の会からキャンプのお誘いメールが来た。
その会は20年ほど前、GWに岐阜の庄川水系(旧荘川村)辺りで行っていた釣行キャンプが始まりだ。
後には秋に筏に乗ったり、年末に船に乗ったりもしていたな。
中心な方は私に山やキャンプや釣りを教えてくれた自称「作曲も出来るハンドアマン」。
私の師匠もメンバーだった会。
名前の由来はよく知らないけれど、奇人が集まるという意なのかな。
集まってくる方々はそれぞれの世界では蒼々たるメンバーなのだが、夜な夜なたき火を囲んで酔っぱらう姿から、普段の社会的活躍など到底想像は出来まい。
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さて。
庄川は良く通ったものだ。
まだ東海北陸道が出来る前のこと。白川郷が世界遺産になる随分前だ。R156をひたすら北上しひるがのの分水嶺を越える。スキーシーズンは渋滞が酷かった。
御母衣ダムでルアーを投げ、その上流や下流で10mの本流竿を振った。
夏、10泊の大キャンプ中、台風直後の大増水で馬鹿釣りをしたりもした。
小さな支流に入りテンカラの練習もした。
ウェーダーを履いて川の流れに入り竿を振っていると、いつの間にか外の音が聞こえなくなっていることに気が付く。聞こえてくるのは心の中の音だけ。(決して源流部の山奥ではなく、里中なので人工物や生活音などが無いわけではないのだが。)
心の中の音と言ってもいろいろ。
自分の(心の?)つぶやき。
心に留まっている誰かの言葉。
ずっと鳴り続けている音楽。
たまに突然降って湧いたように思いがけない人の声を聞いた気がするときもある。
もしかしたら木や虫や鳥や獣の声、あるいは岩や水や風の声(それって精霊っていうのかな?)だって聞こえているのかも知れない。
行動は、流れていく目印をひたすら追いかけていることだったり、ルアーの動きを竿先に感じることだったり、に集中しているはずなのだが、それとは全然別の意識の流れのなかでずっと音を聞いている。
ふと、「チッ、チキチキ チッチッ チキチキ」とカワガラスがドラムマーチのようにさえずり出し、現実の音も聞こえてくるが、人間の営みの音(しゃべり声だったり音楽だったり)は聞こえない。
だから私は、釣れなくても心が安まるのだと思っている。
釣行を重ねるうち、いつの間にか数釣りは飽きてきた。
気持ちの良い釣り方で、コンディションの良い魚が数匹釣れれば充分。
人間だもの、自分が生きていくためには殺生もする、ただ、無駄な無意味な殺生はしたくない。だから釣ったらそれを大切に食事で頂くと決めていた。
川の水は常に流れ、同じ水であることは決してない。風が吹き、雲も流れる。
雪が降り、積もり、解ける。木々は新芽をだし、花を咲かせ、紅葉し、葉を落とす。
そして日は昇りまた沈む。
大自然はシステムなのだ。あらゆるものが関連しあい絶妙なバランスを保っている。それで全てが成り立っている。
自然って凄いな。人なんて全然小さいぞ。と、川の中に立つといつも感じる。
流れに逆らってそこに立ち続けることは案外キツく、かっこ悪いのかも知れない。
自然の流れに身を任せる謙虚さが結局はスマートなのかも知れない。
大自然に逆らうことなく同化できた時に良い釣りが出来るような気がするし。
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KIJIN会。
今年もお誘いを受けたれども、残念ながら参加できそうもない。
庄川水系の支流辺りだそうだ。岩魚の渓だな。
まだ、しばらく釣りは出来そうもない。おあずけだ。
今は現実の音ばかりが聞こえてくる。