても全く無意味だけれど、お釈迦さまは、六年間(七年間?)で中道を覚ったという。

5月
17
今日は

師匠の命日。
一日雨だった。

で、新入生歓迎会。
私は雨の中で遊ぶのは慣れている。
今日ぐらいの雨はなんてことはない。(風が強いのは少し困るけれど)
キャンプでも何泊かしてると必ず雨は降る。その都度憂いていたら野外生活は楽しく無くなってしまうから、雨でも楽しむ事を覚えた。
集中豪雨でも、台風でも、そんな事は構わず楽しんできた。
自然は敵対し逆らうものではなく、同化し流れに乗るほうがはるかに上手くいく。

とはいえ、雨の中で遊ぶ事に慣れていないみんなはどうかな、と少し心配だった。
しかし、上手く行く事行かない事色々あっただろうけれど、みんな屈託無く楽しそうだった。明るかった。
色んな工夫があったね。素晴らしい。
新入生の皆さんはどうだったかな。私は色んな素顔を見る事出来てとても有意義だったよ。

濡れたり寒かったりだったろうから、体の調子悪くならないよう気を付けて。
明日から試験週間。
気を抜くな!手を抜くな!

5月
16
適性

つくづく自分はこの仕事に向いていないと思う。いつも思う。

そうあるべきだ、と思ってその理想に近づけば近づくほど、一般的に良しとされることから離れていくようだ。
目指すところが全然違うのかな?

私は常に「本質を見たい」と思うのだが、皆が必ずしも同じように「見たい」と思っている訳ではないことに気が付く。見てしまうと自分に都合の悪いことも見なければならないからかな?

私は音楽という世界にいる。
音楽の価値は、
いくら年数長く音楽活動してきた人でも、5歳の天才ヴァイオリニストにかなわないことがあるのを知っている。
どんなに努力家であったとしても、ほとんど練習しない、しかし持ち声の良い歌い手にかなわないことがあるのを知っている。
「良い」「悪い」はそこにいたる過程ではなく、その瞬間の絶対的価値によることを痛いほど知っている。
音楽という時間芸術であるからこそ、大切なのは二度とやり直しのきかないその瞬間ということを知っている。切り取った「瞬間」が如何に美しく素晴らしいか、のみが重要なのである。

一方、だからこそ教育という場では過程がもっとも大切なのだ。
「なぜそうなったのか?」
「そう思うようになるまでどう心が移り変わったのか?」
「へこんだ気持が前向きになるには?」
過程なのだから時間がかかる。当たり前だ。すぐに答えは出ない。
間違えることもある。萎えるときだってある。苦しくて座り込んでしまうときだってある。
そんな瞬間を切り取りそこだけ見て「なっとらん!」「甘えるんじゃない!」と言ったら救いようがない。
時間の流れの中で、どう推移したかが大切なのだ。
二度とやり直しのきかない「瞬間」の連続を最高に贅沢に無駄遣いしなければ、時間の流れは出来ない。だから、じっくり待つ。(だから教育にエコ[節約・倹約・効率…]はなじまないと思っている。)

私の仕事は、この全く相反する矛盾した二つを同時にやらなければならない。
だから、オトナの都合だったり子供の甘えだったりを許容するゆとりなど無い。
本質を見ようとしなければ何も進まない。生半可なことでは両立しない。
両立しなければ音楽にならない。
音楽にならなければ私のプライドが許さない。
厳しいのだ。

その厳しさに耐えられなくなる。そしてつくづく「向いてない」と逃げたくなる。

吹奏楽部を運営するのはそんなに難しいことではない。(とはいっても他に比べたら大変だよ)
しかし、吹奏楽部でちゃんと音楽をやろうと思うと極端に難易度が上がる。
さらに、それを可能にする環境も自ら作り出さなければならない。これがまた困難だ。分からず屋のオトナ相手で始末に悪い。
バンドはやることだらけ。

それでも、鞭打って「やらねば」と思うのは、疑うことなく澄んだ目でじっと見つめてくる宝物達が目の前にいるからだ。こんな自分でも心から信頼してくれているのだからそれに応えない訳にはいかないじゃないか。
適性が有るか無いかではなく、応える気持が有るか無いかだ。何度も出てくる師匠の言葉「教育は技術じゃないんだ、人だ。」

よく「なんでそんなに頑張るの?」と聞かれる。「手当が出るわけでもないのに」
当然経済的な目的ではない。もちろん自分の立身出世の為でもない。立場確保でもない。
私の中ではわかりきっている。
そしてそれをなかなか理解してくれない同業者がいることもわかっている。

5月
15
スイッチ

を入れらてしまったような。

なるべくそうならないように、と願っていたが。
もしかしたら遅きに失したか?
それとも早急すぎたか?

 

以前ここに書いた。
一度開いてしまったものをふさぐのは難しい。
…私の中で雨は降り続ける。

「無条件に信じる」
のと同意義で、
「手段を問わず守る」
大切な、唯一無二かけがえのない宝物達を信じ守る。

私がやらなかったら誰がやる?
onです。

5月
10
3D

3Dアート(Three dimension Art)というモノがある。
なんだか訳の判らない絵が描いてあるのだけれど、平行視やら交差視やらという方法で見ると今まで見えなかった物が立体的にくっきり見えてくる不思議なアレ。

やったことがある人はすぐに分かると思う。
一度見えてしまうと、なーるほど、そういうことね、と、さっきまで見えなかったことが嘘なくらいくっきり見えてくるのだが、見えない人はどうやっても見えないのだよね。

一見、たいしたことではないのだけれど、この差は決定的。

見えたか、見えなかったか。
あるいは。
見たか、見なかったか。

次の言葉達に置き換えてみる。

知ったか、知らないか。
理解したか、理解できないままか。
出来たか、出来なかったか。
続けたか、やめたか。
聞いたか、聞かなかったか。
やったか、やらなかったか。
到達したか、到達できなかったか。
合格したか、不合格か。

いくら「つまらないモノだから見えなくたって全然構わないし、そもそも見える意味が判らない」と見ることできない人が言ったとしても、見ることの出来る人にとってその言葉は単なる「空々しい言葉」や「見る事が出来ない可哀想さ」はたまた「見ようとすることを放棄している虚しさ」を感じるだけである。決して見えないことを肯定する気持にはなれないだろうと思う。

それは、見えている人が見えていない人より確実に上位に位置することを意味する。
さらに言えば、見えない人は見えることの意味や意義、見えた結果の推移(言い換えるならば、見える人の気持ち)は決して実感として理解できないのであろう。
一度「見えなくても良い」と考えた人が、見えるようになるのはほとんど不可能だ。偶然何かの拍子に見えることがあったりして、再度「見たい!」と思えば別だが。

最悪なのは本当は見えていないのに「見えた!」と思い込んでいる場合。
勘違いがさらなる勘違いを引き起こし訂正不可能なスパイラルに落ち込んでいく。
本人は気が付いていなくても、見える人からすれば見えたか見えていないかは一目瞭然なのだから、その姿は滑稽で哀れでしかない。
「おいおい、嘘付くのもいい加減にしとけや」になってしまう。

見えたか、見えなかったか。

安心してね。見えないことが即ダメなことでは決してない。
見えないことを、謙虚に認め、「悔しい!」と思い「必ず見たい!」と思うならば、いずれは見えて世界が開けるだろう。
また、1つ見えても、当然次の課題が押し寄せ、再度レベルアップした「見えない」にぶち当たるのだ。
結局はその繰り返し。
そして、見えるようになったことはそれ以降、全てあなたの血となり肉となるのだ。自分のスキルとなってあなた自身に幸せをもたらしてくるのだ。

スウィングガールズ風に言ってみる。
世の中は2種類の人間に分けられる。見えた人見えていない人だ。
 

さて、あなたは音楽の幸せについて、見えているか?見えていないか?

TSW-NGOな人は見えていて欲しいな。
もしくは、絶対見たい!と思って欲しいな。
…私はそれを信じているからこそ、それでも今ここにいる。

5月
08
誤変換

パソコンを使うようになってから随分になる。
PC98(MS-DOS)の時代からだから。

その時代からも日本語漢字変換プログラムはあった。ただしあまり賢くなく誤変換が多かった。
しかし、機能が良くないから漢字の間違いが多いか、というと必ずしもそうではない。結局は人間の使い方次第なんだな。
現在の漢字変換プログラムは随分賢いが、それでも一発で変換してくれない場合は多い。しかも、その変換が合っているかどうかの検証は人間がやる。スペルチェックや文章校正機能がワープロソフトにあるが、それでも最終的な判断はやはり人間に頼るしかない。
 

良くある変換で行ったり来たりするのは「者」と「物」。間違えると大変失礼だ。人に対して「物」扱いしてしまうことになるからね。
うっかり、あわてて、文章作ると見逃す。大雑把な私は良くありがち。だから気をつける。

実生活でも?
「者」と「物」を取り違えているのではないか、と感じることがある?
個々の「者」にはそれぞれ感情や意志があり、決して単一な「物」ではないはずなのに、と思うことがある?

日本には”自然物全てに八百万の神が宿っている”という考え方があって「物」にすら感情や意志がある、という文化がある。

単なる誤変換なら訂正すればいいのだけれど…。