5月
06
瀬戸赤津IC

から東海環状、中央道経由で中津川までいき、そこからR19で北上した。
途中いくつかの道の駅に停まりながら。

行き先は、結局いつものように開田高原。

御嶽明神温泉 やまゆり荘まで行き、ハタと考えた。
開田高原キャンプ場はさほど込んでいないようだけれど、やまゆり荘の駐車場は満タンだ。ひっきりなしに車が入ってくる。さすがにGW。車も多いし人は多いし。
しかし、せっかくここまで来たんだからね。

混み混み覚悟で温泉につかる。
ここは鉄分が多いのか、赤茶けた色で濁ってる。
肌はつるつるになる。
飲むと糖尿に良いらしいが、以前一口飲んでえらい目にあったので今回は飲まない。

木曽馬の里や開田高原観光案内所より少し東にある水生植物園に車を停め、ねぐらにする。
山スキーのグループの先客が2台いた。そのうち岡山ナンバーのキャンピングトレーラーを引いたランクルも。
しかし、皆マナー良くとても静か。

¥1000効果でもっと車旅の人が多いかと思ったけれど、ここはそうでもない。
開田は交通の要所でもなければ、特別な観光地でもない。
この時期、観光客が何か目指すモノが有るとすると、蕎麦(最近はたかが蕎麦なのに高いのだ…)と開田高原アイスクリームくらいだな。御嶽山の勇姿も見れるけれど。
だから、ただ通り過ぎる(といってもそれでさえも主要ルートより外れている…)だけの人が多いのだろう。
やっと桜が咲きかけた頃でまだまだ寒いし。

夢を見た。「ごめん、上手くいかんかった…」と一言だけの夢だった。
残念、というより、さっぱりした夢だった。

次の日朝早く、青空の下、双眼鏡片手に鳥を見ながら植物園を散策していたら、馬が来た。
木曽馬だ。大きくなく可愛い。木曽馬牧場から運動で出てきたのだろうか。
せろりが鼻をフフッっと鳴らしてじっと見つめている。
綺麗な馬だ。騎手の合図で国道の歩道を駆けていった。

木曽馬の歴史の本を読んだことがあるが、戦中戦後可哀想な運命だったようで、保護活動により復活してきたが現在でも200頭以下らしい。

開田の風景は特にどうってことのない風景なのだが、いつ来ても何故かほっとする。
自然の厳しい土地だと思う。本州での最低気温記録場所らしい。
しかしそれでも人は生活し、春になり、山々に花が咲く。
里の風景が、人の営みと自然の重みの中で一体となり私の中で絶妙なバランスを保つ。

「この中で生きたい!」と強く思うと同時に「どうやって生きるの?」という現実も知っている。
かつてのように、がむしゃらに「田舎暮らししたい」ではなく、もう少し穏やかに「暮らさせてもらえないだろうか」に変化はしてきているのだけれど。
ま、この類の話は、たまに来る旅行者が軽々しく言うことでないことは分かっている。いつまでたっても夢物語だな。

しかし、ほっとするのは確かだ。なぜだか。

帰りは木曽福島からR19を何故か北上し塩尻経由でR153を南下した。
途中の楢川で、ゲットしたかった蕎麦蜂蜜(蕎麦の花の蜜)が手に入らなかった(生産者が高齢でやめちゃったそうだ)のが返す返す残念。

5月
03
3連休

本番の都合で急に3連休になった。

どこへ行こう?何しよう?

高速道路は¥1000騒ぎでとんでもない。練習行くのにとても苦労したからね。

国道でのんびり車旅かな。
R153、R156、R19、R41、R42、R168…。
でもな、せろりが疲れるからあんまり遠出は出来ないし。

海じゃないな。やっぱり山だな。
渓でも良いけれど、この時期どこ行っても渓は人だらけだから、双眼鏡片手に山の中に入っていこう。魚ではなく鳥を見に行こう。
メシアンにでもなった気分で鳥の姿を見て声を聞く。
…そうだ、録音のツールも持って行こうか。

ただ、さっきからGoogleMapを眺めてるんだけれど行き先が決まらない。

…ふぅ。いつものように行き当たりばったりで良いことにしよう。

5月
02
Outdoor

の会からキャンプのお誘いメールが来た。

その会は20年ほど前、GWに岐阜の庄川水系(旧荘川村)辺りで行っていた釣行キャンプが始まりだ。
後には秋に筏に乗ったり、年末に船に乗ったりもしていたな。
中心な方は私に山やキャンプや釣りを教えてくれた自称「作曲も出来るハンドアマン」。
私の師匠もメンバーだった会。
名前の由来はよく知らないけれど、奇人が集まるという意なのかな。
集まってくる方々はそれぞれの世界では蒼々たるメンバーなのだが、夜な夜なたき火を囲んで酔っぱらう姿から、普段の社会的活躍など到底想像は出来まい。
 

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さて。
庄川は良く通ったものだ。
まだ東海北陸道が出来る前のこと。白川郷が世界遺産になる随分前だ。R156をひたすら北上しひるがのの分水嶺を越える。スキーシーズンは渋滞が酷かった。
御母衣ダムでルアーを投げ、その上流や下流で10mの本流竿を振った。
夏、10泊の大キャンプ中、台風直後の大増水で馬鹿釣りをしたりもした。
小さな支流に入りテンカラの練習もした。
 

ウェーダーを履いて川の流れに入り竿を振っていると、いつの間にか外の音が聞こえなくなっていることに気が付く。聞こえてくるのは心の中の音だけ。(決して源流部の山奥ではなく、里中なので人工物や生活音などが無いわけではないのだが。)

心の中の音と言ってもいろいろ。
自分の(心の?)つぶやき。
心に留まっている誰かの言葉。
ずっと鳴り続けている音楽。
たまに突然降って湧いたように思いがけない人の声を聞いた気がするときもある。
もしかしたら木や虫や鳥や獣の声、あるいは岩や水や風の声(それって精霊っていうのかな?)だって聞こえているのかも知れない。
行動は、流れていく目印をひたすら追いかけていることだったり、ルアーの動きを竿先に感じることだったり、に集中しているはずなのだが、それとは全然別の意識の流れのなかでずっと音を聞いている。
ふと、「チッ、チキチキ チッチッ チキチキ」とカワガラスがドラムマーチのようにさえずり出し、現実の音も聞こえてくるが、人間の営みの音(しゃべり声だったり音楽だったり)は聞こえない。
だから私は、釣れなくても心が安まるのだと思っている。

釣行を重ねるうち、いつの間にか数釣りは飽きてきた。
気持ちの良い釣り方で、コンディションの良い魚が数匹釣れれば充分。
人間だもの、自分が生きていくためには殺生もする、ただ、無駄な無意味な殺生はしたくない。だから釣ったらそれを大切に食事で頂くと決めていた。

川の水は常に流れ、同じ水であることは決してない。風が吹き、雲も流れる。
雪が降り、積もり、解ける。木々は新芽をだし、花を咲かせ、紅葉し、葉を落とす。
そして日は昇りまた沈む。
大自然はシステムなのだ。あらゆるものが関連しあい絶妙なバランスを保っている。それで全てが成り立っている。
自然って凄いな。人なんて全然小さいぞ。と、川の中に立つといつも感じる。
流れに逆らってそこに立ち続けることは案外キツく、かっこ悪いのかも知れない。
自然の流れに身を任せる謙虚さが結局はスマートなのかも知れない。

大自然に逆らうことなく同化できた時に良い釣りが出来るような気がするし。
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KIJIN会。
今年もお誘いを受けたれども、残念ながら参加できそうもない。
庄川水系の支流辺りだそうだ。岩魚の渓だな。
まだ、しばらく釣りは出来そうもない。おあずけだ。
今は現実の音ばかりが聞こえてくる。